ギャルゲー(恋愛SLG)というジャンルの特異性は、「プレイヤー」と「プレイヤーキャラクター」との間に横たわる距離に対する意識という一点に尽きる。そもそも他の種類のゲームにおいては、プレイヤーの意思などというものは実のところ考慮された試しがない。RPGでもAVGでもSLGでも、とにかくプレイヤーは何らかの与えられた目的に向かってゲームを進めて行く従順な存在だという事が暗黙の前提となってゲームを支えているのである(まあどんなゲームであれプレイされている以上は人が能動的にスタートさせたという事なのだから当然と言えば当然だが)。然るに、このギャルゲーと呼ばれるジャンルだけは、ひたすらプレイヤーの顔色を伺いながら、殆ど恐る恐るゲームが進行する。というのも、何しろ恋愛SLGと言う位なのだからプレイヤーは恋愛を擬似体験したいのであり、その際感情移入ができなくなるのはゲームとして致命的だからだ。例えば極端な話、プレイヤーが惚れても萌えてもいない女の子キャラに主人公(プレイヤーキャラクター)が勝手に告白してしまったりしようものなら、ギャルゲープレイヤーは純情だから掌を返されたような気分になってすごく傷ついてしまい、確実にゲームを放棄するだろう(それでも続ける気になるのは一部のバカゲー愛好家だけだ)。女の子と同じ数だけのシナリオが同時に並行的に展開するというギャルゲー特有のシステムも、従って、プレイヤーの意思(どのキャラにどれだけ惚れ/萌えているか)をイベントのクリア状況という形で絶えずチェックし、プレイヤーキャラクターの行動が乖離し独り歩きすることを防ぐために案出されたものに他ならない。
でここで、僕が過去数回の日記で論じてきた「エロゲーにおける主人公の扱い」という問題をこれにぶつけてみたいと思う。エロゲーのプレイヤーは一体誰に感情移入・同一化してゲームを進めているのか。結論から言うと僕はそれには二通りあるのではないかと考えている。すなわちそのエロゲーがギャルゲー寄りの場合には主人公の男性キャラに、それ以外の場合にはゲーム中でセックスしたりオナニーしたりレイプされたり調教されたりする女性キャラ(プレイヤーキャラクターであろうとなかろうと)に、である。この後者に関しては論証が必要だろう。
エロゲーのプレイヤーが、必ずしもプレイヤーキャラクターとは限らない女性キャラに感情移入しているということ。僕はこれをポルノ映画をアナロジーとして考えた(まあ別にアダルトビデオでも良いのだが、僕はレンタルビデオを利用しないせいかAVというものを未だにちゃんと見たことがないので)。そもそもこれまで観た映画の中で自分が一番性的に興奮させられたのは何だっかと思い出してみると、『インモラル物語』Contes Immoraux('74フランス、ヴァレリアン・ボロウチック監督)というオムニバス映画の第2話「女哲学者テレーズ」に行き当たる。なんかおよそ論証とは程遠い個人的な話になって恐縮ですが、後半でちゃんとつながる筈なのでついて来て下さい。でこの映画はポーランド人で実験的なアニメーション映画を作ったりしていた監督が、フランスでポルノが解禁になったのを受けて制作した作品で、同様の経緯で大島渚がフランスで制作・公開した『愛のコリーダ』('76)などと考え合わせても映画史的に興味深い一本だと思うのだがそれはさて置き、歴史上の性のタブーにまつわる逸話を4話映像化したこの作品の第2話が、繰り返しになってごめんなさい、「女哲学者テレーズ」です。原作となった『女哲学者テレーズ』(1785、伝・ダルジャン侯爵作)は1731年に実際に起こった「ジロー司祭とカディエール嬢の醜聞事件」に取材したロココ好色文学の代表的傑作で、アントワーヌ・ボレルの挿画とともにつとに有名な一書であるが、映画は折檻のため物置に閉じ込められた少女がそこでこの本をたまたま見付けて性に目覚め、食事として差し入れられた胡瓜を下のお口で食べてしまうという、まあそれだけと言えばそれだけものだ。この他愛のないオナニー映画がなぜ僕をそう興奮させたのか。理由はただ一つで、この少女が官能に目覚めエクスタシーに達するまでが丹念に描写されていたからに他ならない。
件の艶本を見た衝撃の未だ覚めやらぬ少女が、下着姿になってお祈りをしてベッドに横たわる。体を悩ましげによじらせ、胸を愛撫などし始める。次第に荒くなる息、乱れる髪、漏れ出る切なげな声。やがて胡瓜を手に取り秘所に導く。キャメラはその桜色に上気し汗ばんだ皮膚を舐めるように接写する。比較的肉付きの良い少女を被写体に選び、クローズアップを多用したこの場面におけるボロウチック監督は全く正しい。キャメラに背を向ける形でベッドに座り込み、従って画面には見えないが恐らくは胡瓜を懸命に押し込もうとしているのであろう、小刻みに震えるその背中の肉、或いは横を向いて上体を起こした時に見える、先程とは見違えるほどに固く大きく隆起した乳房、次の胡瓜を求めて苛立たしく皿を把む手、そして使い終わって床に落ちた胡瓜を踏んで潰す足まで、執拗なまでの接写は少女と観客との距離を一気に近付ける。そしてわれわれ(男性観客)は遂に、男など影すら見せないこの個室での自慰行為になぜかどうしようもなく共感し興奮している自分を見出すのだ。例えばロマンポルノの精髄を受け継ぎつつアダルトビデオ草創期への橋渡しともなったとされる代々木忠初期の代表作『ザ・オナニー』('82。ビデオ作品が35ミリにブローアップされて洋ピン専門館で上映され大ヒットしたというのは、今となっては想像すらしにくいが、フィルムからビデオへという歴史的移行の一断面を極めて鮮やかに、例えばデ・パルマやゴダールにおけるビデオの存在よりも遥かに鮮やかに伝えるエピソードと言えよう)は、或いはこの作品にインスパイアされた部分があったのではないかなどと再び映画史の考察へと舞い戻ったりしつつ、それにしても「女哲学者テレーズ」は素晴らしい、こうして思い出す度に居ても立ってもいられなくなる、どころか必ず勃ってしまう。
……僕は今こう書きながら、だいぶ以前(高校生の頃?)何かの雑誌で読んだにっかつロマンポルノに関する一論文を思い出している。今ちょっと手許にないので(探す気力が。雑誌はどっかにとってあると思うんだけど)、確認はできないのだがこういう論旨だった。ポルノ映画において、或いは官能小説でも同じことなのだが、観客/読者は同性である男の方に感情移入して観て/読んでいると思われがちである。観客/読者自身ですらしばしばそのように考えていよう。しかし実際のセックス描写では常に女性の方だけに焦点が当てられており、彼女がいかにして官能を燃え立たせ快楽に溺れ恍惚境をさまようかが極めて綿密に描かれる一方で、男は(射精に至るまでの過程がつぶさに描かれたりは決してせず)黒子同然の扱いを受けている。ここからするにやはり観客/読者は、官能に目覚めエクスタシーに達する女性側に感情移入して観て/読んでいると言わざるを得ない――と。僕はこの説に当時もかなり強い印象を受けたが、今思い出してみてもまことに卓見と言わねばなるまい。論者の名を失念したのは我ながら遺憾である(←だから探せよ。雑誌)。
でエロゲーに話を戻すと、大方のエロゲーはゲーム(通常のAVGなり何なり)へのエロの導入に際して、こうした映画/AV/官能小説において一般的な、女性側に感情移入する形式を採用してきた(他に範とするべきポルノグラフィの様式があった訳ではないのだから当然だが)。そのためプレイヤーキャラクターが男性か女性かは問題でなく、プレイヤーはエロ場面に行き当たるとその都度その場面での女性キャラに感情移入してエロを堪能すれば良かった。然るに、それこそ『To Heart』辺りを一つのメルクマールとして目下も急速に展開しつつあるギャルゲー文脈との接近は、ここに全く別のエロゲーの様式を誕生させることとなった。言うまでもなくギャルゲーは主たるユーザーとして男性を想定するため、彼が感情移入すべきプレイヤーキャラクターも男性とならざるを得ない。もっとも最近では女性向け恋愛SLGなんてのもあるらしいが、しかしそのような性差による分化が要求されるという事実は、まさに恋愛SLGがプレイヤーの主人公への感情移入を前提とするジャンルである事を逆に裏付けるものと言える。そしてこの「男性であるプレイヤーキャラクターに感情移入してゲーム(エロ場面も含めた)を進める」という新しいタイプのエロゲーにおいては、また必然的にエロの導入にも別の手法が採られねばならない。で、これはエロゲー経験のまだまだ浅い僕の印象だから話半分で聞いて貰いたいのだが、どうもギャルゲー寄りのエロゲーは一般に、それまでの純然たる(というか何というか)エロゲーに比べてエロ部分が弱くなる嫌いがあると思うのだが、それは或いはこの「別の方法」が方法としてまだ完成していないためではないか。これからもまだあと数回は続けるつもりのこのエロゲー批評においては、従ってこの事が一つの大きな論点となるであろう。筈。多分。できれば。
(それから最後に、当たり前ではあるけれど僕は男性だから以上の考察は全て男性エロゲープレイヤーの立場からのものであり、女性がプレイする場合にはどうなるのかは考察の対象から外さざるを得なかった事を付け加えておく。知りたい人はこの人とかに聞くといいらしいです。僕は怖くて聞けない。)
いわゆる文芸誌というものを僕はほとんど読んでいなくて、まして買うことなどなくて、たまに図書館でパラパラとめくって見る程度なのですが、先日久し振りに学校へ行ったので図書館にも寄ってここ数ヶ月分に目を通したところつくづく感心してしまいました。まさかここまで凄い事になっているとは!! とか。
凄いというのはまずその二極分化っぷりで、一方では文学オタク同士の内輪話があり江藤淳追悼とかを相も変わらずせっせとやっているのだけれど僕にはサッパリ話が通じなくて、で他方には作品はともかくとして作家をタレント的に売り出そうとする動きがある。後者は具体的に言うと「J文学」という気恥ずかしい言葉をデッチあげてしまった事で有名な『文藝』という雑誌で、目次を見て驚いたのだが作品名より作家名の方をデカデカと掲げているのだ。雑誌の体裁自体もこれまでの文芸誌の辛気臭い表紙画や字体を取っ払って、類似性を辿れば
『文藝』 → 『リトルモア』 → 『クイックジャパン』 → 『ロッキング・オンJAPAN』
と容易に繋がってしまうような、字が多めのサブカル誌みたいな感じだ(但し載ってる広告は依然辛気臭い文学書でそのギャップは面白い)。そして誌面にはやたらとあちこちに東京、というより「トーキョー」という文字が目に付く。なるほど「J文学」小説が渋谷のパルコブックセンターや青山ブックセンターでベストセラーになるのも理解できようというものだ、つまり東京に対して変な幻想を抱いて地方から上京して来た若者(専門学校生とかフリーアルバイターとか)が主な消費者層になっているのだろう、阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』が子供の頃から渋谷を知っている人間ならまず確実に持ち得ない野暮な情熱を持って渋谷という退屈な街を丹念に殆ど興奮気味に描写して回っていたのも尤もな事だ、と僕はこういう話になると自分でも驚く程反動的な差別主義者になって、それこそどこの誰が見るか分からないWebなんぞに書こうものなら軽く3回は殺されそうな差別的言辞を弄しつつ、自分が要するに「東京という田舎」の人間であることを暴露してしまう訳ですが、まあそれはどうでも良くて、二極分化。
硬派な人たち(『群像』とかの)は無論こうしたチャラチャラした皮相な小説を風俗現象扱いして黙殺し、逆に当の『文藝』及び何ほどかそっち寄りの人たち(例えば『新潮』に時評を書いている椹木野衣とか)はこれこそが今日においてリアリティを持った作品なのだと擁護している訳だが、こういう争いは詰まらないと思う。もちろん単純に考えて勝つというか生き残るのは後者であって、現にそこそこ売れているのだし第一年が若いから年寄りよりは長く生きるに決まっている。いつの時代にもそうであったように彼らが単純に自然的な世代交代の結果として文壇の中心に位置する日もそう遠くはないのだろう。良かったな。未来の文学は君たちのものだ。まあ中には若いに似合わず硬派な人もいるが、平野啓一郎だって結局はその硬派な昔風なクソ真面目だがその分まだ可愛げのあった文学青年的な雰囲気が受けて売れたのだからやってる事は変わらない、というか「J文学」などとブチあげた人たちは予想だにせぬ方面から芥川賞&ベストセラーが出ちまったもんでその手があったか! と歯軋りして悔しがってるに違いない(って下世話なやっかみですいません、どうも育ちが良くないもので)。で話を戻すと、言うまでもなく小説家がタレント的に大衆の好奇の視線に晒されずにいた時代などないのであって、そもそも小説というジャンル自体が新聞(ジャーナリズム)と同時に発生している訳だが、それにしてもここまでひどくなった事もまた嘗てない訳で、その(取り敢えず)直接的な端緒を求めるならやはり’70年代に行き着くだろう。つまり政治や天下国家を語らず反インテリ的で風俗的であった「第三の新人」が、いつの時代にもそうであったように単純に自然的な世代交代の結果として文壇の中心に位置してしまい、村上龍のような風俗的(映画を作ったりして小説以外の場でメディアに露出することが多いというぐらいの意味で)であることと純文学であることが両立しうる作家が出現し、’80年代になるとこの傾向はいよいよ顕著になり高橋源一郎のようにろくに小説も書かない小説家というあり様が可能になり(多くの読者は高橋が書き飛ばす膨大な量のエッセイは読むが小説など読んではいない)、そして’90年代末の現在ついに作家という存在は作品を追い抜いてしまった。作家はもはや小説を書く必要がなく、インタビューに応じ写真を撮られ座談会に出てたまにはテレビにも出ることが仕事となった訳である。
もちろん僕はこういう現状に不満や失望を感じてなどいなくて、小説家が小説を書かなくても良くなった、小説から解放されたというのは寧ろ良い傾向だと思っている。’90年代、特にその後半は小説が嘗てないほど書きやすいと同時にまた嘗てないほど書きにくい時代だった気がするが、つまり世界的には原理主義が擡頭し国内でも凶悪事件が多発しおよそ規範というべきものが崩れ去った事が誰の目にも明らかになり、それこそ『文藝』でも以前特集を組んでいたと思うが「なぜ人を殺してはいけないのか」といった’80年代なら冗談でしかなかった根源的で哲学的な問いがこの上なくナマな形で露呈してきたのだから、小説家はネタに困るどころか全力を傾けて仕事し甲斐がある筈なのに、なぜかそうはならなかった。これは単純に言って小説というものがそれ自体そんなアクチュアルな情況に反応する力を失っているためであり、個々の作家の努力や才能の不足を責めたところで始まらない問題であり、その原因を「小説は産業資本主義に平行して発生・普及したジャンルであり差異を動力とするものだが、日本では被差別部落という差異を持ち得た中上健次を最後にもう動力となる程の大きな差異が存在しなくなったためだ」とか柄谷行人風に理論づけるまでもなく実際の作品を見れば一目瞭然の事実である。そしてそのような情況下で小説家たちが小説に見切りをつけ小説以外のことに活動の場を求め始めたことは寧ろ当然の成り行きであり、21世紀には小説など書いている小説家はいなくなるだろう。そのように考えるとまともな小説を一行も書かず(書けず)、その癖小説家という肩書きを外すこともなく(出来ず)、下らないエッセイばかりを書き飛ばしながら小心翼翼右顧左眄付和雷同を貫いて文壇(文学業界)内での地位向上と保身にこれ努めてきた高橋源一郎の態度は、紛れもなく小説家的であり先見の明があったと言わねばなるまい。
……あんまり無責任な正論ばかり書いていると怒られそうなので本題に入ります。エロゲ。
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『魔性の貌』('97 ミンクソフト)
日々セックスへの興味で悶々としているごく平凡な高校生が主人公だ。どのくらい平凡かというと、家族構成が若く美しい義母とその娘である血の繋がらない妹だったり、同じクラスにセクシー女子校生(年に似ずガーター着用)が転校して来たり、かと思うと何とこいつが義母の姪か何かにあたるそうで一つ屋根の下暮らすことになったりするくらい平凡なのだ。エロゲーの主人公としては。
しかしまたエロゲーの主人公の癖に妙に性的に潔癖症で、例えば智という幼なじみに対して高校生らしく淡い恋心なんぞ抱いたりもしているのだが、これが無闇とプラトニックで「智はオナニーなんかしない」といった理想的願望を頑として譲らなかったりする。こんな奴だから件のセクシー女子高生・麗華の影響で周囲の女どもが性の悦びに目覚め深みにはまって行くというストーリーも人間から獣への堕落としか見なされず、やけにまだるっこしい話が続く。
ともあれ女教師・義母・義妹・智と順次セックスして(というか麗香によってさせられて)、ようやく主人公も堕ちて、家族水いらずの性宴を日夜繰り広げるようになる。でこれでメデタシメデタシかな、それとも何かオチをつけるのかなと思っていると、突如リビングに件の女教師が悪鬼の如き形相で出刃包丁を振りかざして乱入して来る。
「麗香ぁーーーッ!! 殺してやるぅぅ!!」
ムチャクチャ怖かったです。画像がとれればぜひお見せしたかった。
でここで誰をかばうかによってエンディングが決定する。マルチエンディングであるにも拘わらずエンディングの決定要因が終盤に集中しているためそこのセーブデータを取っておいてやり直せば見る見るうちにエンディングが溜まるという辺りは、プレイヤーの負担を考慮した作りになっていると言えよう(違うけど)。で最後はモノクロ写真(いや、CG)を背景に各登場人物のその後が表示されるというありがちなものなのだが、この部分のテクストが本当に良く出来ているので何としてでも全エンディングを制覇したくなること請け合いだ。というかこれがこのゲームの本体だ。それまでは全部クソ長いデモだ。
例えば麗華について、
「事件により死亡。死因は、腹部動脈の切断による出血多量。享年19才。」
といったテクストの投げやりさ加減はどうだろう。或いは義妹が
「事件後、何とか普通の生活に戻る。短大卒業後、無事就職。しかし、仕事の帰りに複数の男達にレイプにあう。昔の事件と重ね合わせ思い悩んだ末、自殺。享年21才。」
うーん。いいのか。
更に素晴らしいのが先生(殺人鬼)で、3つばかり拾ってみると、
「事件後、すぐ失踪。今だ行方不明で、指名手配されている。噂では、金の為に身売りし、トラブルに巻き込まれ既に死亡したらしい。」
「事件後、錯乱状態の中、繁華街にて刃物を振り回し、通行人五人を殺傷し逮捕される。幾度か法廷での争いを繰り広げたが、精神鑑定の結果、精神障害は認められず、終身刑となる。現在も、刑務所にて服役中。」
「事件後、錯乱状態の中、繁華街にて刃物を振り回し、通行人三人に重傷を負わせ逮捕される。精神鑑定の結果、強度の精神障害と判定され療養。五年後に無事退院、それからは人ごみを離れ、修道院に入信。以後、そこで一生を過す。」
他にも智が植物状態になって生き長らえているとか何だか救いようのないものばかりで、プレイ後の印象としては『-私-』に近いものがあった。ひょっとするとエロゲー界には’70年代のピンク映画・にっかつロマンポルノ・エクスプロイテーション映画(洋ピン)の持っていた「エロの後に残る虚無感」というテイストを受け継ごうとする一派があって、これもその人たちによる作品なのかも知れない。まあ僕は詳しくないんで確言はしないが。
『Xchange』('97 CROWD)
これまた弱気でごく平凡な高校生が主人公だ。どのくらい平凡かというと、家族には当然義姉がいたり幼なじみが毎朝起こしに来てくれたりするくらい平凡なのだ。エロゲーの主人公としては。
弱気な奴だから化学部という地味な部活に所属している訳だが、ある日部長(メガネっ娘)の発明した怪しげな薬品を頭からかぶって身体が女の子に変化してしまう。でそれから数日女の身体(しかもすごく感じやすい)で学校生活を送るというのが筋で、良い気になって義姉や通学バスの痴漢や妖艶な保険の先生の誘惑に応じまくっているとバッドエンド、それを適度に拒みつつ過すと幼なじみや部長とラブラブでハッピーエンド、というもので、まあエロゲーとしてはそれなりに佳作の部類に入るのではないだろうか。絵は下手(遠近法とかがヘン)だったりもするが描画数は結構多いからゲーム的には好印象だし、選択肢の総当たりが要求される僕の嫌いなタイプのAVGではあるが、一回のプレイ時間は短いしメッセージのスキップも可能なので幸いそうタルくはなくいし、とりたてて魅力的なキャラや深いシナリオもないつまりはギャルゲー的要素のない純粋なエロゲーで、後くされなくエロだけを堪能して終える事ができる。体内の血液の分配が明らかに下半身に集中している感じで、その分多少頭に血が回らなくなっているのも、エロゲーなのだから賞賛こそすれ決して批判されるべき事ではない。
例えばゲーム中には、朝いつものようにバスに乗ると車内ではOLや女子高生が男たちに堂々と犯されまくっているという極めてレベルの低い超現実的場面があるのだが、ここの説明の付け方など実にイカしていた。
(嘘ぉーっ!、このバスってもしかして・・・・噂に聞いた・・・・)
(どうりで混んでないはずだわ。ど、ど、どどど、どうしよう!?)
どうやらこのバスでは、痴漢やレイプ願望のある女性が集まってくるらしい。
「噂に聞いた」って、有名なのかい、それ。
いやまあ、そんな事はどうでもよろしい。僕がこのゲームを取り上げようと思った理由はただ一つで、主人公の性が転換するというこの設定である。薬品とかの力で性転換してしまうという話自体は映画とかでもたまにあるので特に独創的ではないのだが、ことエロゲーの主人公となると事情が異なってくる。大体エロゲーと一口に言っても様々で、旧来のAVGをベースにエロを加味したものから始まり、SLGと組み合わせたり麻雀とかと抱き合わせたり、歴史的には後発するジャンルであるギャルゲー(恋愛SLG)の文脈を導入したりと色々ある訳だが、その際プレイヤーは一体誰に感情移入・同一化しているのだろうか。そしてプレイヤーキャラクターが男の場合と女の場合とではどう違うのだろうか。もちろん一番単純に「エロCGが見られれば何でもいい」と言い切ってしまうのもアリだろうが、少なくともこの『Xchange』に関しては僕は女の体を持った主人公の視点からプレイした訳だし、また逆にギャルゲー寄りの作品では女が主人公になる事がないというのも事実なのである。とか考えてもなんか結論が出そうにないのでとっとと次の作品に行ってみよう(根気なし)。
『Eye's ~あなたの瞳にうつるもの~』('98 Escu:de)
一見したところ何の変哲もないそこそこの出来のエロゲーである。実際傑作と言って大推薦する気には余りなれない点が少なからずあり、まず絵がダメだ。下手(遠近法とかがヘン)というのもあるがそれ以前に描画数が極端に少ない。人物の表情の変化もロクにないし、更に背景画の少なさがそれに追い討ちをかける。せめて「学校を出た所」と「家を出た所」の絵ぐらい別にした方が良いと思うぞ。ゲームを構成するには明らかに数が足りてないから、プレイしていてひどくチグハグな印象を受ける事間違いなしだ。更には声優もダメだし、主題歌のヘボさ加減に至っては耳を塞ぐしかない。要するにその程度の一山いくらのエロゲーなのだが(そして実際僕は申し訳ないほどの安値で買ったのだが)、にも拘わらず僕はこの作品にひどく動かされたことを否定できない。なぜか。
話は学園もの。主人公はギャル(エロ)ゲーにおいて殆どパターン化している「適度に不真面目で反抗的で女の子にはモテるがクラスでは割と孤立しているニヒリスト」といった性格づけで、お約束の「そんな主人公に付きまとうちょっと気の弱い友人」もいたりする(これは昔のマンガの「番長とメガネ君」パターンの隔世遺伝なのだろうか?)。でその主人公が担任の美人教師に呼び出されて、これからの一週間で三人の女の子達と知り合って欲しいというよく分からない依頼をされるという話なのだが、この程度の無茶な設定ならギャルゲーにはゴロゴロしているからこれもまた特に『Eye's』を異色ある作品となす要件とは言えない。僕が感心したのは、まずこの主人公の内面の変化が描かれているという点である。すなわちストーリーが展開し女の子との人間関係に葛藤が生じるにつれて、これまで友達も作らずまして将来の夢など持たずただ漫然とニヒリスティックな態度をとっていた自分に疑問を覚えるようになる、というテクストになっており、「まあこんなもんか、アリガチなエロゲーだな。」とタカをくくってプレイして行くとかなり驚かされる。前述の「適度に不真面目で(中略)ニヒリスト」というパターンを言わば逆手にとったこの展開には思わず唸ってしまった(まあ製作者側にはそんな深い思惑はなかったと思うが)。
実際このシナリオはある意味かなり注目すべきものがあると思うのだがどうだろう。勿論どこまで行っても「一山いくらのエロゲー」だから、人物の描き方がどれも類型的で魅力に乏しいとか、伏線が生かされない所があるとか、単純な日本語の間違いも少なくないとかダメな点は多いのだが、にも拘わらず幾つかの点で重要な問題を提起しており極めて刺激的と言えなくもない。例えばこのゲームもまたありがちなマルチエンディングのマルチシナリオなのだが、通常ギャルゲーでマルチシナリオというと、選択によってシナリオそのものが分岐して複数のエンディングに流れつくというAVGにおけるそれとは若干異なり、攻略対象となる女の子の数だけシナリオが用意されていて、プレイヤーはイベントをこなす事でそのシナリオを別個に且つ平行して進めて行き、で一つのシナリオに関して最後まで行くとその女の子のエンディングが見られたという事になる、というものだった筈である(一人の娘に対して複数のエンディングが用意されている場合もあくまでバリエーションであり本質的には変わらない)。この『Eye's』も基本的にはそのパターンを踏襲してはいるのだが、注目に値するのは各シナリオが完全に独立した平行線にはならず相互に侵食し合うような構造になっている点だ。詳しく言うと、このゲームのシナリオは最初に先生から言われる三人の女の子のうちどれを選ぶかでまず三分岐し、更にそのそれぞれの分岐において二人の女の子が攻略可能である(つまり総計6つのシナリオ・6人の攻略対象が存在する)。そして6本どのシナリオでも6人の女の子が登場はするのだが、その現れ方や台詞(要するにイベント)は各シナリオによって異なっており、一つのシナリオでエンディングまで行ったからと言ってその娘の全イベントが見られた事にはならないのである。
……我ながら説明がすごく下手で申し訳ない。こういうことだ。例えば美代という娘は不治の病の妹がいて放課後は病院へ見舞いに行っているという陳腐なお涙頂戴シナリオなのだが、他のシナリオを選んで進めている際にはそうした立ち入った事情は明かされず、たださりげなく「じゃあ私はこの後寄る所があるので」といったそちらのシナリオを示唆する台詞があったりする。言い換えれば美代という一人のキャラを、美代シナリオを中心としながらも他のシナリオからも言わば取り囲む形で多面的に・複数の視点から描こうとしているのであり、複数回プレイしているとポンと膝を叩かされること請け合いだ。
とにかくこのような幾つかのシナリオ上の試みに関してはこの作品は決してバカに出来ないものがあると思う。たとえせっかく優れた試みをしていてもゲーム自体が余りにショボくて生かし切れていない憾みがあるとしても、だ。ちなみに初めの先生の依頼(「実は先生は今年で退職して探偵になろうと思っていて、主人公をその助手として雇おうと考えテストした」といった心底しょうもないオチが付くのだが)に関連して、ストーリー上の欠点、という程のこともないのだが弱点があり気になったので書いておくと、幾人かの女の子及び主人公は終盤、女の子に近付いた理由が先生に依頼されたためだった(つまり動機が外的であった)ことを妙に気に病むようになる。気持ちは分かるのだがこれは物語的には無用な葛藤だから上手く誤魔化すべきではなかったか。つまり19世紀のウェルメイド劇(レハールのオペレッタ辺りに最も分かりやすい形で顕れている)に始まりハリウッドの娯楽映画(典型例としてビリー・ワイルダーとI・A・L・ダイヤモンドによる脚本)に引き継がれ今も続くウェルメイドな恋愛物語においては、外的強制によって引き合わされた二人が恋に落ちハッピーエンドに至ることは些かも珍しくはない、どころか殆どそれがパターンですらあり、しかもその際動機の「不純」さは最終的には巧妙に無視されるように出来ている。恋愛SLGは動機がないもの(高校の1年間を過ごしながら女の子と出会う等)とあるもの(「あなたに…あ・い・た・い」という怪文書を受け取る等)に大別されるが、後者を選んだからには物語上の要請に過ぎない動機を内面的な葛藤として摂り込んで扱うのはやはり余計なことだったと思う。
もっともこの弱点はシナリオが要求したものとも言える。そもそも主人公の内面の変化がここまで執拗に描かれるギャルゲーがこれまであったかなかったか、寡聞にして知らないが恐らくはなかった筈であり、主人公は常にプレイヤーが感情移入・同一化しやすいように、没個性的にと言って言い過ぎなら少なくとも固定的な性格に設定されていた。然るにこの『Eye's』は、決して上手いとは言えないが恋愛のジレンマを描くという一点において殆ど無駄と言っていいほどの徹底性を追求した結果、主人公の固定性という制度を突き破ってしまっている。例えば一人の女の子の告白を退けて他の女の子を選ぶというギャルゲーに得てありがちな展開は、普通ならばちょっとした良心の呵責の描写で済ませてさっさと選んだ女の子とのラブラブな世界の描写へと移るものだが(本質において浮気ゲーである『WHITE ALBUM』ですらこの点に関してはそうなっていた)、『Eye's』は同じこの展開をイヤというほど徹底して内面的に描き切る。その結果後味が悪くなろうともお構いなしとでも言わんばかりに、主人公が自分の人間的な卑小さに気付かされ狼狽え苦悩し絶望するまでを容赦なく描き切る。ここまで「濃い」、人を無意味に疲れさせるギャルゲーは他にはない。僕がこれを傑作とは言わないが傑作にはない力強さを持った作品として高く評価する所以である。
まあそんな訳で僕にとってはこれはそうした色々な意味で重要な作品だ。特に最初に選べと言われる三人のうちの一人である夢という女の子、このキャラには相当「してやられた」という感じだ。ぱっと見た感じは活発系かと思ったのだが違って、初対面で人の尻を触ってくるので不思議少女かと思ったらそれもまた違って、実は単にイッちゃってる人だった。その「逆セクハラ」以降も、「校庭で踊る」「石を投げ付けてくる」「朝っぱらから窓ガラスを割って主人公の家に侵入」「職員室の金を盗む」等かなりヤバめの行動を連発してプレイヤーを不安に陥れる(犯罪だし)。ギャルゲーキャラの類型として既に定着している「可愛い不思議少女」(本作では春奈という娘がそれに当たる)というのは無論現実には存在しない訳だが、こういう人は実際たまにいて電車の中とかで奇声を(検閲)とにかく、エロゲーにおける主人公の扱いという問題については稿を改めて論じたい。
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調子に乗って異様に長々と書いてしまいました(ごめん)。最後の奴はやっぱ誉めすぎかね。あと今気付いたんだけどこのレビューっていつもネタバレまくりで(今回は特にひどい)、しかも人物紹介とかシステム説明とか僕が書く気のない所は全部省いてて、こういうのはレビューとは言わないよな。だから次回からはエロゲー批評と改称します。逃げで。