アシュタサポテ :: 過去の日記 :: 2000-03

日記 :: 2000-03


2000-03-18

『雫』('96 Leaf)

 えーと、一作目は学園もの。虚無的で妄想癖のあるちょっと(かなり)暗めの主人公が、夜の学校で起こる怪事件について調べるようにと、叔父でもある教師に依頼されて、調査を進めるうちに狂気と毒電波の世界に足を踏み入れ……という、サイコホラーとか何とか言うのだろうかそういう話で、舞台設定としては大槻ケンヂの『新興宗教オモイデ教』あたりを想起することも出来よう。テキストを読むことがゲーム進行のメインとなるだけあって、流石に文章はちゃんとしている。やや繰り返しが多くて冗長なところもあったが、それでも凡百のエロゲーのメッセージ(国語1)に比べれば驚くべき仕上がりだ。何よりも誤字脱字がないのが良い。いやマジで。イヤミでも何でもなく。実際昨今の(昔からか)エロゲーのテクストのデタラメさには殆ど目を覆わしむるものがあって、「意外と」を「以外と」と表記するのなんかは基本だし、「~であること間違いなし」と「~であること請け合いだ」をくっつけて「~であること請け合いなし」と言ってみたり(意味逆です)、他にも「火事に見回れた」とか「知る予知もなかった」といった衝撃的なメッセージが表示されることも決して珍しくはないのだ。まあ予知はないよな、確かに。

 さて話を戻して『雫』なんですが。絵的には今見ると正直ちょっとキツいかなという部分もあるが、音楽ははっきり言って素晴らしい。「瑠璃子」なんか聴く度にあの夕焼けの屋上の場面を思い出して切なくなる。とか珍しくプレイした人にしか通じない感嘆の一つも書きつけてみたくなる程だ(以後気をつけます)。いや正直、個人的にこれはかなりキた作品で、自ら狂気の扉を開きたいと願うまでに現実と日常を嫌悪する主人公と、その扉を既に開いてしまった瑠璃子さんとの、これ以上ねじれようがない位ねじれた恋(という言葉は適当かどうか)の物語は、僕をどうしようもなく感動させる。ヤバいですか。ほっといてください。そしてそういう意味ではこれは僕にとって『To Heart』などより遥かに重要な作品なのだが、しかしここで言いたいのはその事ではなくて、作品構造上の問題、すなわちこの作品は、例えば裏シナリオでも主人公が太田さんに遮られつつ言おうとするように――

 「じゃあ、アレみたいなもんか。ある程度シナリオをクリアするとフラグが立って、別のシナリオが始まるという、かまいた…」

 「かまいた…」。まあそういうシステムを採用しているわけだ。で、そのためプレイヤーは初めやっただけでは話の中で何が起こっているのかすら理解できず、全ての真相が明かされるトゥルーエンドに辿り着くには少なくとも4回(だっけ)のプレイが必要になる。しかし面白いのはこのトゥルーエンドが、確かに物語の謎は解明されるのだがそれによって唯一の「正解」として機能している訳では決してなく、それどころか全部で十幾つかのエンディングがバッドエンドも含めてほぼ全て基本的に同等の扱いをもって作られているということで、実際例えば主人公が毒電波を暴走させてしまうあの戦慄的なバッドエンド(「トースターのコンセントが」という奴)などは幾つかのハッピーエンドより明らかに優れているくらいだし、上述の裏シナリオ(爆笑もの。というか明らかにやりすぎ)も実は恐らくその枠内で捉えるべきものだし、或いはトゥルーエンドにしても、単に余りに救いのない話だからというよりもそれが繰り返しプレイによって物語に対する理解が深化する過程において現れるからこそあれだけの衝撃を持ち得たのだとも言えるだろう(僕は一週間くらい立ち直れなくなりました)。そのため論点は、こうして中心を持たずに並列された複数のシナリオが繰り返しプレイの各回に宛てられた形で束ねられている、言い換えれば同じ舞台・人物設定の上で展開する複数の物語がプレイ履歴による順序制限を伴って撚り合わされることで総体としての作品を成しているという、前例がなくはないがやはりかなり独特のシナリオシステムに絞られてくるのだが、ともあれ詳細はこのシステムが更に徹底化される『痕』のレビューに続く。続け。


『痕』('96 Leaf)

 いや、でも実際一本のゲームでここまで泣けて抜けておまけに笑えれば文句なしですよ。という感じの(だと思う)、期待をかけられつつ出た2作目がこれだ。ちなみにエロゲーで泣いたとか感動したとか言うとものすごく軽蔑する人が世の中にはいるが、そしてその気持ちは分からぬでもないが、しかし男の子というものはエロゲーのない昔から、例えば映画で言えば『グローイング・アップ』シリーズのように泣けて抜けて時には笑えもする作品を見て大人になるものであったという事実ぐらいは心得ておいて欲しい。

 さて話を戻して『痕』なんですが。お話は今度はゴシックホラー風。つまり田舎の旧家、美人姉妹、その地方に伝わる鬼の伝説、血の宿命、そして惨劇……といった具合で、日本だと横溝正史とかを思い浮かべても良いかもしれないが、しかしゴシックホラーとして典型的というよりは単にアリガチで余りに凡庸なこれらの道具立てには、僕は正直言ってちょっと引いてしまった(一人称の語り手の信憑性が揺らぐのも常套手段だ)。しかも話の核となる四姉妹がまた「さあ萌えて下さい」と言わんばかりのキャラ揃いで、まあおよそ萌えキャラというのはそういうものなのだが、これもちょっとどうかと思う。萌える前に身構えてしまうというか。何しろ見事な四層濾過構造で大抵の奴はまずどっかに引っ掛かる。全部引っ掛かる奴もいる。僕? 僕はまあ、敢えて一人と言うなら無難に四女・初音ちゃんかな。すごく素直で良い子だし、やっぱお兄ちゃんと呼んでくれるのはポイント高いよネ~! といった具合に、気がつけば萌えている俺達がそこにいた……。

 いるな。そこに。

 さて話を戻して『痕』なんですが。相変わらずしっかりした文章と良質の劇伴に乗って展開するサスペンスは確かに面白いし、絵も随分上手くなっている(薄明かりに照らされた裸体の描き方なんて実に美しかったと思う。大体肌の塗り方がとても綺麗だ)のだけれど、それ以上に僕が注目したいのは既に言ったようにその全体が乗っかっているシステムのほうだ。一回やっただけでは話が見えてこないというのは『雫』と同じなのだが、『痕』ではそれがもっと徹底化されている。詳しく言うと、初プレイ時に語られるのは「主人公が自分が化け物になって人をバリバリ殺すという悪夢から目覚めてみると、それと全く同じ猟奇殺人事件が現実に起こっていてビックリ。」というアウトラインだけであり、結末は何だかよく分からないまま終わってしまう。で2回目以降のプレイに入ると、基本的な流れは同じなのだが分岐がちょっとずつ変化するため、悪夢の原因と化け物の正体が分かったり、分からなかったり、かと思うと殺人事件は起こらず前世の因縁が語られるだけの物語になったりする。そしてその都度のシナリオで四姉妹の一人が前面に出る形になっているのであり、その意味ではこれは「ギャルゲー」式のシナリオ構成(→用語集参照)と言えるのだが、ただ各シナリオが同時並行展開はせず繰り返しプレイの各回に振り当てられているというのがゲームとして最大の特徴であり、またこの作品の与える感動の重要な部分を成してもいるのだろう。

 まあ例えば猟奇殺人事件の謎と前世の因縁という二つの話が、もちろん物語の全体が見えてくれば繋がっている事が分かるのだが、シナリオとしては全く別個に展開するため乖離しかねない危うさを感じたとか、物語の鍵となる「鬼の血」という民俗的なモチーフに関して肝心なところでSFを持って来て説明してしまっているのが、「鬼」と言ったらそのまま鬼で押し切ってしまえない弱さというか物語的な強度不足のごときものを感じさせて惜しかったとか、或いは例えば三女・楓の話が核心的であるためかなり力を入れて書かれているのに比べ次女・梓のシナリオは何だか『雫』の焼き直しみたいでぞんざいで寧ろ柳川の方が印象が強いくらいなのだから不憫なものだなあ、それも単にシナリオとしての出来にバラつきがあるというのならシナリオライターの怠慢なりむら気なりに原因を帰すことも出来ようが(初音シナリオの冗漫さはまさにこれだ)、この場合は総体としての物語を複数のシナリオに振り分ける段階で重要なシナリオとそうでもないシナリオの偏差がかなり必然的に生じてしまっているだけに一層厄介だとか、それにしても柳川シナリオは泣けた、個人的にはこれが一番キたくらいだ、ヤバいですか。ほっといてください。とか、おまけシナリオも今回はいまいちで、例えば「飲むとどんな物質も通り抜けられる薬」の話は吉沢景介の「できすぎ」というショートショート(星新一編『ショートショートの広場1』所収)のパクリというより単なる書き写しだというのは一部では有名な話のようだけれど、そもそも「できすぎ」自体が全然面白くないパクるにも値しない凡庸な作品だったのが何より残念だとか、問題点は色々思いついたのだがもちろん普通にプレイしている限りでは十分面白いから気にならないし、第一これだけ複雑なシナリオ構成をやっておいて物語に破綻を来さないというのは大したことだと素直に思う。

 そんな訳だから、恐らく世間一般の評価としてはこれは『雫』よりも優れた作品ということになるのだろう。既に述べた幾つかの点(絵が上達した、キャラが見事に萌える、物語的にももちろん上出来、等)に加えて、ボリューム的にもやや小ぢんまりとまとまってしまった感のある『雫』に比べてかなり手応えというか厚みを感じさせる仕上がりになっているし、個々のシナリオの出来を見てもほとんどハズレなしだ。大体この脚本家(高橋龍也)は、『雫』の時もそうだったが「最後の一行で巧く落とす」みたいのがどうも好きなようで、とすると色々なオチを付けられるこのマルチシナリオというシステムはまさに願ったり叶ったり、とりわけバッドエンドはかなりイヤな余韻を残してくれるものが多くて素晴らしい(「…届いた。」とか)。そういう意味で『痕』はシナリオライターの資質とゲームのシステムとが奇跡的なまでのシンクロを見せた作品としても記憶に留められて然るべきだと思うのだが、しかし、まあ以下は個人的な嗜好の守備範囲だからどうでもいい事なのだけれど、この作品は確かに結構涙腺を刺激されたとは言えやはり僕にとっては『雫』ほどの衝撃をもたらしはしなかった。アリガチな道具立てを使って巧みに作ってはいるがその巧みさが却って作為を感じさせ破壊力を減じてしまっているというか。実際『雫』はマジでボロボロ泣いたもんな俺。恥ずかしいですか。だからほっといてくれって。


『To Heart』('97 Leaf)

 かくして東鳩だ(豆知識:To Heartをこう略すのが通だゾ! エヘヘ。あ、あとキャラメルコーンて昔はもっとニチャニチャしてなかった? こうなんか歯のくぼみにさぁ……まあいいか)。舞台は再び高校なのだが、前のニ作品とは打って変わっていやに明るい、常識的な、殆ど健全なギャルゲーになっているからこれにはビックリ! というインド系。「日ごとリアリティを増す狂気の妄想」もなければ「毎夜繰り返し見る不気味な夢」もなく、非常に完成度の高い、但しそのぶんインパクトには欠ける、ギャルゲーとして良くも悪くも「普通の傑作」として仕上がっている。従って、当然ゲームを始めると例の妙にションベン臭い幼なじみが毎朝起こしに来てくれたり、登校途中には漫才の相方みたいな元気の良い女の子と会ったり、校門のところでは見知らぬ美少女とぶつかったりするわけだ。で以後も、そのぶつかった先輩に会えば突然廊下に座り込んでカードを広げて占いを始めてくれたり、牙の生えた日系二世パツキン娘が会う度に全力でタックルかましてきたり、メイドロボがいたり超能力者がいたりと、こう改めて書いてみても涙が出るほど楽しい学園生活をエンジョイせざるを得ない状況に陥った浩之の運命やいかに、正解はCMの後。

 もっとも僕が注目したいのはそうした物語内容ではなくシステム面だ(たとえCMが明けたところで)。今回もまた。しつこいですか。いやもちろん物語がどうでもいいという事ではないのだけれど、そもそもある作品を論じる際に、それが優れた作品であればあるほど作品が内包する豊富さと多様さは甚だしく決して汲み尽くし得ないため、物語や音楽やCGやシステム回りといった個々の点の出来不出来を論じて相対的な評価を与える行為などは、それがいかに学問的な理論性や科学的な厳密性に基づこうと、客観的にみて正しい事柄を述べたという充足感を伴っただけの虚しさが消え去ることは遂にないし、逆にどの場面が泣けたとか誰に萌えたとかいった感想に終始したとしても、主観的にみて嘘偽りのないところを述べたという虚しい充足感が残るだけである。しかしある作品を他でもないその作品たらしめている構成原理というかコンセプトは確かに存在している以上、われわれが突くべきなのはその一点に絞り込まれるのであり(だから言うまでもなく僕が注目したい「システム面」とはいわゆるゲームシステムではなく、もっとこう広く作品の仕組みというか、作品を成り立たせ動かしている内的なからくりのことを指す)、まあそうでなくても大体こういう非常に達者な出来の物語に関しては何か言ってもしょうがない部分があって、言おうとしてもマルチが泣けたとか先輩が萌えたとかセバスチャンが笑えたとか志保って全然人気ないみたいだけど結構好きだぞ僕は(マジで。悪いか! だからほっとけっつってんだろボケェ! ←逆ギレ)とかそういうアレしか出てこなくって読みてえかそういうの? 読む? ちなみに僕は原則読まない方向。怠惰ゆえ。

 と、そういう次第であるからしてここで注目されるのは『雫』と『痕』が持っていた優れたシナリオシステムが『To Heart』においては継承されず、代わって複数シナリオの平行展開という典型的なギャルゲー形式が採用されているということ(→しつこいようだが用語集)、及びその変化がいかにして『To Heart』をギャルゲーとして完成度の高い作品たらしめたかということになる。でちょっと話は逸れるのだけれど、ビジュアルノベルシリーズをこうして並べてみると、まあ確かに『雫』『痕』と『To Heart』との間には物語的にもゲームシステム的にも断絶のごときものがあるとは言え、ただディテールの描き込みによって登場人物の魅力を演出することに力を入れるという製作態度、平たく言えば一般向けキャラ萌え志向という一点においては、どんどん過激な方向に進んでいるのが分かる。実際『To Heart』なんかはエロを抜いてコンシューマーにも移植されそれなりの人気を博したようなのだが、これはギャルゲーというジャンルについて考える際に極めて興味深い事例であって、つまりゲームを作る環境としてはコンシューマー機より決定的に劣っていたためエロでもやるしかなくなったPCゲーム界において('90年のスーパーファミコン及び'94年のプレステ・サターンの発売と、'92~3年頃に始まる98エロゲーの急激な発展・拡大は明らかに連関している)、しかしギャルゲーという所謂ゲーム的要素(主にアクション)を必要としないジャンルの展開が有利に働いた結果、ことギャルゲーに関しては必ずしもエロに依存する必要がないだけのクオリティを持った作品が作られ得るまでの洗練と蓄積を獲得してしまったということを、『To Heart』のこの完成度は示しているわけだが、ではなぜそんな完成度がこと『To Heart』において達成され得たのか。

 まず、原則的にギャルゲーは1日目・2日目・3日目……という具合に直線的な時間軸に沿って話が展開する。これはたぶん、例えば推理ものAVGが1日目の捜査・2日目の捜査……という流れに沿って進行したり、育成ゲーやSLGがターンごとに一定の行為を選択することで進んで行くといった、先行する諸ジャンルにおいてごく普通に行なわれていたシステムがそのまま持ち越されたものなのだが、この「日々の繰り返し」において多くのゲームは毎回毎回同じメッセージを表示してしまう(せいぜいランダムで数通りのバリエーションがある程度)ため、非常にだるい。ましてテクストを読む事をメインとして進行するギャルゲーでこれをやってしまうと致命的だ。或いはコマンド選択式のAVGで総当たりが要求されるタイプのもの、つまり「見る」「考える」「話す」といったコマンドが常に現れていて、どうせ「見た」ところで「いつもと変わらない僕の部屋だ。」、「考えた」ところで「たまには掃除もしなくちゃなあ。」、「話した」ところで「……話す相手がいない。」、といった全くどうでもいい情報が得られるだけであり、にも拘わらずそれをいちいち全て開けてみないと先へ進めないという、製作者のボンクラぶりをアピールしたいという意図以外の何ものも読み取れない不可解極まりないシステムを無批判に採用したギャルゲーも沢山あるわけだが、これもまた絶望的にだるい。そして恐らく『To Heart』の画期性は、ビジュアルノベルというテクストを前面に押し出した様式を導入することで、既存のギャルゲーが抱えていたこうした盲腸的部分をスパッと切り捨てた点にある。すなわち、物語の分岐に関わってくる訳でもない所でいちいちコマンドを選ばせてメッセージを小出しにする位なら、多少長文になってもテクストで一気に読ませてしまうほうが遥かにスマートだし、或いは1日目・2日目・3日目……と進む都度同じメッセージを出すのが馬鹿げているなら、繰り返される「日常」の描写にちょっとしたネタを盛り込んで飽きさせない工夫をすればよい、というわけだ。そしてこのごく小さなシステム上の変化が、どれだけ作品世界に浸れるか・感情移入できるか、つまりはどれだけ萌えられるか・泣けるかがそのまま評価につながるギャルゲーというジャンルにとって、どれだけ重大な意味を持つものだったか、今となっては説明不要だろう。まあもちろん『To Heart』が一番最初にそれをやったのかどうかは分からないにしても(その種の起源探しは常に不毛である)、少なくとも具体的にテクストそのもののレベルでこれを実践し成功した例として最も明瞭に確認可能な作品であるとは言える筈だ。

 従ってこの成功例の後には数々のエピゴーネン的作品が作られたし今もなお作られているわけだが、困ったことに人はしばしばそれを『To Heart』において「日常ほのぼの」系ギャル/エロゲーの流行が始まったと考えがちなのだ。確かに物語内容だけを追ってみればその通りなのだが、これを受け入れた途端『To Heart』という作品の具体的な相貌は当然見失われざるを得ない。つまりここで根本的に理解されていないのは、『To Heart』が単に趣味的な選択から「ほのぼのとした日常」を描き込んでいた訳では決してなく、同一メッセージの繰り返しや煩瑣で無用なコマンド総当たりを避けるためにビジュアルノベル様式におけるテクストの強度を上げて行った結果過剰なまでに「日常」が描き込まれてしまったという、物語論的なレベルには還元しえない原因がそもそもあったということなのだ。だから例えばマルチのシナリオは泣けたなあと言ってみることも、でも考えてみればもうさんざん使い古されたアリガチなネタだよなと批判してみることも、どちらも同程度に不毛なのは、言うまでもなく作品を物語内容だけから捉えてなぜ『To Heart』がそれを表現するに当たってあれほど「日常」を描き込まねばならなかったかを見ていないからだし、また既に述べた萌えツールとしての完成度(僕はこの点に関しては『To Heart』は空前絶後の作品だとさえ思っている)についても、魅力的なキャラを創造しえたからだなどという殆ど観念的な理由づけをするべきではなく、それ自体としてはごく類型的なキャラが驚く程引き立ち魅力的に見えるまでの、プレイヤーを没入させる「日常」の描き込みがあったからと言うべきなのである。


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作者:林
連絡先:作者へのメッセージ送信フォーム
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最終更新:Monday, 10-Apr-2006 11:19:45 JST