アシュタサポテ :: 過去の日記 :: 2000-09

日記 :: 2000-09


2000-09-27

 バイトというのが始めてみたら結構楽しいので、生きる希望が湧いて来ました。少し。あと『ERA』。「君ノ声」とか。

 さて時代に敏感な日記書きとしてはやっぱオリンピックなんですけど、先日人と話してたら、「前回のオリンピックはどこだったか?」というのがどうしても出てこなくなりまして。二人で記憶を掘り返してみても二人ともオリンピックとかに興味のない人間なので全然ダメで、仕方ないから「メダルを川に落とした選手の話を中学の時先生がしていて、それが確かソウルだったから、'88年はそれだ」とか「ロスでは開会式で宇宙飛行士みたいのが飛んだけど、あれはつくばの科学万博の頃だった気がする。だとしたら'84年だ」とか「高校の頃光GENJIが何とかマタドールとかいう歌を歌ってたから、'92年はバルセロナっぽい」とか、ひたすら外堀から攻めてみたんですけど依然出て来ない。テレビをつけて解説者が言うのを待ってみても、こういう時に限って言わない。進退極まったので知り合いに電話したところ(すんなよ。わざわざ)、これが何と平然として一発大正解、「アトランタだろ。」とのお答え。お見事! で「あ゛ー、あ゛ー!!」と二人で奇声を発して喜んでいると、タイミングを見計らったかのようにテレビの解説者が「前回のアトランタ五輪では……」と言ったので爆笑したんですけど、多分こう書いても何が爆笑だったのかは伝わりにくいんだよな(なら書くな)。

 いや、それでさ。僕はこの日ひとつ悟ったんですよ。その話してた相手というのは女だったんですけど、電話して正解を聞き出した後で、その電話の相手(男)について「やっぱ○○さんに聞いて良かった!」とか言ってひどく感心する訳です。つまり僕もオリンピックの開催地さえきっちり押さえておけば、こういう場面で1ポイントゲット! となること請け合いなし! ……あーあ、オレ役に立たないことなら沢山知ってんのになあ。明治・大正期のポルノ小説についてはちょっとうるさいぜ? <モテません


 ところで前回の更新はひどかったですね。余りのひどさに書き終わってからしばらく(ずっと)何も書きたくない状態に陥ったほど。で仕方ないからあちこち出かけて上述のように低脳な事件に遭遇したりしてたんですけど、一応その間にも色々考えてたんですよ。「ぼくもスタンドが欲しいなあ」とか。あと「リサリサ先生に波紋流されてーズラ」とか、な。

 ……そもそもなぜジョジョなのか、と考えてみると、僕にとって例外的に通して読んでいる長いマンガだからといった事もありつつ、結局は作品としてきちんと論じられることが奇妙なまでに少ない作品だからではないかと。実際これだけ広範に読まれ強い影響力を獲得しかつ相当の同時代性さえ持ち合わせながら、それについて交わされる議論というと未だに「ザ・ワールドとキングクリムゾンてどっちが強いんだ? 正味な話」「キンクリだろ。あれはたぶん時を『止めた』うえで『飛ばして』んだから」「でもレクイエムを除いたら最強のスタンドってマンインザミラーじゃねえの?」「いや、ここは敢えてノトーリアスBIGと見た(大穴)」といった物語水準のそれに留まっている。無論僕もそうした議論を楽しまないではないから、一言「君の意見を聞こう!」と振られさえすればそれなりに熱い語りをおっ始める準備はいくらでもあるのだが、しかしそれだけで終わるとしたらやはり勿体ないことだ。よな?

 まあそれを言い出せばマンガというもの自体がまだまだ論じられにくい対象に留まっているという事が問題なんだろうし、だとしたらもっと扱いやすい作品から入るのも手なんだろうけど、では『ドラゴンヘッド』を論じる気になるかというとやはりならない訳で続き。

 スタンドという設定は、従来の超能力マンガにおけるように超能力を効果として描くのではなく、超能力そのものを視覚的に表現したいという、斬新と言えば斬新だがまたかなり大雑把でもある思いつきによって導入されたものなのだろう。少なくとも第三部序盤ではそのように機能している。しかしスタンドの定義は作品の展開につれてかなり変化して行き、「スタンドはスタンド使いのそばに立つ姿で現れる」「一人一体である」「スタンド使いにしか見えない」等の設定は、何だかんだ理屈をつけつつどんどん捨て去られて行く。だがそこに作品的な破綻を見ることは恐らく余り生産的ではない。なるほど、波紋法という秀逸なアイディアと新鮮な表現技法(例えば独特のポーズや擬音や台詞廻し)とを備えながら、同時にお約束的展開を決して外さないウェルメイドな少年マンガとして完結した第一部と、その美点を受け継ぎつつ、デビュー作「武装ポーカー」において既に顕れ『魔少年ビーティー』で主題化して描かれたトリック戦というこの作者の十八番を存分に展開し、その上連載マンガとしては奇跡的なまでに高密度で破綻のない物語的完成をも実現し、恐るべき作品的強度の達成のうちに幕を閉じた誰もが傑作と認めるあの第二部の後で、スタンドというこの隙だらけのアイディアを見せられるとやや弱いという感は否めないかも知れない。しかし僕の考えでは、荒木飛呂彦の作家としての直観力の凄さが本当に発揮されたのは恐らくここからである。

 スタンドというアイディアの画期性は、持っている能力が全て違うという一点に尽きる。といっても新しいスタンドさえ考え出せばいつまでも連載を続けられるから有利な設定なのだといった話では勿論なくて、こういう事だ。まず、第三部で承太郎達の一行は、エジプトへの旅の途上ディオが次々と差し向けてくる敵スタンド使いと戦うわけだが、それは毎回決まって次のようなプロセスを踏む。すなわち、まず「それがスタンド攻撃であるかどうか」、次に「スタンドだとしたらどんな能力を持つスタンドか」、そして「本体はどこにいるか」を付き止めた後、ようやく戦いに入るのである。というのも、スタンド使いは外見上はどれも普通の人間(時に動物や物)でありそれ自体としては敵と認識されないし、新たな敵スタンドは常に未知の能力を持つため、直接的な戦いが開始される前にそもそもまずそれをスタンドとして認定する事が要求されるからだ。登場人物たちはしばしば「なにかやばい」という台詞を口にする。身に危険が迫っている事は感じられても、それが具体的にはどのような敵か、誰(何)が敵なのか、時にはそもそも敵がいるかどうかすらが分からないのである。

 物理的・現実的な危機でありながら抽象的・観念的にしか察知し得ない、この捉えどころのない不安感の表現はすぐれて今日的なものだろうし、だから、後続する様々なマンガやゲームにこのスタンドというアイディアが影響を与えたりパクられたりしているという事実は、単にアイディアとしての秀逸さや視覚表現としての斬新さだけではなく時代の要請をも考慮して確認される必要があるのだろう。敵の具体的なイメージの希薄化・消失、それは例えばゲームの分野においては、『バイオハザード』のように敵の存在の不透明性や戦いにおける不安感を前面に押し出した作品の登場によってそれなりに跡づけられもしようし、或いはそれと表裏一体の関係にあるだろう、具体的な敵との肉体的で直接的な戦いの快感を与えてくれるためそれ以前の単純なアクションゲームを殆ど記号的・抽象的な戦いにすら感じさせてしまう格闘ゲームというジャンルの隆盛も、その一つの裏付けとして認められるかも知れない。というのも、初期の「自機が格闘家型のアクションゲーム」が格ゲーという独自のジャンルに進歩するには、敵を自分の手足で直接ボコボコにしてやることが敵機に弾を当てて撃ち落とすのとは違った独自の快楽として受け止められるだけの背景があったと考えるのが自然だからだ。或いはまた、例えばこのページで以前『サクラ大戦』について少し書いたことがあったと思うが、あの作品が感動的であったとすれば、その理由は政府転覆を目論む悪の組織を相手どり正義の乙女たちが戦うという今時時代錯誤も甚だしい物語そのものの水準にではなく、そんな直球でお約束でわかりやすい物語を'90年代も後半になって、しかも(ここが重要なのだが)パロディ抜きで、上質の作品に仕立て上げることが出来たという事実性にこそあった筈である。無論それは同時に作品の全編に横溢するおよそ堪え難い気恥ずかしさの原因ともなったのだが、ともあれ広井王子やあかほりさとるといった連中のクリエイターとしての凡庸さと鈍感さが、敵の具体性の希薄化という同時代的な事態に全く左右されないほど甚だしかったためにここでは却って有利に働いていることを、一つの事実として認めねばならぬ地点に今やわれわれは到達しつつあるのだ。例えばこのゲームの戦闘パートでは敵も味方も攻撃さえすれば必ず命中するようになっているが、それは必ずしも難易度を下げることで間口を広くしようという目論みの結果ではなくて、或る手応えというか「固さ」を持った戦闘を描こうとしたためではないのか。

 ――要するに「スタンド」とは、まあ今更こんな事を口にするのは些か気がひけぬでもないのだが一応確認のために言っておくと、『新世紀エヴァンゲリオン』の「使徒」に極めて近くかつそれを先駆ける設定だった訳であり、ジョジョを読むのにエヴァが或る部分で有効な補助線となりうるのもそのためである。例えば、戦闘シーンを主眼とする少年マンガにおいて脇役が戦いを「解説」するという伝統的な手法がある。ジョジョ第一部では主にスピードワゴンがその役を担って「う…うまいッ 剣からの防御がイコール波紋攻撃につながっているぞ!」とかいちいち叫んでいたし、第二部では例えばシーザー対ワムウ戦におけるように戦闘中の人物の内白や作者によるナレーションが採られることもあり、チーム戦が基本となる第三部後半以降はこのナレーションが消滅し全てがその場に居合わせる人物の台詞によって処理されるようになる訳だが、エヴァの戦闘シーンにおいてこの「解説者」の役割を当てられていたのは、黒地に白抜きのインタータイトルでは勿論なくて、ネルフ本部スタッフによる情況報告であった。つまりエヴァの戦闘シーンが迫力や興奮を超えてそれ自体殆ど感動的ですらあるのは、描画を量的にも質的にも贅沢に使った速いカット割りによる場面描写そのものというよりは、その模様をネルフのスタッフが報告する緊迫感に満ちたシークエンスが律儀なまでに頻々として挿入されるからであり、そのため例えば第13話「使徒、侵入」(僕はTVシリーズ全体を通してこれが一番出来の良いエピソードだったとさえ考えているのだが)では、マイクロマシン状の使徒が本部のコンピュータを乗っ取る(ハックする)という話のため具体的・物理的な戦闘の描写など全くないにも拘わらず、この情況報告だけで驚くばかりエキサイティングな戦闘を描くことに成功していた。

 マンガにおいてこの「解説」は、攻撃の一瞬を極端に微分し多くのコマに割り振りそこに説明的な言葉を書き込んで行くという形をとるため、例えばその起源が『巨人の星』に求められたりもする訳だが、同じ事がアニメで表現されるに当たっては時間的な微分へと置き換えられる事がある。要するにスローモーションというやつで、無論それは'70年代の例えばサム・ペキンパーの映画などでここぞという場面になるとお約束的な臆面なさで顔を出すスローモーションの流行とも併せて再検討されるべき問題だと思うが、差し当たってエヴァに関して言うなら、ネルフスタッフの報告シークエンスはこれを避けるためにとられた手段と解して良いと思う。なぜなら、スローモーションという時間方向への微分化は画面の強度の持続(それはエヴァにおいては主にカット割りのスピードによって生まれていた)を犠牲にすることを意味するからだ。加えて、アニメや映画といった映像表現では時間経過が一定にならざるを得ないという問題がある。つまりマンガのように読者が好きな速度で読み進めたり、まして一旦読むのを中断して前のページに戻って読み返すといった自由はアニメや映画においては存在せず、たとえそのような鑑賞の仕方がビデオによって擬似的に可能になろうとも、或いはエヴァがビデオによる繰り返し鑑賞を殆ど前提としているかのような作りになっていようとも、それはこの映像表現の生の条件を些かも揺るがすものではないのだ。

 さて、これはまあジョジョの読者なら誰でも知っていることだと思うのだが、主人公たちが敵を倒す際には最低一度は形勢の逆転が起こるのが常であり、かつそれは多くの場合、数ページ前で既に描かれた行為が実は別の意味を持っていた、または描かれていなかった行為が実は行なわれていたという、作品に対する遡行的な解釈によってなされている。つまりジョセフがロープを「切断されてもだいじょうぶなようにトリックをつかって」張っていた(8巻)とか、仗助が街のチンピラたちに間田の居場所を教えていた(31巻)とか、ドッピオ(ディアボロ)がメスを投げたのはリゾットを狙ったのではなくエアロスミスに探知させるためだった(59巻)とか、まあ枚挙に遑がないわけだが、こうした行為の「再解釈」によってバトルのカタルシスがもたらされる訳だ。しかもその行為は、ごく稀に、例えば「恋人」のスタンドが本体の方へ戻って行く時既にその足に花京院のスタンドが巻き付いていた(18巻)といったケースもあるにはあるが、大抵の場合実際に描かれてはいない。まして「再解釈」のために「回想」という話法がとられた事は、第二部の「柱」を登る訓練においてジョセフが油面の下を滑った時(8巻)などを例外として殆ど存在しないのである。

 幾らでも読み返しが可能な筈のマンガという形式の中で、荒木飛呂彦がその特権を敢えて利用せず一貫して単線的な時間に沿った話法を採り続けているのは、無論読みのスピードというかドライヴ感を重視してのことだろう。いや寧ろ、差し当たって読者を「今」惹き付けることを何よりも優先させる週刊連載作家として、荒木は「読み返されたくない」し「読み返す必要のない」作品を描いていると言うべきなのかも知れない。物語時間は「再解釈」によって幾度となく中断し逆行しながら、作品的な時間の流れは決して断ち切らないというやり方。そしてこの創作態度はスタンドという設定に或る重大な概念を付け加えることになるのだが、それを検証する前に今一度、エヴァの報告シークエンスの話に戻って一つの単純な点を確認しておきたい。

 すなわち、その報告が多くの場合残り時間に関するものであり、しかもそれが極めて正確になされていたというごく自然に看取される事実がそれで、例えば伊吹マヤが「初号機、活動限界まであと30秒」と言えば30秒後には本当に初号機は停止するし、青葉シゲルが「カスパー、18秒後に使徒に乗っ取られます!」と叫べば18秒後には本当にカスパーが乗っ取られる訳だが、緊迫感を盛り上げるための単なる説話的技法とだけ捉えて見過ごされがちなこれらの場面がなぜ重要なのか。それは、使徒と呼ばれる敵が確かに物理的な脅威ではあるのだが襲ってくる理由も正体も明かされていないため観念的な対応しかできないものと設定されており、実際シンジも含めて第3新東京市の人々が使徒に対して具体的な恐怖や不安を感じることが出来ていない以上、そこで緊迫感を演出しようとしたら後はもうカウントダウンという強制的な手段にでも頼るしかなかったという、すぐれて「作品論的」な必然性がここから浮上してくるために他ならない。従って人はこれから先こうしたカウントダウンの場面を見直す機会を持ったならば、庵野秀明がサスペンスの演出に成功してほくそえむどころか苦渋の選択を強いられて懊悩する姿を思い浮かべる必要があるだろう。要するになぜ伊吹マヤがああまで執拗に残り時間を叫び続けていたのかが今改めて問われねばならないのであり、それはまた彼女が綾波レイなんかより余っ程萌える(個人的に)理由とも関連して極めて重要な問題系(個人的に)を形作る筈なのだがまあそれはどうでもいい。あと「伊吹マヤ論」はたぶん書かない。

 話を戻すと、エヴァにおけるこの「残り時間」に対応するのは、恐らくスタンドの「射程距離」という概念である。それぞれのスタンドには有効な射程距離というものが定めれており、敵と戦う際には「いかにして相手を自分の射程距離内に入れるか」或いは「いかにして相手の射程距離から逃れるか」が常に問題とされる。スタンドという設定が導入された当初は「花京院の『法皇の緑』は承太郎のスタープラチナよりパワーは劣るが遠くまで行ける」といった各スタンドの差異化程度の意味しか持たなかったこの概念が、間もなく戦いにおける最も重要な点と見なされるようになった事実はもっと注目されてよい。それは自然発生的であるだけに却ってこの設定の核心を窺わせるものだ。まず、使徒と同じく具体的なイメージや攻撃における直接性を欠いた敵を表現しようにも、読み返しが可能であるどころか物語時間の遡行が「再解釈」という形でバトルにとって不可欠な要素となっているこの作品において、「残り時間」などを報告したところでさしたる緊迫感がもたらされないことは自明である。ではマンガにおいて同種の緊迫感はいかにして表現され得るのか? 「残り時間」という誰にも左右できない不可避的な制約を、空間方向に置き換えてやればよいのである。かくしてこの「射程距離」という空間的制約は、エヴァにおいて使徒がいかなる攻撃形態をとろうとも――たとえシンジを虚数空間に摂り込もうとも――時間の流れ自体はその間もあたかもアニメの時間の流れそのもののように一定していたのと同じで、全てのスタンドに例外なく適用される規則となる。「一人一体」「スタンド使いにしか見えない」等の規則は捨て去られても、「射程距離」の規則を無視するスタンドだけは決して現れないのだ。エヴァを補助線としてジョジョを振り返って見た時に分かるのは、例えばこういう事である。

 従って、スタンドが導入される第三部以降が全て距離を巡って展開される物語となったことには、これも極めて「作品論的」な必然性が読み取れるだろう。すなわち第三部は日本からエジプトに向かってディオとの「距離」をつめて行く物語だった筈だし、一方第四部の吉良吉影と第五部のディアボロはディオのように一ヶ所に留まってはいないが、仗助やジョルノがその「正体」を探り近付いて行くという点ではこれも同じく「距離」の物語と言えるからだ。また第三部・第四部・第五部それぞれのラスボスが揃いも揃って「時間」に干渉する能力を持っていたことをワンパターンと言って批判するのも、今や作者に対するアンフェアもしくは作品に対する単なる読みの不足を露呈させるだけの結果となろう。なぜならラスボスが(少なくともその「部」における)最強のスタンドであるなら、当然それは全てのスタンドに関して適用されるこの「射程距離」という空間的な制約をせめて自分の射程距離の中では無効にする能力を持たねばならず、かといって「死神13」や「アトム・ハート・ファーザー」或いは「マン・イン・ザ・ミラー」のように何らかの形で異空間を持ち出すと却って「その世界内でしか強くない」という限界が見えてしまう以上、その能力が「時間」に向かうのは最早や殆ど必然だからだ。そしてこのように言えば、第四部ラスト(45巻)の「バイツァ・ダスト」が、解釈上の様々な問題点を残しつつも全編を通じて最も緊張感に満ちた挿話の一つとなり得ていた理由も、既に明らかになりつつある筈である。

 「バイツァ・ダスト」はスタンド能力のない少年・川尻早人の中に仕掛けられて、吉良の正体を知ろうと近付いた者を全て自動的に爆殺し、その上で1時間ほど時を巻き戻し同じ朝を何度も繰り返すことで不可逆的な現実を形成する能力、とでもまとめられるだろうが、重要なのは、物語時間が逆行し反復される一方で作品的時間はその逆行・反復までを含めて常に単線的に流れるというその描かれ方である。要するにそれは殆ど「再解釈」という話法そのものの作品化なのだ。なるほど、ここでも戦いに逆転をもたらすのは4度目の朝に早人が仗助に電話していたというあの「再解釈」であり、再びバイツァ・ダストを発動させようとする吉良にとどめを刺したのは他でもない「射程距離」内に入ったエコーズACT3とスタープラチナだった訳だが、しかし「バイツァ・ダスト」において興味深いのは、早人が岸辺露伴への攻撃が開始される8時29分までに吉良を「猫草」の「射程距離」内に入れて倒そうとする「残り時間」の物語になっているという点である。つまり「再解釈」を話法として許容するマンガでは採られる必要のなかったカウントダウンという手法が、まさにその「再解釈」自体を作品化したようなこの「バイツァ・ダスト」では有効になってくる事を作者は当然見抜いていたのであり、奇しくもエヴァの本放送が始まったのと同じ時期に描かれたこのエピソードが示唆するものは大きい。それは作品的水準への自己省察を含むという点で、第三部の「ザ・ワールド」、第五部の「キング・クリムゾン」及び「ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム」といった同様に時間干渉型のスタンドを扱ったエピソードよりも格段に優れているものだ。加えて物語の水準にとってもそれが秀逸なのは、第四部全体を主人公・仗助の「治す」能力と吉良の「壊す」能力の対立の軸に収斂させるだけでなく、時間に干渉することでそうした通常のスタンド同士の対立や対決を無効にしてクライマックスを形作るからであり、その意味では、連作短編集として読めばそれなりに面白いが通して見ると明らかに行き当たりばったりで描いているためファンの間でも今一つ評判の悪い、荒木自身も当初は「ほとんど何も決めてなかった」ことをインタビューで告白している第四部は、「バイツァ・ダスト」によって極めて整合的な決着をみたと言えよう。

 とは言え、物語を上手くまとめた事ばかりを過大評価するべきはない。例えば、イタリアのギャング組織を舞台にした続く第五部は、「このジョルノ・ジョバァーナには夢がある!」という台詞の強迫的な反復において第一部のジョナサンの「主体性」を想起させつつも、不可避的な場所移動によってストーリーが進むという点では第二部を思わせるかなりドライヴ感のある展開をするのだが、しかし戦いの動機や目的が限りなく多層化されてしまっているため全体が見通しにくく(「街を浄化するためにギャングのボスになるために現在のボスを倒すためにボスに近付くために今は一旦その命令に従ってトリッシュを護衛するために敵を倒す」……)、そのためジョルノの「夢」という行動原理も実際の彼の行動とは奇妙に乖離した印象を与え、結果としてブチャラティたちのチームの中で彼が最も影が薄くなるという事態まで引き起こしている。要するに、もし作者が「ほとんど何も決めてなかった」第四部の反省からこの第五部では物語を牽引する動機として主人公に「夢」を語らせ、或いは最初からラスボスの存在を明確化しておいたのだとしても、その試みは連載の経過につれて失敗というより単に忘却されてしまうのだ。そして最後に登場するラスボスは、「時を飛ばす」という恐らく最も問題の多い――とはつまり、設定上およそ破綻し切った能力を持つスタンド、ディアボロの「キング・クリムゾン」である。

 「時を飛ばす」というのが本当に時間を削り取って結果だけが残るという能力だとしたら、例えばその能力が初めて描かれる場面(56巻)でブチャラティが数秒未来の自分の姿を見ている理由が分からないし、時間の流れはそのままでディアボロ以外の人間にそれを認識できなくさせる能力だと考えるならば、今度はその後の対リゾット戦でエアロスミスの弾丸が自分に当たる瞬間の0.5秒を飛ばしてその先にいるリゾットに命中させている(59巻)のはおかしいという事になる。これらを誰もが納得する形で完全に整合的に説明することはまず不可能に近い。しかし今読まれるべきはそうした相矛盾する場面が描かれた「作品論的」な理由であり、無論それは誰の目にも明らかな筈だ。すなわち今その場面で本当に面白いことが描けるなら多少の物語的整合性などは捨てて顧みないというのが、十年以上に亘ってこの作品だけを描き続け読者を引っ張ってきた荒木飛呂彦の作家性だからである。その限りにおいては第五部も、各エピソードの壮絶なまでの死闘ぶり(ちょっと血が流れすぎという気さえするのだが)によって十分「面白い」作品として擁護されて然るべきだろう。これは贔屓でも何でもなく一つの単純な批評的前提として認められねばならない。なぜならその態度の徹底化において作品的強度を獲得してしまったケースが既に第三部に見えている以上、それは最早や『ジョジョ』という作品の論理とでも呼ぶ他ないからだ。

 繰り返しになるが、スタンドというアイディアの画期性は能力が全て異なるという点に存する。しかし第三部ラストでは、承太郎のスタープラチナがディオのザ・ワールドと同じ「時を止める」能力を持つに至っている。この戦いの最大の眼目は、承太郎のクールな戦いぶりでもなければ、最後には彼が「プッツン」してディオを倒してしまうというあっけないほどの単純さでもなく、二人のスタンドが能力的に完全に同一だったという転倒にこそあった。つまり、時を止める能力というアイディア自体はさのみ驚くべきものではないし、実際第三部をリアルタイムで読んでいた者のうちにはこれをある程度予期し得ていた者も決して少なくはなかったと思うのだが、にも拘わらずあの戦いがエキサイティングであったとするなら、それは「各人のスタンドは必ず異なった能力を持つ」という暗黙のうちに了解されていた設定が、何の違和感もなしに覆されていたからでなければならない。人はしばしばスタンドという設定の曖昧さを指摘するが、ディオと承太郎のスタンドが能力において実は何の違いもないという、現在連載中の第六部(『ストーンオーシャン』)に至るまで他には一度も生起したことのないスキャンダラスな事態がここで起こっていたという事実には気付きさえもしないのだ。そしてこのスキャンダルを誰にも察知されないままさも当然といった手つきで描いてしまったところに、荒木飛呂彦という作家のあざとさというよりは遥かに透徹した知性があった。

 はい、おしまいです(主に気力が)。スタンドに関してはたぶん延々語れるけど、これ以上はつまんねいから書きません。で次回はエロゲーです。『AIR』は買ったけどまだやってません。


2000-09-15

 思い出してみるともうここ数ヶ月の間新しいエロゲーに手を出した記憶がありません。たまにやったのもレビュー書きのための再プレイです。生き馬の目を抜くエロゲー界では一ヶ月のブランクさえ致命的と言われていますが(たぶん)、仮にもエロゲーサイトを作っている人間がこんなことでいいんでしょうかっていうか「仮」だから全然構わないと思いました。つうかぶっちゃけた話エロゲーってつまんなくねえ?

 と、まあ恋愛ゲームZERO(やる気が)っていうか相変わらずダレダレな日々なんですが、気がつけばバイトというものを始めてからもう一ヶ月、そろそろ初給料が入るらしいんですよ。給料ですよ給料。金ですよ。銭。この僕が。いいんですかそれ。貰っちゃって。何かの間違いじゃないんですか。カタギの仕事をして得た初めてのお金ですよ。こ、これはやっぱ『AIR』ですか。「生まれて初めての給料で『AIR』を購入」……うわ、カッケエー! すごく良い思い出になりそうだし! よくアメリカ人が初めて稼いだ1ドル札を額縁に入れて飾っておいたりしますけど(これ僕の思い込みですか? なんか功成り名を遂げた実業家が葉巻とかくわえて「中学の夏休みに近所の家の芝刈りをして稼いだ初めての1ドル札」を眺めているという図)、あれみたいに、初めて稼いだ金で買ったエロゲーを額縁に入れて……

 イヤ過ぎですね。そもそもなぜエロゲーをやってないのかと考えてみると、「僕の生活に必ずしも必要ではないから」という身も蓋もない結論に逢着してしまいます。例えば「コーヒー」「煙草」「ストーンズ」あたりはなくなったら相当困るけど、エロゲーは別に、まあ『ONE』とかはちょっと別格としても、あーあと『雫』も別格なんだけど、あ、だったら『Eye's』も別格(ある意味)だし、『行殺』はやっぱ外せないし、そこまで言ったら当然『Kanon』も入るし、あと(中略)とまあ、僕にとってエロゲーなんて「所詮その程度のもの」なんですよね。<説得力が!

 だから初給料はまずはストーンズのまだ持ってなかったCDに回します。ていうかなんか僕は『Exile On Main St.』だけあれば生きて行けそうな気もすんだけど、その辺どうよ(いや俺に聞かれても)。


 じゃ本題。長くなりそうなんで2回に分けることにしました。今回は取りあえず流して行きます。で次回は流されて行くってことで(沖の方へ)。ぶくぶくぶく。がぼっ。

 ある対象を論じる際にわれわれが採り得る手段は無数に存在する筈だし、寧ろそれがたかだか有限個でしかないならば批評という行為自体が不可能だとさえ思うのだが、ともあれごく一般的な話として、一つの作品を論じれば作品論が、また同じ作者の名を冠した複数の作品を同一性へ向けて読み解けば作家論が、それぞれ成立するという事になっている。そしてここで取り上げる荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』が極めて厄介なのは、第一には荒木という漫画家がこれ以外のものを殆ど描いてこなかったため作品論と作家論が分かち難くなってしまうためである。例えばこの作品の全編を通じて確認される「運命」や「血統」或いは「生命」といった観念への拘りを、作品的なテーマととるか作家が抱える固有の問題系ととるかによって解釈上のかなり大きな分かれ目が生じるであろう事は想像に難くない。だが真の困難は、この作家或いは作品に関しては最早やそうした割り切りすらが通用しなくなっているという点に存する。

 こういう事だ。仮に今、一人の批評家が「荒木飛呂彦論」を展開しようと思い立ったとする。無論彼は『ジョジョ』の他に『ゴージャス☆アイリン』や『バオー来訪者』や『魔少年ビーティー』の単行本、そして短編集『死刑執行中脱獄進行中』を引っ張り出してくるだろう。だがそれを読む事は出来ないのだ。なぜなら『アイリン』や『バオー』における「変身」という主要モチーフは『ジョジョ』における石仮面や「シンデレラ」のスタンドを否応なく想起させるし、腕からサーベルを出すバオーのデザインは必ずやカーズのそれから遡行的に理解され直すだろうし、ビーティーも今やジョセフ・ジョースターの祖形として解釈される他ないからだ。まして'90年代の短編ともなれば多くが『ジョジョ』第四部の外伝という形をとっているのだから、かくして全ては『ジョジョ』という一作品に収斂し、作品の現れた順序の一回性が批評の物理的限界の一つを形作るという単純な事実によって作家論の夢は潰えてしまう。荒木自身あるインタビューで「何を描いてもジョジョになる」という意味の発言をしているが、それは読み手にとっては今や「何を読んでもジョジョになる」ことを意味しているのである。

 では、この際『ジョジョ』だけを扱う作品論に徹すれば良いのだろうか? 同様の困難は別の水準でも発生する。例えば同じ『週刊少年ジャンプ』連載の秋元治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』なども作家論と作品論が分かち難い事例の一つだと思うのだが、この作品は言わば良質のマンネリズムを志向する事で長続きし、或いは長続きする事を許されてきたと言えるだろう。しかし『ジョジョ』は、物語としては連続性を保ちつつも、同時に第一部・第二部・第三部……とチャプターによる切断が導入されているため、それぞれを別個の作品として読む事が可能であり、或いは長期連載の宿命として物語的な整合性が細部で破綻している以上別個の作品として読まざるを得ないとも言える。換言するなら、ここで浮上してくる新たな問題点は「部分を扱うか全体を扱うか」という二者択一ではなく、「部分を扱う際には全体が、全体を扱うに際は部分が常に参照されねばならない」というダブルバインドなのだ。お蔭でわれわれは今日もまた「やっぱ第二部が最高だ」「いや第三部のスタンド戦に尽きる」「個人的には第四部が一番面白かったんだけど」といった終わりのない議論をつい交わしてしまう。従って作品の内容以前に、この「部」という単位の持つ意味が問われねばならない。

 まず、チャプターによる切断が単に世代交代及び舞台転換という「説話論的」な要請によって現れたものではなく、それこそ『ドラゴンボール』的なパワーインフレを避けるための手段であったことは容易に見てとれる。つまり前に出て来た奴より強い敵が出て来ないと納得しない読者を長期に亘って惹きつけるために、ある程度の所で「強さ」の単位をリセットするという事がこの切断の持つ「機能論的」な意味だと差し当たって言えるだろう。「波紋」を武器として「吸血鬼」や「柱の男」と戦う第二部から、「スタンド」という新しい設定が導入される第三部への移行は、その最も顕著な例である。しかしそれだけではない。例えば第一部ではディオという吸血鬼をラスボス(頂点)に配し、その下には彼によって作られたゾンビがザコ敵として位置しているのに対し、第二部では吸血鬼の更に上位の存在である「柱の男」(カーズ・エシディシ・ワムウ・サンタナ)が登場するため、前者は一撃で倒されるザコに降格してしまう。第一部のジョナサンがあれだけ苦労して戦った相手を第二部のジョセフは同じ「波紋」で簡単に倒してしまうのだから、これは考えてみれば奇妙な事態なのだが、しかし実際には第二部では吸血鬼が殆ど登場しないためこれを不自然と思う読者は余りいない。つまりワンランク上の敵が登場してはいるが事実上は「『強さ』の単位のリセット」がここでも起こっているのであり、このような巧妙な隠蔽を可能にする点にこそチャプターによる切断という手法の妙があると言うべきだろう。

 だが、この切断の持つ「作品論的」な意味はその先にある。例えば第一部の展開を確認してみるなら、ジョースター邸からトンネル内の迷宮を経て四方を山と海に囲まれた町、湖の中、騎士たちの修練場、その中の双首竜の間、ディオのいる館、とりわけそのバルコニー、そして新婚旅行の船内を経て、最終的にはディオが用意した棺桶状の箱へと収斂する、或る区切られた空間から別の区切られた空間へという運動が顕著であり、かつそれは主人公ジョナサンの内面的で主体的な行動原理に連動している。つまり内面的なドラマが展開し得る場所としてその舞台にはある閉鎖性が要求されている、或いは閉鎖性を持った舞台の連鎖が内面的なドラマの持続を可能にしているのである。実際第一部では、ジョナサンの戦いにまつわる動機や因縁といった「内面」が繰り返し語られている。

 「ぼくの青春はディオとの青春! これからその青春に決着をつけてやるッ!」
 「ジョジョは悲しすぎる過去と重すぎる未来への責任を背負っているからできるのだ」
 「ジョースターさんにも背おっているものがある 亡き父への思いと未来への希望が!」
 「彼の青春はディオとの青春でもあったからさ!」

 少年マンガで主人公が悪の権化である敵と戦う動機は、話を推進させる初力を与えるだけでそれ自体としては空虚な物語学的記号(マクガフィン)に徹するべきだと思うのだが、その動機についての言明がこれだけ執拗に繰り返されねばならなかったという事実は、こうした台詞の具体的な内容以上に雄弁に、ジョナサンの行動がどこまでも主体的で内面的な動機に根ざしている事を物語っている。連載が開始した第一回で「この物語はメキシコから発掘された謎の『石仮面』にまつわる2人の少年の数奇な運命を追う冒険譚である!」(1巻12頁)と断言しておきながら、いつまで経っても「冒険譚」に入らず単行本丸一冊を費やしてジョナサンとディオの生い立ちを描く必要があったのもそのためである。

 一方ジョナサンの孫に当たる第二部の主人公ジョセフは、祖父の世代からの因縁におよそ主体的とは言い難い仕方で巻き込まれて行く。当然その物語は、彼が強制的に地理的移動へと駆り立てられることよって展開することになる。すなわち、ニューヨークからメキシコ、ローマ、ヴェネツィア、サンモリッツそして地中海ヴォルガノ島にまで至るジョセフの移動は、一つの場所でのイベントがクリアされると必ず次に行くべき場所が指示されるという形で、或いはちょうどニューヨークでジョジョに倒されたストレイツォが死ぬ間際に「もはやのがれられない運命に『今』踏み込んだ」(6巻86頁)と告げている通り、彼の主体的な決断を一切待つことなく事実上全て不可避的になされている。

 これを誇り高い紳士のジョナサンといい加減なジョセフという性格設定の差異に、つまり物語の水準に還元するのは不毛である。寧ろそうした設定がそこから派生するような根本的な差異が、チャプターによる切断によって予めもたらされていたと言うべきなのだ。例えば、いずれもジョジョと呼ばれる二人の主人公が「落下」という運動によって戦いを進める二つの場面を比較してみよう。すなわち第一部ではジョナサン・ジョースターが、石仮面を被って吸血鬼となったディオをジョースター邸の屋根からともに落下することで倒そうとした(2巻)し、第二部ではジョセフ・ジョースターが井戸の底へと落下しながらサンタナを石化させた(7巻)訳だが、ここで注目されるべきは両者の同一性ではなく差異である。なるほど、第一部でディオが自ら石仮面を被り吸血鬼になるという行為は、「このジョースターとかいう貴族を利用してだれにも負けない男になるッ!」(1巻21頁)という貧民出身の彼の「上昇志向」の延長線上にあったし、一方第二部の「柱の男」たちも究極生物になるという同様の上昇志向からジョジョたちと対立していた。だから両ジョジョの戦いはともにそれを引きずり下ろすことにあり、その意味で二つの場面には見かけ以上の相似性があるようにも思える。

 しかしこの同じ垂直運動の持つ意味は第一部と第二部では全く異なるのだ。なぜなら第一部が前述のように閉鎖的空間を経巡る運動から構成されるのに対して、第二部は一貫して垂直方向の運動によって展開する物語だった筈だから。すなわち対ストレイツォ戦ではコーヒーショップから橋の上へ移動し、倒されたストレイツォはそこから落下する。対サンタナ戦ではナチスの地下実験室へ降りた後再び地上へ戻り、ここであの井戸を落下する場面になる。そしてヴェネツィアで塔を波紋でよじ登る修行をした後にはローマの地下遺跡へ降りてカーズ・エシディシ・ワムウに出会い、続く対エシディシ戦では闘技場から塔の上にあるリサリサの部屋へと場所が移される。次いでスイス国境での対カーズ戦ではこれまた谷底へと落下し、最後にはサンモリッツのカーズ達のアジト(閉鎖されたホテル)からピッツベルリナ山麓の闘技場へ、更にナチスの軍用機で空中へと標高が高まった末、究極生物となって生物進化の頂点に立ったカーズは火山の噴火によって大気圏外へと追放される、といった具合である。

 この事に更に「食物連鎖」とか「生物進化」といったタームで語られている基本設定を重ね合わせれば、第二部の構造自体がかなり明瞭なヒエラルキー構造をとっている事が分かるし、物語構成の水準での垂直運動が視覚表現の水準でのそれと完全に同期しているという事実は、漫画作家としての荒木飛呂彦の優れた資質を証明してもいるだろう。しかしここで注目すべきなのは、それが荒木の全作品に共通して見られる作家論的な特徴でもなければ、『ジョジョ』の全編を通じて見られる作品論的なそれでもなく、第二部にしか見られない、かつそれによって第二部を特徴づけてもいる現象だということだ。チャプターによる切断が物語的水準に先行してもたらす「作品論的」な意味が読み取れるのは、例えばこのような視座においてである。そしてそれが第二部だけから積極的=実証的に取り出すことの出来ない、他の「部」との相対的な関係においてしか存在しない差異であるという点に、『ジョジョ』に対する「作品論」的アプローチが困難となる理由もあるのだ。


 で以下は補論。僕は第一部・第二部・第三部……という所与の切断点を取りあえずそのまま引き受けて議論を進めるが、無論それを一旦還元した上で作品を寧ろ連続性における微細な変容において眺めるような読解も可能ではあろうし、それなりに有益ですらあるだろう。例えば第三部では百年の時を経て海底から甦ったディオを倒すべくジョセフの孫である承太郎らの一行が日本からエジプトへ旅をするのだが、その中のある箇所――敢えて特定するなら「審判」(19巻)の前後という事になると思うのだが、ここには確かに幾つかの変容が認められる。すなわちインドで死んだ筈のアヴドゥルが復活するというまことにご都合主義的な展開を受け止めるシリアスからギャグへの傾斜であり、一つの戦いを言わば短編作品としてかなり意識的に完結させ、それを「To Be Continued」と繋いでゆく連作に近いスタイルへの移行であり、また承太郎一行のうちの一人と敵スタンドが一騎打ちするのではなく複数人が戦闘に参加するエピソードの増加である。更に、恐らくはそれらの結果として一つ一つのエピソードが長大化し、かつそれによって作品的な緊密さが低下していることも、同じ変容の顕れと言ってよいだろう。或いは絵の水準での変化を確認するなら、「女帝」のエピソードのネーナ(16巻)、まあ大負けに負けても「バステト女神」のマライア(21-22巻)を最後にいわゆる美人というか綺麗な女の顔というのが描かれなくなること(第三部の最初と最後のホリィはとても同一人物には見えない)、及び第三部序盤ではまだ半ば透過するそれこそ「守護霊」のようなものとして描かれていたスタンドが、今や半ば実体として、「審判」のカメオに至っては殆ど巨大ロボットのように描かれるようになるという事がある。またもっと技術論的な観点からは、例えばコマの大きさ・形・配置や漫画記号の用法がこの少し後の時期から明らかに変わり始めた事も指摘されるだろう。すなわち大コマの多用やさしたる意味の認めにくい斜め割り、コマの中に小さなコマ(多くは丸い形の)を埋め込む手法や、擬音と同等の扱いでコマ内に直接描き込まれる「!」「!?」といった記号(『特攻の拓』?)、そして何より描線の変化がそれに当たる。

 しかも、以上思いつくまま列挙してみた多くの点は第四部へとそのまま持ち越されているのだから、チャプターによる切断の入る12巻と28巻ではなく、19巻前後のある時期を一つの転換点と捉える読みも一定の正当性を持ってはいるだろうし、或る局面ではその区切りのほうが有効であることも十分考えられる。だが、例えばアナール派が従来の歴史学に対して「優位」にある訳ではなく、新たな区切り=意味づけの提示によって後者を批判する限りにおいて有意味なのと同じで、どちらの切り方が絶対に正しいとか有効だとかいう事は勿論ない。どのような観点をとるにしても批評は限界や盲点を完全に回避することは出来ないが、また回避する必要もない筈である。

 ……つーか次回はもう少し盛り上がる予定なので我慢してついて来てくれると有り難いです。スタンドの話とかもしますから。はい。


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作者:林
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最終更新:Thursday, 27-Apr-2006 04:28:32 JST