ここで問題となるのは、またしてもあの外部性の無さという原形式、外部観測者という立場の不可能性である。ネットでは誰が読んでいるかが戦い方を決定し、かつ決定された結果としてのテクストが再び読まれるという相互決定性が生きられる以上、系に内属しない純然たるギャラリーは存在しない。ちょうどボスニア紛争において調停団や国連軍や記者までが中立という立場を許されなかったように、或いは「舞台と舞台裏と観客席が一体になった演劇」(アルチュセール)のように、つまりはそれまで与えられていた居心地の良い観客席を最後の最後で外されてしまう『ONE』のように。さてここでの戦いは持てる情報と分析力と文章力を総動員するという意味で総力戦だが、同時にせいぜい3日でカタをつけなければ一種の客商売であるサイト運営に支障を来たすという意味では電撃戦とならざるを得ない。それはナチスが市民の日常生活を圧迫することなく戦争を遂行するために総力戦=電撃戦を用いたのと同じ理屈である。その思想は戦後の弾道ミサイル及び戦略核の思想、更には戦争自体をこの世界のどこにも起こさせない、言い換えれば戦場をどこでもない場所(nowhere)に囲い込む今日の米軍のTMD(戦域ミサイル防衛)の思想に繋がる。かくして戦争は戦域(theater)という不可視の劇場(theater)で上演される一つの思想となる。だがそれは一般市民が戦争と無関係になったことを意味しない。逆である。戦域という「どこでもない場所」は世界の外部に位置するが、全体概念としての世界が外部を持たない以上その外部は位相的に反転し全体としての世界の内部に閉域として実現される他ない。従って今や日常生活世界が戦場という非日常を内包しているのだ。ギャルゲーにおいて背景画+キャラの立ち絵が幾度となく反復された果てにイベントシーンでの一枚画が現れるという制度は、ゲームが抱える物理的・技術的貧困である以前に、連続性としての日常とそれを切り裂く形で顔を覗かせる非日常という差異を提示するための限りなく正しい手段と言うべきだが、『ONE』の終盤ではまさにその反復こそがわれわれに耐え難い息苦しさを与えていた。画面には無人の背景画だけが延々と続き、たまに現れる人物も最早や浩平を見知らぬ他人として見てしまう。内密で馴染み深い(heimlich)ものが突如不気味な(unheimlich)相貌を見せる、あの決して忘れられない場面。回想モードでも無視されている背景画+立ち絵こそが実は最も馴染み深い光景だというのに、それを心地良く眺めることが許されない。そして内部と外部の位相的反転というこの事態が起こった時、日常という「今ここ」(now-here)からえいえんという「どこでもない場所」(no-where)への道は既に開かれていたのだ。