アシュタサポテ :: 過去の日記 :: 2000-04

日記 :: 2000-04

2000-04-30

 電話が作劇という営為にとって重要、というより殆ど致命的なのは、それが説話論的水準に直接介入するものだからだ。つまり1876年にアレクサンダー・グラハム・ベルによって発明されたこの装置が、その後の急速な実用化と普及によって、例えば写真・映画・レコード・ラジオ・テレビ等のメディアや、列車・自動車・飛行機等の交通手段といった、相前後して普及し20世紀の文明を彩った他の多くのテクノロジーとは比べ物にならないほど強く、但し全く目立たない形で世の作者たちを圧迫したのは、「その場に居合わせない人物と会話ができる」という可能性、というよりは現実性が、古代から綿々と続いてきた筈の作劇術を根本的なところで裏切るものだからだ。

 無論、情報伝達の手段としての電話を物語に採り込むこと自体は造作もないことだ。登場人物が列車に乗って旅をしたり、写真によって会ったことのない人物の顔を知ったりするのと同様にして、電話で遠く離れた人と会話するさまを描けばよいだけの話で、現に小説でも映画でもそうした場面はありふれている。電話によって思いもかけない報せがもたらされ物語が急展開するといった場面さえ、ギリシャ悲劇で飛び込んでくる伝令や歌舞伎で花道から駆け出してくる「暫」の亜種として処理できるだろう。だが、作品が現実を「反映」してしまうこの素直さは極めて厄介だ。例えば二人の人間が手紙によって意思疎通するという事態ならば、映画でも小説でも或いはゲームでもまあ大抵ある重みを持って描かれ得る。然るにこれが電話となると、なるほど意思疎通は手紙と同様に出来るのだが、それを媒介した電話という装置自体は殆ど存在しないかのように扱われてしまい、少なくとも鑑賞者が気を留めるほど目立った働きを見せることは滅多にない。それは例えば、『センチメンタルグラフティ』でデートの日時を決定する手段として終始電話が使われながら、特別なイベントの発生は必ず手紙で予告され、しかも最終的には物語全体が一通の手紙へと収斂して行くといったことなのだが、差し当たってここでは次のことだけを確認しておこう。電話という装置は無色透明な媒介として扱われることで「作品」から排除され、そのため作劇が電話というテクノロジーによって被った筈の変質はこの上なく自然に隠蔽されてしまうという事だ。

 その変質は、舞台劇を現代の話に焼き直して上演する時に「このロミオとジュリエットは現代の人間なのだから、当然電話で話すこともあるだろう。としたら……」などと一旦考え出すと物語の構造全体を見直さねばなせらなくなる、といった特殊な場合にしか表に出ないから、いつも誤魔化され見過ごされてきた。そして携帯電話の普及は、恐らくこの誤魔化しを急速に露呈させつつあると言ってよい。据え付けられた電話からの量的発展(つまり地理的な制約の緩和)に過ぎないにも拘わらず、その遍在性は殆ど強暴さの域にまで達している。何しろ「あらゆる人があらゆる状況下で通話しうる」のだから、この可能性、と言うより現実性は、あらゆる既存の作劇をぶち壊しにする。一つだけ例を挙げるなら、ルイ・マルの『死刑台のエレベーター』(1957)で、人を殺して立ち去ろうとした所でエレベーターに閉じ込められてしまったあの不運な男が、もし携帯電話を持っていたらどうか、ということだ。マイルス・デイヴィスの有名なサントラが奏でられることもないまま、物語は5分でカタがついていただろう。

 実際、誘拐された人間が犯人の運転する車の中から、あるいはハイジャックされた乗客が飛行機の中から、携帯で外部にその音を伝えることで事件を解決に導くといった話が現実に起こるようになってしまっているのだから、これからは誘拐事件ひとつ書くのにも相当気を遣わされる。例えば一条ゆかり『有閑倶楽部』の「世界一周アドベンチャークイズの巻」(コミックス9巻、初出1987年)には、拉致された野梨子がトランシーバーを仕込んだイヤーマッフルで悠理たちに車の場所を知らせるという、なかなかに予見的な場面が描かれているので、人間の想像力も捨てたものではないという気にもなってくるのだが、言うまでもなくこれは携帯が普及していない時代だからこそ意味のあった場面なのである。移動中の人間が距離を隔てた他者に音声を伝達できるということが些かの「事件」性も伴わなくなった現在これと同じ話を書いたとしても、それは最早や現実の平板な「反映」に過ぎず物語を動かすほどの力を持ち得ないだろう。つまり、大して面白くないだろう。

 しかし携帯が普及した現代社会に旧態依然とした作劇術という貧しい武器だけで立ち向かわねばならない作者たちは、この厄介な装置の存在を作中でどうにか処理しなくてはならない。できればなかったことにして話を進めたい、だから多くのギャルゲーが、平凡な高校生活に舞台を設定しながら携帯やPHSやポケベルの存在を黙殺しているのは、自分の高校時代にはまだそんなものがなかったという世代のプレイヤーが感情移入しやすくするためだけでは決してない訳だ。思えば『Kanon』においてあゆが携帯電話なるものの存在を知らないという、相も変わらず人を馬鹿にした様な一挿話は、ギャルゲーにおけるこの見事なまでの黙殺ぶりを逆照射していたとも言えるが、ともあれ他方には、不幸にしてそんな風に都合良く携帯を無視して話を進めることが許されない作者もいる。それは例えばTVドラマの脚本家であったりするのだが、彼らは登場人物が山荘に閉じ込められる度に、『リング』のように圏外という事にしたり、『ママチャリ刑事』のように「家に置いて来た」といった言い訳を書き込んでしまうため、視聴者はまたも「都合いいよな」と呟かされる。或いは舞台劇にしたところで事情は同じなのだから、三谷幸喜も『バイ・マイセルフ』の冒頭近くに、辺鄙な山荘で携帯のバッテリーが切れるという場面を描かねばならない。

 とは言え、この劇の中盤には三谷が単にウェルメイドな作劇術に長けただけの書き手ではないことを証拠立てる興味深い場面があった。松本幸四郎演じる伝説的な老名優の自伝のゴーストライターを務めるべく、市川染五郎演じる若い編集者が彼の住む山荘を訪れる。編集者は老優の奇人ぶりと虚言癖に翻弄されつつ、電話もない人里離れた山荘で軟禁状態になって自伝の執筆をするハメになるのだが、そのうち老優が逆に、今度は君の話が聞きたい言い出す。で別れた女の話などをちょっとすると、多いに興をそそられた老優は、ないと言っていた筈の電話を持ち出してきて彼女の所にかけさせ、終いには受話器を奪い取り彼の父親と称して女に説教する、もうノリノリで。で勝手に電話を切って一人で悦に言っていると、編集者が

 「彼女、かなり驚いてると思いますよ……。父は去年ガンで死んでますから

 で観客はドッと笑う、という仕組み。無論この挿話自体は劇中でさして重要な位置を占めてもいないのだが、それにしても電話装置の物語的平板さを眺めてきたわれわれにとってはこれはかなり驚くべき一景ではあるまいか。ここにおいて電話は、受話器を奪われたり切られたりして正常に機能しなくなることによって、辛うじて一つの挿話を形づくる装置たり得ているのだ。電話というこの装置は、現実に機能しているのとは反対に、外的な強制によって話が出来なくなった時に初めて、会話のための道具という現実の平板な「反映」であることをやめ、物語学的運動をもたらす契機として作品に「登場」することを許される。

 もちろん電話がかかってくることで物語が始まるというパターンも珍しくはなくて、例えば懸賞に当選して何でも一つ夢が叶うという報せが電話でもたらされる『メイド狩り』のプロローグなどがそれに当たるのだが、ただその場合注目されているのは寧ろ或る情報の「到着」という側面であり、電話それ自体はまたしても透明な媒介役に徹してしまう。だからここに観察されるのは、『センチメンタルグラフティ』が差出人不明の手紙が届く(到着する)という運動によって始動する物語であったのと同様に、例えば編集者が老優のいる人里離れた山荘に到着することで『バイ・マイセルフ』が、相沢祐一がいとこの少女の住む雪の降りしきる街に到着することで『Kanon』が、測量技師Kが城のある村に到着することで『城』が、ディオ・ブランドーがジョースター邸に到着することで『ジョジョの奇妙な冒険』第一部が、三船敏郎演じる素浪人が宿場町に到着することで『用心棒』が、桃がお婆さんのもとに到着することで「桃太郎」が始まる等々の「到着」という物語学的運動の一類型と言うべきだろう。

 ところで、『新世紀エヴァンゲリオン』TVシリーズ第1話でもこうした「到着」が描かれていたことは誰でも憶えていると思う。ただ興味深いのはそれが二つ同時に起こっていたこと、すなわち主人公・碇シンジと第3使徒サキエルが時を同じくして第3新東京市に到着し、しかもそれが完全に同じ水準で扱われていたという点だ。同じ水準というのは具体的には使徒の「襲来」に誰も驚いていないということで、嘘だと思うならビデオで見直して頂きたいのだが、使徒の再来を予測していたネルフの人間が驚かないのはもちろん、UN幹部の驚きや苛立ちも「正体不明の移動物体」の出現という事態ではなく、それに対して通常兵器やNN地雷が通用しないことに専ら向けられているし、何より決定的なことには、ロボットアニメで敵が初めて現れいよいよこれから長い戦いの日々が始まろうというのに、ビルの谷間から空を見上げて悲鳴を挙げながら逃げ惑う市民というお決まりのワンシーンがここにはない。つまりこの第1話は「使徒、襲来」と題されているにも拘わらず、「襲来」という語が本来持ち合わせねばならない筈の緊張感や意外性といったものが徹底して排除されていたわけだ。

 第3新東京市は使徒迎撃用に作られた要塞都市なのだから市民の避難が完了していたのは当然のことだ、などと言うのはやめておこう。無論それに対して、市街地であれだけの戦闘があったのだから「絶対、10人や20人じゃ済まないよ。死人だって……」と相田ケンスケも言っている、現に鈴原トウジの妹は大怪我を負ったではないか、と物語内部からの反証を挙げてみせることもまた容易いのだが、それよりも、この戦闘シーンにそんな市民の姿がワンカットも挿入されていないという誰の目にも明らかな事実が重要なのだ。実際トウジの妹どころか人影らしきものが一つ残らず律儀に排されているこの戦闘シーンの一体どこで死傷者が出たというのか、視聴者にはさっぱり分からないのだから殆ど辻褄が合わなくなっているとさえ言えると思うのだが、この些細ではあるが奇妙な部分、いわば作品のほつれこそが僕にとってはどうしようもなく刺激的だ。例えばなぜシンジはこんな間の悪い時に呼ばれたのか、碇ゲンドウともあろう者ならもっと早く彼を来させて強引に訓練でもさせておくのが自然ではないのか? だが、まあ深読みの好きなマニアなら色々と辻褄合わせをしてくれるかも知れないが、本質的に物語内では「偶然」として処理される他ないこうした無意味な綻びにこそ、「作品」の論理は働いていると言うべきだ。普通なら一つで済む筈の「到着」が二つ重なってしまっているという無様で無意味な始まり方。しかしこの先を続けて観た人なら、使徒の襲撃(サードインパクト=人類滅亡の危機)という唯物論的レベルでの脅威と、「なぜ戦うのか」というシンジの個人的で観念的なレベルでの葛藤が、全く噛み合わず空転し続けるという点にこの作品がテーマを設定していた事を知っている筈だから、この第1話で二つの「到着」が並置して描かれることで、言わば二つの物語がさしたる関連性もないまま始まってしまうことにも、容易に必然性を認められるだろう。「作品」の論理とはそういうことだ。

 だから、電話が通じるの通じないのといった些細な点にいま少しこだわってみたい。この第1話で主人公・碇シンジが初めて登場するのは、彼が公衆電話に向かっている場面である。電話からは「現在全ての通常回線は不通となっております」とかいったメッセージが流れ、シンジは「ダメか。」と呟いて受話器を置く。通じない電話というこの装置が、警戒態勢が敷かれた都市にあっては当然のことだなどと物語の水準に還元されたり、或いは同じことだがシンジのコミュニケーション不全の「象徴」として解読されたりするとしたら、それは不幸なことだ。問題は単純にそれが通じていないという点にある。実際、この作品にはミサトとリツコが電話で話すといった場面なら幾度となくあるのだが、そこでは電話それ自体は説話的持続に埋もれて些かも姿を見せてはいない。そして電話が作品に何らかの運動を導入する契機として働く際には、例えば第3新東京市の全ての電源が落ちてシンジとゲンドウの通話が中断されるとか、加持リョウジが殺された後でミサトが留守電に残された彼のメッセージを聞くとかいった具合で、決まって通常の通話機能は失われている。

 だからこそ「鳴らない、電話」が重要なのだ。作品内に電話が電話として現れるためには、電話としての正常な機能を失う必要がある。アガサ・クリスティの初期の短編「うぐいす荘」Philomel Cottageはこの点で興味深い。結婚した相手が実は「青ひげ」でこれから自分を殺そうとしていると知った女が、肉屋に電話すると偽って昔の恋人に助けを求める。傍で夫が聞いているので、受話器のボタンを放している間はこちらの声が向こうに聞こえなくなるという仕組みを利用してメッセージを送る。「どうぞ来てください、(明日の朝、肉を届けに)。何しろ(仔牛のカツレツは)、生きるか死ぬかの問題ですの。お願いしますわ、(明日の朝)、できるだけ早く……」1920年代に書かれたこの作品は、「通じなくなる装置」としての電話に関する明察を含む極めて早い例の一つと言えるだろう。

 従って、作劇が電話によって被った変質に多少なりとも意識的な作者は、しばしば作中の電話をブツリと切ってみせる。例えば『雫』で、夜の生徒会室で催される狂気の宴を目撃した主人公が叔父に電話をかける場面では、「お、おい、待て、祐介! 切るな!」という叔父の制止を振り切って受話器を置くという行為が、「それが、僕に残された最後の存在理由なんです」とまで思い詰めた少年の決断を表現していた筈だし、『痕』でも自分が殺人事件の犯人かもしれないと怯える主人公が、公衆電話からかけてきている梓に「…梓、もしも今、犯人がお前の目の前にいるとしたら…お前、どうする…?」と問いかけ、短い沈黙の後「…もちろん、殺してやる」という答えが返ってきた途端カードの度数が0になり電話が切れるという条りは、それなりの緊迫感を持ち得ていた。

 しかし、電話がこうした説話論的な断絶・転換点を導入するだけではなく、それ自体で一つの表情を見せる稀有な場面をわれわれは知っている。『To Heart』でマルチが電話の向こうでお辞儀して受話器に頭をぶつける音が聞こえてくるとか、来栖川先輩が(何も言わないが)どうやらこくこくと頷いているらしいことが電話ごしに窺えるとかいった場面がそれである。ここでは電話は意思疎通のための道具という現実のそれの「反映」であることを完全にやめ、しかも説話論的水準からも独立した一個の装置となっている。これをして作劇が電話というテクノロジーによって被った変質に対する応答と言うべきか。ともあれそれが、何かにつけて謝っているとかいつも無口だとかいった具体的なキャラの特徴と結び付いてしまっているため、電話を描く際に一般化して用いられる「方法」となり得ないことは確かなのだから、電話は透明な媒介物という扱いを引き続き受けることになり、われわれは依然としてこのありふれた装置に出会えないままなのだ。



2000-04-17

 やっとす巻けました。いやあ貢いだ貢いだ。でも最後まで名前は「す巻きちゃん」なのな。まあそれはともかくとして、眠い。ひたすら眠いんですよ。最近。春眠暁を覚えずという奴でしょうか。学校もなければ仕事もない、一日中ダラダラとゲームばかりやってられる身分になったというのに、睡眠だけで軽く半日吹っ飛んでんだから『D+VINE[LUV]』はまだ終わりません、ましてや更新なんてとんでもない! と呑気な世迷い言を並べて健全な社会人の皆さんに叩き殺されそうになりつつ日記、今回は『Kanon』をやろうかと思ったんだけど、やっぱもう少し『ONE』について。補論というか、繰り返しというか、まあ大した話はできないというか。いずれにせよどんどん読む人を限定する方向に走りつつありますが知ったことじゃあり、すいません。

 何事もなく繰り返される日常に幸福と快楽が潜んでおり、ギャルゲーはそれを表現しうるということ。それが『To Heart』の発見であり、またギャルゲーというジャンルが獲得しゲームの作品領域に付け加えた新たな地平でもあった。しかし間もなく、この事態が凡庸化し制度として流通し始めた時、その制度を独自に読み破った『ONE』は、「日常」を描き込むギャルゲーの形式自体を突き抜けるという道を提示した。『ONE』の衝撃とは詰まるところこの転倒力に起因するものであり、例の「永遠の世界」というおよそ理解しがたい観念が、理解しがたいままでありながら或る迫力とリアリティをもって立ち現れていたのも、そこにこの転倒が集約的に顕れていたからに他ならない。人はなぜかこれを「作品内に残された謎」と勘違いして「合理的」に解いて見せたりしてしまうのだが、無論そこに結実するのは最早や批評ではなく、やけに理屈っぽいサイドストーリーか、せいぜい「文学的想像力」に満ちた感想文に過ぎない。

 例えばリチャード・バックの『ONE』という小説がある(Bach,Richard;ONE(1988)、邦訳・平尾圭吾(1990)、現在は集英社文庫(1996)所収)。『かもめのジョナサン』の作者による、ダラダラと長い癖に実存的メッセージへの要約と還元を作品自体が望んでいるかのような驚くべき貧しさによって読者を苛立たせずにはいないこの小説を、タイトルが同じというだけの理由であの傑作と並置し比較するなど幾ら何でも残酷な行為ではあるまいかという疑問は無論首をもたげぬでもないのだが、とは言えタクティクスの『ONE ~輝く季節へ~』がその内容からはどう考えても「ONE」と題される理由が見当たらない以上、この作品が一つの典拠となっているらしいという事実くらいは認めねばなるまい。実際、例えばゲーム開始後まもなく現れる「これまでにも無数の分岐点があり、ここには至らない可能性がかなりの確率であったはずなのに、ここに至っている。まあ裏を返せば、どこかには至るのだから、その時々でそんなことを思うのかも知れないが、それでも自分の人生として考えてみると、やはりこの巡り合わせは特別不思議だったりする。」云々といったメッセージは、併行世界(パラレルワールド)をテーマとしたこの小説に幾分か影響されているようにも思えるし、小説の初めの方にはこれに似た一文を確認することさえできる。或いはまた、小説の終盤で「わたし」の妻が一旦死んで二人が別々の世界に引き離された後に再会する、しかもその間は妻の方が語り手になるといった展開も、なるほど『ONE ~輝く季節へ~』を彷彿とさせるかも知れない。とは言え、たとえここに何らかの影響関係があったとしたところでそこに読み取るべきは同一性ではなく差異なのだから、バックの『ONE』が併行世界を実体的・具象的に描写することで分かりやすいファンタジーの形をとり、まあ相当荒っぽくではあるが色々と理屈をつけて説明してもいるのに対して、タクティクスの『ONE』にあっては「永遠の世界」が何ら具体的な描写も説明も与えられていないという点に注目しよう。

 実を言うとこの「永遠の世界」は、製作の段階ではもっとはっきりと「併行するもう一つの世界」として描かれる予定だったフシがなくもない。その事は例えばデモムービーの中に見える「1998年、冬 不意にもうひとつの世界が生まれる それはしんしんと積む雪のように ゆっくりと日常を埋めてゆく」といった文言にも窺えるのだが、しかし実際に出来上がった作品ではその試みが完全に放棄されていた。と言うより、放棄せざるを得なかったのだ。ここにこの作品の最大のからくりがある。つまり「幸せな日常」が徹底化された果てに「苦痛に満ちた過去の記憶」へと反転してループ状に繋がってしまうという構造に作品の全てを集約して行った結果、主体がそのねじれから排されている以上決して主人公=プレイヤーの視点から実体的・具象的には定着しえない「永遠の世界」の描写と説明は、切り捨てられるのが必然だったという事なのだ。従って、その切り捨てられた部分を想像力で補うのはプレイヤーの趣味の問題だからどうでも良いとしても、与えられた限りでの作品そのものを読み解こうとしているわれわれが照準を定めるべき点は、今や一つしかない筈である。すなわち、「永遠の世界」が姿を現すにつれて「日常」の描写の中に生じる微かな亀裂である。

 その亀裂は、ゲームの幾つかの側面で観察されるものだ。第一に、「オレ」という主体に入った「ぼく」という亀裂がある。11月30日からクリスマス前まで約3週間の日々を追って展開するゲーム前半部は、既に前回言ったようにごく普通のギャルゲーとして進むのだが、ただその間2、3日おきに、主人公が眠りに就いた後で、昼間の能天気な学園生活とは裏腹に至ってシリアスな、心象風景とも内的世界ともつかない場面が挿入される。そしてこの部分のテクストでは、昼間の「オレ」に対して「ぼく」という一人称が採られているのである。まあここからするに、『ONE』の製作者が具体的に念頭に置いていたのはリチャード・バックというよりも、「私」と「僕」による語りが交互に積み重ねられ・最後には「私」の存在が消滅し・かつこれまた可能世界論をモチーフにした村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』('85)だったと思われるのだが、それはともかくとして、「オレ」によって語られる「日常」が「ぼく」という語りに侵食され、決してそれだけで完結し得てはいないという事をまずは確認しておきたい。そして物語の終盤で妹の死が「ぼく」によって語られる時、つまり「幸せな日常」が自己完結的ではあり得ず実は「辛い過去の記憶」に繋がっているというねじれが露呈し始める時、この二つの語りは一度だけ触れ合うことになるだろう。

 こんな永遠なんて、もういらなかった。
 だからこそ、あのときぼくは絆を求めたはずだったんだ。
 …オレは。

 これに関連して澪として、じゃない。見落としてはならないのは、この「ぼく」による語りが作品内のどこに位置しているのか、実は明らかではないという事だ。もちろんゲームを進める内にプレイヤーは、この「ぼく」が「永遠の世界」にいる幼少期の「オレ」=折原浩平だと何となく思い込まされてしまうし、そう受け取っておいてもプレイする上では何の支障も来さないのだが、差し当たっては両者の位相関係が不明だという事実に留まるべきである。これが重要なのは、主人公・浩平の幼少期の記憶として提示されるものが実は現在から遡行的に形成されたフィクションであることが、幾つかの場面で指摘されているからだ。繰り返される平穏な日常に浸っているつもりの主体の同一性を揺るがせる記憶の不確実性の指摘、これが第二の亀裂ということになろう。当然それは、記憶を共有している筈の幼なじみ・長森瑞佳との遣り取りにおいて現れる。例えば子供の頃一緒にお風呂に入ったことがあったなと言う浩平に対して、長森がニベもなく知らないと言い放つ場面は、さりげなく描かれてはいたが決して見過ごしてはならないものだった。或いは終盤、存在の希薄化を感じ取った浩平が唐突に「なあ、瑞佳」「オレとおまえの出会いは、いつ、どこだった」と問いかけ、しかも結局はっきりした答えが得られないという条りは、ゲーム冒頭で回想されていた長森との出会いの様子が、これまた確証を欠いた記憶でしかなかったことを裏付けてはいなかったか。「幸せな日常」が過去にしか存在せず、しかもその過去が苦痛に満ちた記憶でしかない場合、残された道は捏造した偽の記憶をモデルとして「幸せな日常」を現在に仮構することだけである。然るにこの幼なじみは、まさにその何気ない「日常」の遣り取りの中で彼の記憶の無根拠ぶりを明かしてしまうのだから、これほど厄介な存在はないだろう。ましてそれが恋人になったら何が起こるか。第三の亀裂は、『ONE』の全6本(裏シナリオ入れて7本)のシナリオの中でもかなり特異な扱いを(作った側からもプレイする側からも)受けている長森瑞佳のシナリオを検証する事で確認される。

 主人公・浩平と長森の関係は、ずっと一緒にいるせいで互いに相手を恋愛の対象として見ることが出来ない二人という感じで、まずは典型的な幼なじみ設定と言って良かろう。でそれが後半、クラスメートたちのちょっとした冗談がきっかけで二人は恋人同士という事にされてしまうのだが、思いもかけない展開が始まるのはここからだ。浩平は恋人ごっこのような真似をする長森をうるさがり、手をつないでくるのを振り払ったりして彼女をいちいち邪険に扱う(そういう選択肢を選ばないとバッドエンドへ直行)。われわれプレイヤーは、長森を攻略しにかかっている筈なのになぜこんな真似をしなければならないのかさっぱり理解できないため、せいぜい「素直になれなかった浩平もやがて彼女を愛している自分の気持に気付いて云々」みたいなエンディングを期待しつつクリスマスの約束を破ったりし続ける訳だが、その先に待ち構えているのはもっと凄いイヤ展開だ。まあこれはもうあちこちで言われているし、『ONE』自体2年も前の作品でもあるし、第一僕はネタバレとかを一向に気にしないので書いてしまうが、要するに仲間に彼女をレイプさせようとするのである。この展開の違和感といったらない。もとから主人公が鬼畜な奴と設定されているならともかく、それまでまことに明るく楽しくほのぼのと進行してきた話がいきなりこうなるのだから、作品全体の中でも浮きまくっている。かくしてプレイヤーは、この作品の方向性に関して掌を返されたような気分をイヤというほど味わうハメになる。

 これはもう何度も言ってきた事だが、ギャルゲーにおいてプレイヤーとプレイヤーキャラクターとの間に齟齬が生じるという事態は致命的である。ギャルゲーとはこの間の距離を測る運動のことであり、ゲームの進行とともにこの距離を次第につめて行き、クライマックスでゼロにすることでプレイヤーを完全に物語に没入させ、シナリオの与え得る最大限の感動を与えることがギャルゲーの悲願であるとすら言えよう。そしてギャルゲーマーもそれを期待しているのだから、主人公がプレイヤーの意図とはおよそ正反対の行動をとってしまうこの長森シナリオは、当然のように多くのプレイヤーの反感を買うことになる。

 しかし、これは決してシナリオライターの悪趣味だけによって書かれている訳ではなくて、やはりそれなりの必然性があったと言うべきだ(まあそれにしても趣味の悪い話であることに変わりはないが)。例えばゲーム一日目、昼食を「長森の席で一緒に食べる」か「一人で屋上へ行って食べる」かという選択肢があるのだが、ここで前者を選ぶと友人の住井が現れてこいつと学食へ行くハメになってしまうので、長森を攻略したいなら後者を選んで、彼女が屋上に追いかけて来て一緒に弁当を食べる事になるという分岐を進む必要がある。このゲームにはこういう、プレイヤーの狙いが裏目に出るように仕組まれている底意地の悪い引っ掛けのような選択肢が幾つかあって、そのため無意味に難易度を高くしているという批判もあるわけだが、その中でもこの箇所がずば抜けて嫌らしいのは、これが何とフラグ立てに関わっているからだ。どうですか、これ。攻略したい女の子がお弁当を一緒に食べようと誘ってくるのを断らなければそのシナリオに入れない、しかもその選択肢が一日目に出てくるなんて、他にあるだろうか。しかも無事シナリオに入れたとしても、手を振り払わなかったり約束を破らなかったりすれば即バッドエンド決定なのだから、これはもう選択肢がキツいとかいう水準ではなくて、長森を攻略しようとするプレイヤーをシナリオがただならぬ執拗さで阻んでいるとしか言いようがない。約言するにこれは、攻略対象を攻略しようとしてはいけないシナリオなのである。

 うーむ、ナイス禅問答。ではなんでそんな風になっているのか。答えは恐らく「告白」と「日常」の関係にある。ギャルゲーはしばしば「女の子に告白して受け入れてもらう」もしくは「女の子から告白を受ける」ことを目的とするゲームと思われているわけだが、これは間違いではないにしても甚だ不正確な認識である。本当に主人公(プレイヤーキャラクター)が告白を目指しているというのなら、シナリオの途中であってもプレイヤーが「おっ、このコ良いね」と思ったらいつでも「告白する」というコマンドが選べるという、自由度が高いというか男らしいというか身も蓋もないシステムを導入すれば良いのだが、果してそんな作品があるか、もしあったとしてそれは未だギャルゲーと呼べるものであるか、どうか。ギャルゲーの主人公たちがいつまで経っても自分の気持ちを意中の人に打ち明けず、数ヶ月から時には1年もの間、さして好きでもない他の女の子たちとの会話やデートを延々と続けねばならなかった事実に、人はいま少し敏感でなければならない。これは別に彼らが優柔不断な性格の持ち主だったからでも何でもなくて、フラグ立てによるプレイヤーの意思確認という、「告白」を常に先送りする運動こそがギャルゲーを成立させているからである。従ってギャルゲーにとって告白とは、目的であるどころかどこまでも避けられねばならぬ一点なのだ。現に、さんざん繰り延べられた告白というイベントが遂に起こった途端、ゲームは終わってしまうではないか。

 ゲームに終わりをもたらす「告白」と、それを常に先送りしながらプレイヤーとプレイヤーキャラクターの距離を縮めて行く「日常」。そして『To Heart』が、ゲーム的にはルーティンワークでしかなかった筈の「日常」の部分に快楽と幸福を見出した時、それを終わらせる「告白」という事件はゲームにとって決定的に異質な要素となり始めた。『To Heart』をプレイした人は、どのシナリオでも良いから、いわゆる「告白」が具体的にはどの時点でどのような言葉によって行なわれていたか、思い出してみてほしい。殆ど思い出せないはずである。なぜなら『To Heart』では、従来のギャルゲー(18禁であろうとなかろうと)がクライマックスに至ると何のためらいもなく描いてきた「俺は……○○のことが好きだっ!」「う、うん……。私も……(ぽっ)」といった、ドラマチックではあるが余りに生々しい盛り上がり方は回避され、「告白」はテクストの饒舌に埋もれてそれ自体としては判別し得なくなっていたからだ。これは決してテクストが告白シーンをじっくりと描いたからとか単に冗長だからといった文章表現の水準に還元されてはならない。「日常」に終わりをもたらす「告白」という異物は、排除できない以上、ここでは全力を尽くして隠蔽されている。

 まして『ONE』は極限まで「幸せな日常」を描出する(そして後にそれを廃棄する)ことを目指した作品なのだから、「告白」に関しても一層神経質だ。浩平とヒロインがいわゆる恋人同士になる過程は徹底してなしくずしであり、一つの場面や台詞を決定的なものとして取り出すことはできない。その徹底ぶりたるや『To Heart』さえドラマチックに見えてしまうほどだ。そしてその唯一の例外が長森シナリオにおいて不慮の事故として発生してしまう「告白」であることを考えれば、奇妙なまでに攻略が拒まれていた事にも或る整合性が見えてくるだろう。告白とは、何事も起こらないからこそ幸福な日常に「何事か」を起こしてしまう致命的な事態であり、浩平が自分から長森を好きになり告白する(=日常を壊す)という展開が避けられねばならない以上、それは彼の意思にも反しプレイヤーの選択にも無関係な「事故」として起こる他ない。

 具体的に言うなら、それは冗談が通じなくなるという事態として描かれている。何事もない幸せな日常とは、まあ現象学/精神分析学的に言えば「予め与えられた相互主観性」とか「受動的に構成された共同性」ということなのだが、要するにボケればきちんと突っ込んでもらえるような気心の知れた世界ということである。この作品におけるテクストへのギャグの盛り込みぶりには、プレイヤーを楽しませようというサービス精神と言うには明らかに度が過ぎたちょっと異様なまでのこだわりが窺えるが、それは阿吽の呼吸で交わされる冗談がまさに「幸福な日常」を構成する要素であるからに他ならない。従って、そうした冗談の一つとして企画された「くじ引きによる当選者一名様に、意中の彼女に告白する権利を進呈」なる「極悪な催し」にハメられた浩平が、「ずっと前から好きだったんだ…オレと付き合ってくれ!」という何のひねりもない「告白」を口にし、長森がそれを真に受けてしまい突っ込んでくれなかった時、「何事も起こらない日常」は崩壊を始めるだろう。第三の亀裂、そして浩平の苛立ちの原因はここにある。

 かくして、浩平たちの掛け合い漫才的な絶妙な遣り取りを見てモニターの前で爆笑しながら、ああこの楽しい画面をずっと眺めていたいとプレイヤーが願ったまさにその矢先に、「何事もなく繰り返される幸せな日常」は失われ苦痛に満ちた過去の記憶が甦ってくる。今や前面に押し出されるのは「幸せな日常」ではなく、それが「悲惨な過去」と裏表にねじれて繋がった構造であり、同時にこのねじれの総体から排除されている「主体」は作品内に居場所を失う。ゲームの存続すら危うくしかねないこの異常な事態は、従って浩平の存在がこの世界から消滅するというおよそ非現実的な描写に行き着く他ないのだが、しかしプレイヤーはそれを非現実的と感じるどころか、寧ろその時、何かしらひどく現実的なものを垣間見てしまう。一度も描かれることのないまま作品に現実感を与えてしまったこの途方もない不在、それが「永遠の世界」と呼ばれるものであることは、最早や言うまでもない。

 あー、あと「エロゲー」としての『ONE』については『Kanon』を論じる時に併せて見るってことで。じゃ寝ます。


2000/04/02

 長々と書かれている割にはそこで論じられている作品が具体的にはどんなものなのか一向に理解できないことで有名なこのエロゲーレビューもそろそろ大詰め。にする。無理にでも。ということで『ONE』レビューだゴー。

『ONE ~輝く季節へ~』('98 Tactics)

 「18禁か否かを問わず、今までやった中で一番わたしの心に残っているゲームです。」という紹介文を、今はなくなってしまった或るサイトで読んだのが確かこの作品に接するきっかけだったのだけれど、今僕自身の感想を言おうとしてもそんな感じで、というかこの『ONE』に関してはそれだけ言って済ましてしまいたいという所が少なからずある。上質のテクスト、その随所にちりばめられた高水準のギャグ、魅力的なキャラクター、快適なシステム回り、そして見事な音楽――特に音楽は折戸伸治が相も変わらず素晴らしい仕事をしていて、このゲームの与える感動の三割ぐらいはこのBGMのせいではないかという位凄いものなのだが(使い方も巧い)、しかしこういったゲームとしての相対的な完成度の高さも、僕がこの作品から受けた感動の質、つまりなぜ「今までで一番心に残る」のかを解明するものでは些かもないのだから、よってここで言いたいのは次のごく単純な一点に尽きる。すなわちそうした個々の側面における秀逸ささえもが枝葉に過ぎないような傑出したコンセプト性がこの作品の核心だという事だ。

 もっとも形式としては何も大袈裟なことはない、ごくありがちな学園ものギャルゲーである。従ってゲームを始めるとしばらくは、幼なじみが主人公を毎朝起こしに来たり、道で女の子にぶつかったり、実はそれが転校生で同じクラスになったりと、臆面もないまでにお約束の展開が続く。絵が何と言うかやや独特で、デッサン的に苦しいところもあるし、キャラもあんまり可愛くないんじゃないか、つうか要するに下手なんじゃないかコレ、という疑いを抱かれるかも知れないが、やってく内に慣れるから大丈夫だ。僕は慣れた。君も慣れる。頑張れ。

 攻略対象となる女の子は全6人なのだが、ただそのうち3人までが障害者(作中ではっきりと障害者と規定されているのは盲目の川名みさきと聾唖の上月澪の2人だが、椎名繭もどう見たって知恵遅れだろこれ)、というのはかなり微妙な設定ではある。もちろん差別的な表現がある訳ではない、まあ正確に言うと「現在のPC基準に引っ掛かる表現がある訳ではない」ので構わないのだが、物語の造形手段としてはそれなりにズルい遣り口である事も確かだ。一時期TVドラマを見ると障害者キャラばかりが出ていて辟易させられたものだが、ああいうのを見てああ障害者だって普通の人と同じなのだな差別してはいけないのだなと本気で思うようなお人よしはいないと思うし、もっと言えば例えば大江光のそれ自体としてはごく下らない音楽を「純粋な魂の何とか」みたいな事を言って絶賛するのはどう考えたって差別的だった(その最悪の事例が伊丹十三による映画化)。本気で「政治的公正さ」を追求しようと思ったらこうした逆差別も排して、例えば障害者がごく普通にクラスメートをいじめたり保険金目当てに人を殺したりするドラマが作られなければならない筈だが、そんな物は今は作れないし、作っても何の意味もない。もっと言うなら在日……いや、まあいいけど。

 む。早くも大脱線注意報。まあ既に言った通りこのゲームは別に差別的ではないのだが、一応正論を言っておくと、この作品が障害者を登場させつつも結局はそれを「障害を持った美少女」というロマンティックな対象として描いている以上、「障害者を何の違和感もなくゲームの登場人物として出して嫌味なく描いたタクティクスは偉い」「ヒロインがハンデに負けず前向きに生きて行く姿に感動した」などと言ってみせた所で、「美」でも「少女」でもない普通の障害者が差別され偏見に晒されているという現実は変わらない、どころか寧ろそれによって補強されているのであり、従ってこの作品も厳密には依然差別的であるという事になり(ちなみに『To Heart』の貧乏娘・理緒についても同じような事が言える)、そして更に言えばそもそもその様な描き方を採らざるを得ないギャルゲー・エロゲーという形式自体が女性蔑視的であるという単純にして揺るがし難い事実にまで辿り着かざるを得なくなってくる訳だが、しかしそこまで遡行することは原理的に突き詰めているかに見えて実のところ思考の抽象性を露呈するに留まり些かも現実的ではないのだから、差し当たって今はギャルゲーに障害者キャラを出した事の画期性を作品論的あるいはジャンル論的に評価しようではないか。例えば主人公とみさき先輩の前で澪が自己紹介する場面などは、テクストを主体として進行するゲームの表現として決定的に新しい。

 浩平「しかし、喋れないってのも大変だよな…」
 女の子「……」
 …うん、と頷く。
 みさき「自己紹介もできないね」
 女の子「……」
 …ふるふる。
 首を横に振る。
 そして、ずっと持っていたスケッチブックを取り出す。
 ページをめくり、黒のサインペンで何かを書いているようだった。
 女の子「……」
 ニコッと笑ってオレの方に向ける。
 スケッチブックのページをいっぱいに使って、文字が書かれていた。
 『上月 澪』
 たぶんこの子の名前なのだろう。
 女の子「……」
 にこにこ。
 浩平「……」
 女の子「……」
 にこにこ。
 浩平「…わるい、漢字が読めない」
 みさき「ごめんね、字が見えない」
 女の子「……」
 …はう~。
 …悲しそうだった。

 で話を戻すと。ゲームは前半、ごく普通のよく出来たギャルゲーとして進行する。構成は複数シナリオの同時並行展開という典型的なギャルゲー形式なのだが、その撚り合わせ方の見事さははっきり言って圧巻だ。『To Heart』でさえ、例えば放課後の選択肢が毎日必ず「2階を歩く/1階を歩く/学校から出る/家に帰る」だったりして、コマンド選択AVGの尾てい骨を残している部分があったのだけれど、この作品ではそうしたルーティン要素が完全に消滅し、殆ど一本の筋を辿っているかのような錯覚さえ与えるまでに6本のシナリオが一つの破綻もなく一本化しているのだからマジすごい。まあちょっとタイトにまとめ込み過ぎたためゲームとしての難易度が上がってしまった感もあるが、それにしてもこの構成力は凄いと思う。僕的にはこれだけでもなんか賞とかあげたいくらいだ。いらないだろうけど。また具体的なテクストの水準で見ても相当注目に値することをやっていて、例えば主人公が幾人かの女の子を「長森」とか「七瀬」とか名字で呼ぶ。ギャルゲーをある程度やっている人なら、これがかなり斬新な試みだという事は分かるだろう(無論このことを評価するに当たって、だって現実にはさして親しくもない女の子をいきなり名前で呼んだりしないもんな、などと「現実」を参照する必要はない。「現実」もまた或る認識の枠組を通して「読ま」れるほかない「テクスト」としてあるのだから。なんか相変わらず話が脱線して申し訳ないのだけれどついでだから書いておくと、ギャル/エロゲーを論じるに当たって、なぜか決まって現実の恋愛/セックスを参照しそこからの偏差を測ることに向かいがちな言説が、評価として肯定的(現実より楽しい)であるにせよ否定的(逃避的・自閉的でキモチワルイ)であるにせよ常に貧しいのは、現実と虚構を対比し優劣を決定するという行為自体が、両者を比較可能なニ対象として並置することで却って混同してしまっているからに他ならない。そしてそれはまた作品読解の放棄でもある)。更にギャグセンスの秀逸さに至ってはちょっと類例を見ないほどで、プレイしていて何度となく椅子から転げ落ちるほど爆笑させられる。これは決して作品にとって随伴的な要素として(文字通り)笑って済ませるべき事ではなく、それ自体として高く評価されねばならない点だと僕は思う。――とまあ色々言ってみたが、とにかくそんな具合でこのテクストは素晴らしい(但し誤字は異様に多くてこれは減点)。執拗なまでの「日常」の描き込みとそれのもたらす快感は『To Heart』をも遥かに超える水準に達しており、これだけで終わったとしても十分特筆に価する作品となっていただろう。

 しかしもっと重要で核心的なのは、こうした「日常ほのぼの系」ギャルゲーの多くが、既に『To Heart』の時に述べたように、特異なシナリオ構成を要求するギャルゲーにおいてプレイヤーを飽きさせないためにテクストの強度を追求した結果として「日常」を描き込んでいたのに対し、『ONE』がそれらとは根本的に異なり、作品そのものがまさに「日常」とその喪失を主題としているという点だ。つまり『To Heart』においてあかりが浩之を毎朝起こしに来て、その度に寝癖は温めたおしぼりで直すといいとかいったちょっとした面白い(もしくはまだるこしい)やり取りがあるのは、時間の流れに沿って展開するためどうしても単調になりがちなギャルゲーという形式が要求した結果であったのに対し、『ONE』で長森瑞佳が浩平を起こしに来て、その都度だよもん星人がどうとか下らない言い合いをするのは、そんな変わりばえのしない退屈で平穏な日常を過ごす事の幸福感を、浩平=プレイヤーが十分噛み締めておかねばこのシナリオ自体が成立しないという必然によって導かれた選択なのだ。そのことは、誰もが驚くあの後半の展開において明らかになる。

 物語の後半、主人公はこの世界における自分の存在が急速に希薄化して行くことに気付く。初めはちょっとした違和感だったのが、次第に確実な予感として意識されるようになる。そこにかなり長い、妹を喪った悲しみから心を閉ざしていた子供時代の回想シーンが入る。「すべては、失われてゆくものなんだ。そして失ったとき、こんなにも悲しい思いをする。それはまるで、悲しみに向かって生きているみたいだ。悲しみに向かって生きているのなら、この場所に留まっていたい。」「ぼくは、そんな幸せだった時にずっといたい。それだけだ…。」で泣き暮らす子供時代を送っていた訳だが、そんな彼の前に一人の少女が現れ、「えいえんはあるよ」と言って彼と盟約を交わす。長い時を経てそんな事はすっかり忘れていたが、次第にその盟約の時が近付きつつあるのだ。そして遂に彼はこの世界から消え、「えいえんの世界」へと旅立って行くのでありました。おしまい。

 ……などと言ってもプレイしていない人には何の事やら分からないだろうが、しかしやった人だってよく分からないのだから大丈夫だ。実際この部分の具体的な展開としては、周囲の人々の記憶から主人公の存在が薄れて行き、クラスメートに会っても知らない人を見るような冷たい目で見られてしまうようになる、といった描写が申し訳程度にあるだけで、なぜそんな風になるのか、作品内で(いわゆる)「合理的」な説明は一切なされない。そのためこのゲームはしばしば観念的とか抽象的とか不可解とか時には難解とまで言われる訳だが、にも拘わらずこの終盤の異常なまでの切迫感には観念的どころではない何か圧倒的なリアリティがある。そして、そのためこの突拍子もない展開も物語の流れの中ではある必然性を持ち得ている。一体これは何事だろうか?

 まず注意しなければいけないのは、この世界の中での存在が希薄化し「永遠の世界」へと消え行く主人公、というこの展開が、実のところファンタジー的でもなければSF的でもなく、まして妄想などとは一言も言われていない、それまでの「日常」からきちんと地続きで描かれる徹底してリアルな場面だということだ。ここがポイント。取りあえず今日のところはここだけ押さえておけ。試験に出るから(※出ません)。まあ確かに「永遠の世界」とは何なのか、作中では何の説明も与えられていないので、説明がないと不安になってつい「合理的」な辻褄合わせを案出せずにはいられない精神は、例えば「幼少期のトラウマ」といった健全なまでに分かりやすい「文学」的イメージをここから引き出してしまい、結果この作品は『To Heart』に「精神的な要素」(何だそれ)を加味しただけのせいぜいがよく出来た二番煎じと捉えられ、そのシナリオは出会い→離別→再会という要はマルチのエンディングと同じ趣向のそれを6本並べただけのものとさえ言われ、「永遠の世界」に至っては事もあろうにラストの「再会」を盛り上げるための手の込んだというよりは回りくどい演出程度に片付けられてしまう。なるほど、物語内容だけからすれば、確かに妹の死というトラウマが描かれている以上これらは反駁の余地のないまでにご尤もな意見でもあろうし、まして『To Heart』の絶大な影響力がここにも及んでいることを考え併せればいかさま俗耳に入りやすい。かくしてこの極めて明晰なコンセプトに基づいた作品が、観念的とか不可解とか不条理とか呼ばれて曖昧な理解に留め置かれたまま、「感動的ではあるが肝心の部分で説明不足なのが惜しい」などと言ってお門違いの残念賞を捧げられる条件が出揃った訳だ。

 しかし作品をいたずらに深く読み込もうとした挙句与えられてもいない説明をでっち上げてしまう前に、このラストが作中で具体的にはどのように描かれていたかというごく単純な点を確認しておきたいのである。すなわち、周囲の人々から忘れ去られてゆく主人公をヒロインだけは(なぜか)憶えており、彼が遂に「永遠の世界」へと消え去るまでを見届ける。そしてこの世界では最早や誰も知る者のなくなった彼を一年の長きに渡って待ち続けた後、とうとうこちらの世界に戻って来た彼との再会を果たす、というわけだが、この最後の場面がヒロインの視点から一人称で延々と語られていたという事をよもや忘れた者はあるまい。これは決定的である。なぜならこの場面は、『ONE』が最早や主人公に感情移入して物語を味わうというギャルゲーの最も基本的な枠組を放棄したことを意味するからだ。

 一人の主人公の視点だろうと三人称による客観描写だろうと、或いは視点人物を切り替えて物語を複数の側面から見ることができる「ザッピングシステム」とかを採用しようと、「主人公に感情移入して物語を堪能する」というプレイヤーとゲームの幸福な関係自体は変わらない。或いは、例えば『痕』には柳川という人物の一人称で語られるシナリオが一本織り込まれていたが、一つの物語を複数のシナリオで順に語ってゆく内の一つにおいて視点人物が移動しているだけである以上、これも何ら違和感を与えるものではなかった(というか、柳川と主人公は夢の中で意識が交感する状態にあり、このシナリオも主人公が夢で柳川の視点から見たものという容れ子形式の語りになっているのだから、厳密に言えば視点人物が移動すらしていない)。しかし、それまでプレイヤーが同一化していた筈の主人公の存在が最後の最後で消滅し、さりとて「永遠の世界」での彼の様子が語られる訳でもなく、同一化すべき対象を奪われたプレイヤーを置き去りにして物語だけが勝手に続いて行くというこの場面は明らかに破格だ。しかもそれは単に一人称が三人称に変化するという話法上の破格ではなく、「永遠の世界」というコンセプトの導入によって必然的にもたらされた、この上なく整合的な破格なのである。だから、「主人公がいなくなった場面なのだから他の人物が語り手になるのは当然のことだ」などと言うのはやめておこう。要諦は、このラストシーンではギャルゲー式に物語へ感情移入するという水準が完全に破綻し、いわばシナリオが有無を言わせず一つの事実性をプレイヤーに突きつけるという身も蓋もない事態が発生してしまっているという事なのである。『To Heart』がいわゆるギャルゲー(恋愛と萌えと切ない物語)における一つの到達点であったとしたら、『ONE』は確実にその一歩先へと踏み込んでいる。

 では、その「永遠の世界」とは一体いかなるものであったか。全てがそこへ向けて準備されながら遂に明示されないことによって作品の要となっているこの一点を「解釈」することは、結局作品全体をもう一度語り直すことに他ならないと思うので僕はやらないけれど、ただ少なくともそれが「日常」という問題系に関連しているという事は言える筈だ。例えば、まあ今更ではあるけれどゲーム開始直後のメッセージを見てみるなら――

 とても幸せだった…
 それが日常であることをぼくは、ときどき忘れてしまうほどだった。
 そして、ふと感謝する。
 ありがとう、と。
 こんな幸せな日常に。
 水たまりを駆けぬけ、その跳ねた泥がズボンのすそに付くことだって、それは幸せの小さなかけらだった。
 永遠に続くと思ってた。
 ずっとぼくは水たまりで跳ね回っていられると思ってた。
 幸せのかけらを集めていられるのだと思ってた。
 でも壊れるのは一瞬だった。
 永遠なんて、なかったんだ。
 知らなかった。
 そんな、悲しいことをぼくは知らなかった。
 知らなかったんだ…。
 「えいえんはあるよ」
 彼女は言った。
 「ここにあるよ」
 確かに、彼女はそう言った。
 永遠のある場所。
 …そこにいま、ぼくは立っていた。

 という具合で、失われた幸福な日常とそれを取り戻そうとしている主人公の立場が語られている。そして問題となるのが外傷体験や抑圧された記憶ではなく何よりも「日常」なのであってみれば、続くゲーム本編で描かれる世界をトラウマによる神経症と見るのは明らかに不正確であって、それは寧ろ日常性・自明性の喪失という分裂症的な世界である。すなわち、まずそれまで当たり前だった世界が何らかの出来事(例えば妹の死)によって崩壊した時に、かつて在ったが今は失われたものとして「幸福な日常」という観念が事後的に仮構される(無論それは意識にとっては、先験的に与えられていた「幸福な日常」が何らかの出来事によって喪失したと表象されるだろう)。従って「幸福な日常」は常に過去にしか存在しないのだが、同時にその過去は思い出せば身を切り裂くような辛い記憶でしかない(例えば妹の死)。こうして「日常」はメビウスの輪のように閉じた構造をとり、主体にとってその「幸福」だけが与えられるということは決してない。これが『ONE』における「日常」の構造であって、「永遠の世界」とは恐らく、しばしば言われるような並行世界やインナートリップではなく、このねじれをゲーム前半の「日常」の描写からあくまで地続きで表現するための手段であったと思われる。実際ゲームでも小説でも何でも、妄想や幻想や病的体験といった安易な手法に頼らずにスキゾフレニックな世界をここまで見事に描き切った例を、僕は寡聞にして他に知らない。

 だがいずれにせよ重要なのは、『ONE』が「日常」とその喪失というこの物語を描くに当たって、他でもない「日常」の描き込みこそが要求されるギャルゲーという形式を採用したという事である。この作品が『To Heart』の影響下にあることは否定すべくもないが、ただ全く特異なことに、ここではその影響が寧ろ破棄される方向でのみ現れているのだ。そして従来のギャルゲーが決して持ち得なかったあの戦慄にも似た感動を『ONE』がわれわれにもたらし得たのも、「何事もない幸福な日常」の描写という『To Heart』的なギャルゲーの制度(あるいは流行)を最大限に逆用し、前半では「日常の幸福感」の描き込みを、それ単体として見ても驚くべき達成であるほどに徹底して行なっておきながら、その徹底化の果てに最後には「幸福な日常」を破棄し、同時にギャルゲーという枠組をも破棄してしまったからに他ならない。従って次の論点は必然的に、このコンセプトの一回性の検証、例えばそれが事実上『ONE』の続編と目されている『Kanon』('99 KEY)においても引き継がれ得るものであったかという問題に移行する。

 以上。もう書いててノリノリなのな。書きハイ。あと今気付いたんだけど僕は別に遅筆じゃあないですね。単に書くまでに時間がかかるだけで。同じことか。という訳で次は『Kanon』かな、と思ったんだけど、残念ながら僕は今『D+VINE[LUV]』で忙しいので書くのはまただいぶ先になりやがります。シヅキ先生良いよね~。あと「す巻き」のイベントってどうやったら見られるの?


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作者:林
連絡先:作者へのメッセージ送信フォーム
URI : http://astazapote.com/archives/200004.html
最終更新:Sunday, 09-Jul-2006 12:55:23 JST