ある日。
しのぶ せんせい質問です。
僕 赤ちゃんの作り方ですか。それはちょっと、言葉では説明しづらいですね(笑顔)。
しのぶ 違います。あのかねがね疑問に思っていたんですよ。それはね、なんで勉強なんかしなくちゃいけないのか? という問題です。
僕 んー……。
しのぶ やっぱり答えられませんか。
僕 いや、ていうかね。正直な感想から言わせてもらうとね。それは確かにしのぶちゃんにとっては切実な問題なんだろうけど、はっきり言えば世の生徒さんなら誰でも考えることじゃないですか。となると勢い、余りに凡庸な問題機制と思わずにはいられないのだよ先生は。
しのぶ どうでもいいですよ、特殊性を単独性と取り違えるのも若者の特権ですから。それであの、例えば古文とかね。こんなもの読めて何になるというのですか。私がこれから生きて行く上で『俊頼髄脳』を読むことが一体どんな役割を果たし得るのでしょう。
僕 「受験を批判するならまず大学に受かってから」と、ふくろう博士も言っています。
しのぶ そういう誤魔化しは少年少女に一番嫌われるんですよ。まあ百歩譲って英語とかは出来たほうがいいとしても、数学……これはひどいですね! 先生。どう見たって何の役にも立たないじゃないですか。二直線から等距離にある点の軌跡を求めることが出来たところで、社会に出て使う機会がありますか?
僕 そういう事は実際に社会に出てから言わないと何の説得力もありませんね。ひょっとしたら世のサラリーマンは日夜軌跡や領域を追い求めて仕事をしているのかも知れない、そういう可能性も捨て切れませんよ。
しのぶ ずるいですねえ。実体験のなさを持ち出されたら勝負になりません。
僕 知ってます。僕の十八番ですから。……そうですねー。まず、われわれの暮らす現代社会は過去からの膨大な知識の蓄積の上に成り立っております。例えば電気はわれわれの生活にとって今や必要不可欠ですが、これが発見され実用化されるまでには先人たちの想像を絶する努力の持続があったのです。それで、何て言うか、数学はそうした研究の基礎となる学問だからとても重要なものなのです……?
しのぶ 言いながら自分でも信じ切れてない感じがいかにも正論ですね(苦笑)。ところで先生は学校で習った数学なり理科なりの知識から、例えば冷蔵庫がものを冷やす仕組みを理解していますか。理解していないとしたら、そのために日常冷蔵庫を使うのに何か不自由していますか。
僕 まあ、理解してねえな。そんで不自由もしてねえな。故障したら修理屋を呼ぶやね、わかんねえから。つまり冷蔵庫を使うという現代の日常生活に対して学校教育は何の益ももたらしてはいない訳だ。
しのぶ ほらご覧なさい。役に立たないでしょ。近世ヨーロッパに端を発する諸知識が現代文明の礎になっているというのは事実だとしても、それは余りに急激な発展を遂げるうちに極端に細分化・専門化されてしまい、結果現在私たちの身の周りにある具体的な事物との接点を最早や喪失しつつあるのですよ(もともとなかったという言い方も可?)。だからあの、文部省もどうせ知識を詰め込ませるならもうちょっとプラグマティクかつアクチュアルなそれにした方がよござんせんか知ら。いずれにせよ今学校でやらされてる事が無意味だってことは証明されたわけです。
僕 でもですね。例えば大人になってからもちょっとした場面で学校教育的な知識が要求されることは、たまにありますよ。なんか、クイズとか。そういう時に知ってると自慢できます。また高い学歴を持っておくと世渡りに便利なこともあるかも知れないし、更には低学歴の人間を無根拠に侮蔑するというすぐれて精神的な快楽を得ることも出来ます。これは現役の学生時代もそうですね。成績が良ければ、たとえクラスでいじめられていてもそれを拠り所にして心の中で相手を見返すという奴隷道徳的な効用が得られるわけです。そういう点では学校の勉強も極めて実際的な効果を持っていると言えます。
しのぶ 本気で言っているんですか。
僕 いや全然。じゃあこの際僕たち二人だけでも役に立つ勉強をするってことで、正しい性知識のお勉強でもしますか。もちろん実技込みで。
しのぶ さて学校教育が実際的に有益な内容をさのみ含んでいないという結論に達したからには、論点はなぜ私たちが今それをやらされているのか、ついでにそれを上手いこと切り抜ける手はないかしら、という点に移ります。
僕 はあ。でもねー強制的にやらされているから楽しいと感じられないだけで、学問をするというのは本来楽しいことなんだよ。「全ての人間は生まれつき知ることを欲する」とアリストテレスも言っています。勉強が嫌いな子だってさ、好きなタレントの事とかは実によく知ってるじゃないか。向きが違うだけで知る喜びとか好奇心というのは確かにあるんだ。第一、学問が人間にとってやっていて楽しい事でなければここまで学問が進歩し文明が発達する訳ないだろう?
しのぶ そこで「学び続けることは人間の使命です」とでも続ければ説教臭さ満点で『MASTERキートン』ですね。
僕 まあ、確かに学ぶということを普遍化し過ぎてはいけないでしょうね。まず「こんな勉強をして何になるのか?」つまり「何の役に立つのか、何の意味があるのか」という問いがごく自然に発生してしまう原因を問う必要があるでしょう。そもそも学校の勉強が何かの「役に立つ」ということが、問い詰められた教師の言い訳以外の場面で言われるものでしょうか。まず言われないでしょう。にも拘わらずなぜか世の生徒さんたちは揃って「何の役に立つのか!」と問うてやまない。こっちの方が疑問とされて然るべきではないかと僕なんかは思います。
しのぶ それはまあ、まあ、誰が言った訳じゃなくてもですよ。教師や教科書って意味ありげな顔をしているじゃないですか。
僕 左様、しかし現実的には教師や教科書が有「意味」である必要は些かもないのです。なぜか。近代の教育制度は明らかに、国民国家が具体的な生産関係に属していた大衆を抽象化し権利と義務に縛られた国民という均一な単位へと統合する手段として、軍隊や工場と同一の目的で作られ機能しているわけだから、何を学ぶかは二の次、同年代の子供をひと所に集めて全国で均質な教育を施すという行為自体に「意味」があるのです。そこで「学ぶことの楽しみ」なんて言ってみせるのは余程の偽善者かお人好しか……要するに極論してしまえば、しのぶちゃんが勉強させられているのはそれが「役に立つ」からではなくて、しのぶちゃんという人間を一個の「国民」に作り上げるためなのです。
しのぶ あのねえ先生、理屈としては分かるんですよ。でも系譜学的な遡行によって自明性を転倒などしてみたところで私が冒頭で述べた疑問が解消されるわけではないでしょ。少なくとも生徒たちは学校や塾や親、そして来るべき受験という現実的・唯物論的な制約の中で生きていて、かの疑問もその制約に促されて発生しているのですから。ふくろう博士の答えが或る実効性を持つとすれば、それは受験を乗り越えた後では誰も受験のことなど考えなくなるからです。要するにものの観方を変える程度のことでは今現に私が勉強がイヤだという事態は些かも変わらないのです。要するに受動感情はそれが受動感情であると認識されたところで「消える」訳ではないのです。要するにこの現状がどうにも耐え難いのです。
僕 われわれは依然スピノザの呪縛のもとにあるのですね。ではわれわれの議論が些かなりとも実際的となるように、問題の立て方を変えて考えてみましょう。そもそも「なんで勉強しなくちゃいけないのか?」という言明はレトリカル・クエスチョンであり、「私は現在勉強しなければならないという状況に追い込まれている、しかし勉強したくない」というメッセージとして読み解かれねばならない。現にこれを問いと理解して何らかの答えを返したところで、納得できる答えが一つとしてないであろう事はしのぶちゃん自身が一番よくご存知の筈です。
しのぶ そうですね。あたし勉強なんかしないでお兄ちゃんと遊んでた~い。
僕 はいはいはい、良い傾向ですよ。その調子で行きましょう。さてしかし、後者のメッセージが前者の問いの形に変えられるに際して多くの行為の可能性が消去されていることは注目に値します。だってここで採り得る行為が「勉強する」と「勉強しない」の二つしかないというのは妙な話ですよ? 他にも色々ある筈なんです、例えば「ちょっとだけ勉強する」「適当に勉強する」「遊びながら勉強する」「勉強しないような形で勉強する」……
しのぶ そんな勉強の仕方があるんですか。私には想像もつきません。
僕 僕もです。でもしのぶちゃんが採り得る行為が「勉強する/しない」の二者択一じゃないことは確かなのです。取りあえず「せんせいとつながりながら勉強する」方法を試してみますか。
しのぶ ところで繰り返されるオヤジギャグが与える精神的苦痛に対して損害賠償を求めた場合もセクハラ裁判に入るんでしょうか。
僕 さあ? 僕は法律とかは専門外だからチョット。ともあれ、あらゆる行為に関してn個の選択肢がある筈なのにそれが大抵の場合2個に縮限されている。そしてこの縮限には何がしかの社会的な、敢えて言えば政治的な力(potentia)が働いているのであり、われわれはこの力に対して闘争を組織しなければならない。
しのぶ それ恥ずかしいです。そういう事を言ってるから'80年代批評風とか言われるんですよ。
僕 '90年代風に言うなら、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問う前に、n個の可能性に向かって開かれた少年の行為を「人を殺す/殺さない」という2項に縮限させる力に対して……同じですか。
しのぶ 大体「闘争を組織する」とかいう言い回しが胡散臭いです。「闘争って言われても具体的に今何をすればいいのか分からないし~」というのが正直なところだと思うんですけど、そういうナイーヴな事を言い出すと恥ずかしいからみんな「闘争を組織するんだ」「うん、闘争だね」「そうそう。組織組織」って言って物分かりのいい顔で折り合いをつけてるとか、そういう事はないんですか。人間は歴史を作る、但し思い通りにではなく与えられた歴史的諸条件の中で――と言ったところで、女子中学生なんかは与えられた現実の方が圧倒的に強大だから何もできないというのが正確な測量結果だと思います。その勝負差ときたら私たちが最早やn個の選択肢の存在にすら想到し得ないほど甚だしいのです。
僕 また厄介なことを言い出しましたね。いや、でも、哲学とかそういうアレは基本的に実際的な用には立たないところに味があるから。
しのぶ あ。ずるい。
僕 いえいえそうなんですよ。例えばフッサールにおいて純粋に形而上学的な意味で言われた「予め構成された相互主観性」という概念が、現象学の流れを汲む倫理学や精神病理学において世俗的な意味に読み替えられると、驚くべき抑圧的概念として作用します。共同性が予め当たり前(Selbstverstandlichkeit=自明性)のものとしてあるとしたら、そこに入れない(と感じる)者にとっては堪らないわけですよこれは。自分もみんなと同じように普通に自然に行為・生活したいのにそれが出来ない、しかも意図的に「普通」「自然」に振る舞おうと心懸けることがまさに不自然である以上この円環から脱け出す道はない……。
しのぶ 実感がこもっているだけに感動的なお言葉です、先生。
僕 無論それはウィトゲンシュタインの論点でもあったわけですが。ともあれ、形而上学の世俗的読み替えという運動はこういう場面になると昔から必ず出て来るものですから要注意です。ただ世俗的問題に対しては世俗的な解決もしくは解消が有効ではある訳で、例えば現に多くの中学生・高校生がやっているようにウダウダ文句を垂れながらどうにかやり過ごすというのも手です。そんな感じでどうですか。
しのぶ どうもこうも、余りに衝撃的な帰結に戦慄を禁じ得ませんが、はっきり言うと「どうしようもない」という事なんでしょうか。
僕 すいません、僕の口はポジティヴなメッセージが出て来ない作りになっているのです。でも取りあえずご満足して頂けましたか。
しのぶ 全然しません。勉強はしますけど。
最近日記系サイトが閉鎖ブームだとか何とか耳にするんですけど、僕は閉鎖というのは人がウェブで犯し得る最大の罪悪だと思っています。確かに人にはそれぞれ事情や言い分があるだろうし、万物流転の理に従って始まったものはいつか終わりが訪れもしようし、それを言やあ僕だってこのページをいつかはやめるという前提でやっている訳だけど、それにしても閉鎖は困る。たとえそれがたまにしか見てない何の思い入れもないサイトであっても事情は大して変わらなくて、やっぱり閉鎖はして欲しくない。ましてクソページが淘汰されてくれるのはウェブ全体の(精神)衛生上良いことだなんて理屈は絶対認めません。なぜか。僕が悲しい思いをするからです。
勝手な話なんですけどね。要するに、今まであったものがなくなるというのが本当にイヤなんです。これはもう何度も言ってきたことだけど、僕は今あるこの日常がこれからも何も変わらずダラダラと持続することだけを願っている人間で、今日あった事は明日もそのままの形で繰り返されて欲しい、というか繰り返され「ねばならない」と本気で考えています。あたかもバイツァ・ダストのように。まあその癖「規則正しい生活」とか「継続は力」とかいった言葉には縁遠いのが残念なんですけど、とにかく、そんな訳だから僕は「現状の維持、及び変化が不可避である場合にはそれを能う限り微細かつ緩慢なものとすること」に関しては努力を惜しみません。別に今の状態が好きだとか良いとか思ってるわけでは全然ないんですけど、変化よりは遥かにマシです。僕は卒業した筈の学校へ今でも通って必ず同じ席に座って授業を受けているような奴ですからね。
例えばオリンピック(いつの間にか終わってた)だのミレニアム(ブルマーです)だのと、「何か普段とは違うことがある!」という事を無闇と強調する身振りは堪らなく不愉快ですが、突発的に生起するものではなく事前に分かっているという点でそれらはまだ対処の仕様があります。最悪なのはこっちの思いなしを越えた地点で何の前触れもなく起こる変化で、中でも「今存在することが当たり前であるものが突然なくなる」、これはもう悪夢以外の何物でもありません。人の死とか。僕はいつも通りに過ごしていたいだけなのに何でこんな目に遭わなくちゃいけないんだ! という感じです。そういえば「いつものとおりに」は早瀬優香子の詞のキー・ワードでもあったな。大事なことなのです。
「今存在することが当たり前であるもの」とは、或る存在者に関して「過去から現在に亘って存在してきたのだから未来においても存在する見込みが強い」という意味ではなくて、存在者は全て潜在性として時間的な厚みの中で存在しているということだ。なぜなら存在者が存在するためには一般者(原形式)の自己規定による囲い込み(指し示し)が先行する必要があるが、この時自己言及のパラドクスが不可避となる。それでも存在者が同一性を保って存在するならば、判断の或る部分を吊り下げてこのパラドクスを隠蔽(←我ながらまずい言い方)する必要があり、この吊り下げられた部分、つまり現存する存在者から排されつつ共存する潜在性は過去及び未来の名のもとに分配されるからだ。人が変化と呼ぶものは大抵様態の水準におけるそれであり要は表象だが、存在者の消滅は自己同一性の解体という質的に全く異なった事態なのだ――みたいな事を、かつて『ONE』という風景の中で数ヶ月を過ごしながら僕は考えていたのだけれど、要するに日常性の喪失と存在の消滅が等価(どっちが原因とか結果とかではなくまさに等価)だというのは、僕には極めて論理的で明快な事実に思えるのですよ。閉鎖が困るというのもそういう事です。
例えば、まあ今更何言い出すんだって感じだけど一応言っておくと、僕は自分のテクストがパクられようが掲示板が荒らされようがそれ自体に対して怒りを感じた事はありません。相手の反応の仕方が白々しかったり卑劣だったりしてちょっとだけムカついたから拳を振り上げただけの話で、それ自体は本当に取るに足らない事だったと思う。第一そうしたちょっとした騒乱がネタとして極めて面白いものであることは揺るがしようのない事実なのだ。だから、もちろん世間の常識に照らし合わせれば盗作も荒らしもイケナイ事とされているんだけど、僕個人の見解としては世のサイト持ちはその辺はもう好きなようにやってくれて全然構わない。どんどん暴れてくれ。その程度の罪なら僕がいくらでも贖ってやる。ただ閉鎖という奴だけは、死んだ人が生き返らないのと同じでもう手の施しようがないのだ。だから、果てしなく身勝手な言い分であることは重々承知の上で敢えて言いたい。「テメエラ閉鎖なんかしたらただじゃおかねえ」。
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とまあそういう精神状態なので、オフレポとかライヴレポとかはまたの日に。ごめんな。不甲斐ないお兄ちゃんを許しておくれ。 <それが一人称ですか