アシュタサポテ :: 過去の日記 :: 2000-11

日記 :: 2000-11


2000-11-15

 あー、あの前回の日記ですけどね、あんまり意味はないですよ。なんかまた(『ONE』レビューの時みたいに)色々リンク張られて人がバンバン来てるみたいで躁鬱決定版なんですけど、このサイトにある全てのテクストはあらゆる意味で「真理」を志向せず「真理」とは無縁であるべくして書かれていますから。もちろんTRPGについて本気で「考察」してるとか思ってくれても全然構わないし、思惑を越えた読まれ方をされる可能性というよりは現実性を引き受けなければ書いたものを晒したりなんか出来ない訳だけど、ただあんまり妙な受け取られ方をしていると思うとさあ(含・被害妄想)、やはり僕も人の子だから言い訳の一つもしたくなるんで。ところで「考察」って言葉はどうにかならんか。

 「挑発的」と言えばちょっとカッコいいけど要はいろんな方面からイヤな顔をされそうな(されている)あのテクストを書きながら僕が目論んでいたのは、大きく分けて2つの事です。1.まずTRPGなんてよく知らないしどうでもいいという読者に対して。大体僕は何について書くにしても読者はその対象に興味もないし知りもしないという前提から始めます(※結果的にどうなるかはまた別問題なので突っ込まないでください)。そうすると尤もらしくて面白いことを書ければいいだろうという事になるので、例えば「TRPGはCRPGと違って自由なゲームらしいよ」という通念(自明性)を転倒します。その際理屈なんかは後からつければ十分です。いや、もし必要や気分に駆られれば僕は持てる知能と知識と文章力の限りを尽くしてTRPGの「自由度」を擁護しますぜダンナ。いやホントに。ここはそういうサイトです。びっくりしましたか。さて他方、2.TRPG大好き!な人に対して。これはもう、神経を逆撫でするようなことを書いて差し上げるしかないでしょう。とは言え「TRPGオタウゼエ」とか書いても仕方ないので、例えば「職業」といった彼らにとっての自明性を、言い換えれば余り人が言わないような点をグチグチと追求して、「なんかイヤな感じだ」という印象を与えたい。 <いつか刺されます

 とにかく、僕はものを書くに際して「真理」よりは今の自分の快不快を、正しさよりは下心を、知ることよりは信じることを常に優先させるし、僕にとって書くとはそういう事だとすら言えるのだけれど、ただ一応言っておくと僕がTRPGも含めてRPGというものが嫌いだという事は確かです。なぜかと言うと、僕がいわゆる「物語」という奴に余り惹かれないタチだからなんだと思います。「物語」というのは、まあ人によっては語り始めるとそれだけでウェブサイトが一つ出来てしまうほど重大な問題らしいけど、僕は「構造的な組み合わせ」と認識している。われわれは生まれてこの方接してきた膨大な量の「物語」――童話・民話から小説に映画にマンガにゲーム、ドキュメンタリーも形式化すれば「最後に意外な真実が明らかになる」という物語だ――の経験から、それらが全て構造的な組み合わせに還元されることをどこかで知っている。だからたまにこの構造から外れてしまうスキャンダラスな作品を見ると、エヴァでもONEでもみんな大騒ぎするわけだ。で、僕はこのパターンの組み合わせとしての「物語」が余り好きではない。興味もない。作中人物が生きようが死のうが、どうせどっちも可能性においては見たことがあるのだからどうでもいい、今更そんなの飽き飽きだと思ってしまう。例えば僕は野球とかのスポーツにも「どっちかが勝ってどっちかが負けることが予め分かっているから」興味がないんだけど、それと同じ感じ。「筋書きのないドラマ」というフレーズが心底嫌いなのも、「確かに筋書きはないけど、結局構造的な組み替えの中に収まることは分かっているじゃないか」と思うからです。せめてジャイアンツが9回裏でえいえんの世界に消えたりしてくれればなあ。

 だから物語はどうでもいいんだけど、その代わり作品の持つそれ以外の部分、曖昧さとか過剰さとか不合理な部分とか作品的なほつれ、そういうのを窺わせてくれるいわゆる「テクスト」という奴には惹かれる。読むに値するのはそれだけだとさえ思う。そういえばスポーツも勝敗に拘らず優れたプレイを見ること自体は割と好きだ。サッカーとか。あ、でも野球はやっぱダメだ。TVで見ててもテンポ悪いし、観客がなんか演奏しててうるせえし、第一僕はルール知らないからな。……つうかあれって、みんないつの間にルール覚えたんだ? 僕は子供の頃気が付いたら周りのみんなが野球のルール知ってて知らないのは僕だけになってて、そのまま現在に至ってるんですよ。これは確実に僕の人格形成に影響を及ぼしてるよな。あと中学1年の時にさあ、「明日は球技大会だから男子はグローブを持って来い」って言うんだよ。で僕はんなモン持ってるワケねーだろハゲとか思ってたんだけど、翌日行ってみると全員グローブ持参でやんの畜生。だから中学なんて嫌いなんだよ。行かなかったけど。あ、ここ見てる人の中には中学生もいるみたいですけど、中学なんて行っちゃいけませんよ。時間の無駄だから。でも塾で勉強はしろよ(←先生の顔になって)。

 まあいいや。とにかく、テクストが差異であるとすれば「物語」とは可能的に既に存在している同一性であり、(T)RPGはそれをまさにプラトン的な意味で「想起」する過程だろう。そしてここで賭金として持ち出されるのがあの「想像力」という――まあコールリッジの定義に従えば「想像」imaginationとは構造から外れる能力であって、既知のパターンの構造的な組み替えによって何かを生み出すのは「空想」fancyなんだけど――、とにかくこれまた僕の嫌いな概念だ。ああ、こうして見るとよくもここまで僕の嫌いな要素ばかり集めたものだと感心してしまうじゃないか。だからTRPGの楽しさが「空想の中で自由に演技して物語を作れる」ことだなんてのは、例えば「物語は意外な結末を迎えた」とか言うのと同じくらい削れた言い回しであり語義矛盾だ。いやまあ、不自由であることを認めた上で敢えて構造的な組み合わせと馴れ合っていると言うのなら、その根性というか忍耐力には最早や敬服するしかないが。ただ少なくともTRPGが「想像力」に基づく「自由」なゲームだなどという昔のゲーム専門誌の広告の煽り文句並みの下らないデマは徹底的に叩いておく必要があると思わないか。そうして「TRPGとは気に喰わない奴を排除することで確保された共同性に基づいて同一性を想起するという、意外性とは無縁の湿り気たっぷり内向き全開のゲームなのだ」とはっきり言ってやった方が理論的な風通しが良くなるし、マンチキン排撃TRPG原理主義者にとってもそれは幸いだと思うのだがなんでみんなしない? そういう言い方はやはりCRPGとの違いが出ないからダメなのか? ああそうか、でも僕は(以下小声)TRPGもCRPGも区別なんかしないでまとめて葬り去ってやりたいからなあ……とか書いてるうちに何やらふりだしに戻ったような気がするのだが、要するにオレはRPGが嫌いだ。最近とみに嫌いだ。なんか知らないけどカンに触るんだ。あのほら、ツラ見ただけで。


2000-11-07

 数人の人間がテーブルを囲んで輪になっている。各人の前にはメモ用紙と筆記用具、そしてサイコロ。それも12面体とか20面体とかの見なれないサイコロも含まれている。一人はを衝立の蔭で手許のメモを参照しながら、地下迷宮の様子などをぽつりぽつりと語ってゆく。他の人々は固唾を飲んでその描写に耳を傾ける。やがてその内の一人が言葉を発する。サイコロが振られる。おもむろに湧き上がる歓声、あるいは溜息。……

 この奇妙な儀式の参加者たちは、皆「TRPG」と呼ばれるカルト集団の信者だ。あなたが健全な社会生活を全うしたいと思っているのなら、間違っても彼らに「FF9やった? 面白いよ~やっぱRPGってサイコーだよね~」などとは言わないことだ。もしそんな事を言おうものなら、彼らは「やれやれ」といった調子で肩を竦めて見せた後、いつになく熱っぽい口調でこう論じ始めるに違いない。

 「あのねえ、そもそもRPGってのは読んで字の如くロールプレイング、つまり役割を演じるというゲームなんだよ。今ではコンピューターRPGが主流みたいになってるけどね、もともとはTRPG、つまりテーブルトーク型RPGとして発生したものなんだ。あっ、この『テーブルトーク型』って呼称は近藤功司って人が当時社会思想社から出ていたゲームブック専門誌『ウォーロック』の第10号(1987年10月)で提言した、和製英語なんだけどね。で、もともと役割を演じること自体を楽しむゲームなんだから、CRPGみたいに『モンスター倒して経験値上げて一本道のシナリオを進めて……』なんてのは、厳密に言うとRPGじゃないんだよ。実際TRPGでは、たとえ自分のキャラが死んでもゲームとしては面白かったりするんだ。TRPGのルールブックには決まって『このゲームには通常のゲームで言うような勝者とか敗者は存在しない、敢えて言うなら最もゲームを楽しんだ人が勝者だ』とか書いてあるくらいでね。それに何より人間相手だから行動が完全に自由、好きな時に好きな行動をとれるっていうのが良い。機械相手じゃこうは行かないよ。そして仲間同士でプレイするコミュニケーションの楽しさ。これはもう、一度やったら確実にハマるね……っておいおい、どこ行くんだよ! 戻って来いって! 君も仲間に入りなよ~……」

 ……僕がTRPGをやっていたのは、確か小学校5年から中学1年にかけてのごく短い期間だった。同じ世代の人たちと比べると時期的にちょっと早かったかも知れないが、とにかく僕がせっせとGM(=ゲームマスター、上述の衝立の人ね)に徹して布教したお蔭で小6の頃にはクラス中にこの遊びが蔓延し、最盛期には休み時間ともなると男子のほぼ全員が幾つかのグループを作ってTRPGに興じるという異常事態まで発生した。「なんて良いクラスなんだ!」と思う人もいるかも知れないが、他のクラスの連中に「2組の奴らは暗い」などと陰口を叩かれていたこともまた事実だ。これってプレイしてる姿を傍から見ると確かにかなり不気味なんだよな。

 当時プレイしていたTRPGというとやはり『ダンジョンズ&ドラゴンズ』、そして文庫本で手に入った『ファイティング・ファンタジー』及び『トンネルズ&トロールズ』といった所だが、やった回数からすると自作のゲームが一番多かった気がする。というのも、何しろ小学生だから『D&D』なんかはルールが結構難しい訳だ。それに、何より大きかったのは、他のプレイヤー達(つまりクラスメートだが)は皆『ドラクエ』でRPGを知ったという連中だから、役割を演技する楽しみなんて言われてもピンと来なくて、結局モンスターを殺して経験値を稼ぐのがRPGだと思っている。そうなるとGMとしても、無理して既存のゲームに自分たちの方が合わせるなんて馬鹿げたことをする義理合いもない訳だから、どうせならみんなが満足するゲームを作ってやった方がどう考えても楽しいのだ。第一そうでもしなければ誰もプレイしてくれないし。そんな訳でわれわれは、ろくな謎もなければ町の人との会話も最小限で、ひたすらダンジョンをうろついては強力なアイテムや派手な魔法を連発してモンスターを倒しまくるという、TRPG原理主義者から見たらとんでもないゲームをやっていた訳だが、僕は今でもあれで良かったのだと思っている。少なくとも仲間内でプレイする限りでは、自分たちで作った或いはプレイしながら仕上げていったゲームに勝るものはないと未だに信じている。RPGにせよAVGにせよ、与えられたタスクをこなすだけというゲームに僕が今でも馴染めないのも、そういう原体験があるせいなのかも知れない。つまり製作者の組み立てたストーリーや仕掛けた謎が既に確定されたものとしてあり、それを手順通りに進めてやれば解けることが予め保証されている、という感じがどうにも堪えられない。

 TRPGの良いところは、ひとつにはこの「保証されている」という印象を(比較的)与えないことだと思う。何しろ人間同士でリアルタイムに物語を作って行くのだから、シナリオを用意したGM自身でさえそれがゲームの進行につれて具体的にどのような形をとるかは予想し得ないわけだ。なるほどTRPGとは「自由な」ゲームなのだろう。だが人が自由に振る舞っていると感じることと、実際に自由であることとは同じではない。恰も封建的階級制度という不自由から解放されたかに見える個人が、実は民主主義という近代国家の制度に束縛されて「自由」を味わっているように。

 例えば、まあこれは誰でもすぐ気付くことだと思うのだが、あるプレイヤーがゲーム世界内のキャラクターという他の特定の人物に成り代わることが出来るという発想は明らかに民主主義に根ざしている。或いは個人が均質で置換可能な単位として現れる近代国民国家の制度に。封建時代の農民は自分が貴族になれるとかなれないなどとは思いつきさえしなかった筈であり、そのような社会からは「人間が自由に他の人間に成り代わる」という遊びは発生し得ない。ロールプレイングが成立するには近代的な均質空間が先行している必要があるのだ。そもそも「役割を演技する」とは演劇的なメタファーだが、これは近代演劇において初めて現れた概念なのである。なぜなら前近代の演劇が持っていた象徴性・宗教性・祝祭的性格・様式・韻律を伴う科白といった要素を捨て去り、どこにでもいる平凡な市民の「内面」を役者が表象=代行するのが近代劇だからだ。そして、それにも拘わらず多くのRPGが恰もその出自を隠すかのように中世封建社会をモデルとして構築されるファンタジー世界に舞台を設定し、しかもキャラクターをクラスとかジョブ(職業)によって明確に差異化しているという事実がまずは注目されねばなるまい。

 RPGには「職業」という概念が当然のようにして導入されている。それは無論ファンタジーRPGに限った現象ではなくて、例えばSFものRPGの嚆矢とされる『トラベラー』においてさえキャラクターは海軍とか海兵隊とかいった形で職業分化がなされているし、1920年代のラヴクラフトのホラー小説に取材した『クトゥルフの呼び声』でも事情は変わらない。どうやらRPGは、或るキャラクターの特徴や性質を示すのに名前・性格設定・背景といった例のお得意の「想像力」に基づくそれだけでは役不足と考えており、それどころか能力値という相対的な量だけによって規定することさえもよしとせず、職業という質的に異なった「場」を設定して差異化したがっているようなのである。この事はTRPGの元祖とされる『D&D』を見ればより明らかだ。そこにおいては、戦士・聖職者・盗賊・魔法使いに加えてエルフ・ドワーフ・ハーフリングといういわゆるデミヒューマンが「クラス」として設定されている(ちなみにclassとは言うまでもなく社会的な「階級」、或いはそこからより一般的に「種別」といった意味であり、質的な差異化が目指されていることはこの一語からも明らかだ)。これは「種族」と「職業」を別枠で扱うのが常識となっている今日の視点からするとかなり奇妙であり、また大雑把にも感じられるシステムだが、それはまた、「種族」と「職業」の区別などはつけなくとも「クラス」という最低限の質的差異化さえあればRPGは誕生することが出来たという、貴重な教訓を物語ってもいるのである。

 もちろん「職業」という概念を導入せず全てを能力値の程度の差異に還元するRPGも存在するが、われわれの文脈にとって重要なのは、その種のRPGが歴史的に第二世代以降に属しかつ現在に至るまで常に少数派だという事実である。或いは、例えば『クトゥルフの呼び声』や『ルーンクエスト』『ストームブリンガー』等に共通して用いられているケイオシアム社の汎用システムでは、「聞き耳」「登攀」「泳ぎ」「外国語」といった個別の技能(スキル)がかなり細かく設定されているため、「職業」による差異化は『D&D』におけるほどの強制力を持たないようになってはいる。だが依然キャラクターシートから「職業」の欄が消えてはいないという点が見逃されてはなるまい。もっと単純に言うなら、RPG(この場合コンシューマーのそれでも何でも良い)のキャラが紹介される時には名前・性別・種族等と並んでなぜか決まって職業が持ち出されずにはいないという、現在のわれわれの通念・自明性が問われねばならないのだ。

 人は今も昔もなぜかRPGのキャラに「職業」を求めてしまう。だがこれを、例えば複数のプレイヤーによる複数のキャラクターがパーティーを組んで冒険する際には役割分担があった方が面白くなるからだ、などと現在の自明性から出発して説明するのは倒錯している。逆である。職業分化があったからこそ役割分担が可能になり、パーティープレイの面白さが生まれたのだ。そもそも「想像力」による「自由」と言ったところで、結局観念が、或いは「言葉」が先行していなければ、人は何も想像できない(試しにファンタジーのファの字も知らないようなお年寄りを相手に『D&D』をやってみればよい)。そしてそのような事態を避けるために、初期のゲームデザイナーは「クラス」という形でキャラクターのパターンを予め設定し、プレイヤーが小説か何かで得た「戦士」や「魔法使い」のイメージから取りあえずは一定の堅固さを持ったキャラクターを引き出すことができるようにする必要があった。つまり初めに「言葉」を与えておく必要があったのだ。無論『D&D』が登場した背景には既にトールキンやムアコック、ロバート・E・ハワードの小説に基づいた「ファンタジー」という通念があった。しかしそれをTRPGという全く新しい世界に引き込むという未曾有の作業に当たっては、現在それを自明のものとして受け取っているわれわれには最早や想像すらしにくい事だが、「モンスターや魔法が実在する世界で冒険に出かけるキャラクターは必ず戦士か魔法使いか聖職者か盗賊であって、農民や商人や地主や詩人であってはならない」、と当たり前のことを宣言しておく事がどうしても必要だったのである。そして皮肉なことに、プレイヤーの想像力を補助するというよりは殆ど制限し望ましい方向へと調整するこの「クラス」概念があって初めて、「自由な想像力」によるゲームプレイが可能となったのだ。

 RPGの仮想世界は確かに参加者の想像力によって成立するものだが、ゲーム自体は想像力を抑圧することによってしか成立しない。この事はまたより具体的な水準でも当てはまる。すなわち実際のプレイ過程では、現実には無数の選択が可能である筈の場面において、行動の可能性がせいぜい十指にも満たない選択肢へと言わばルーマン的な意味で「縮限」されるのである。例えばダンジョンの中では通路を進むか、立ち止まってパーティーの再編成をするか、或いはせいぜい秘密の扉を探すか。戦闘が始まったなら武器で攻撃するか、魔法を使うか、アイテムを取り出すか、さもなければ逃げるか。その程度のごく限られた選択肢しかプレイヤーには与えられていない。「だってモンスターを前にして他に何をする事がある? まさか意味もなく踊り始める訳にも行くまい。無論やろうと思えば踊ることだって可能だよ、TRPGはCRPGと違って無限の自由が与えられたゲームだからね。でもそんな行動は現実に照らし合わせても単に不合理であり、ゲーム世界のリアリティをぶち壊しにするだけだから誰もやらないのだ」――などと人は反論するだろうか?

 まずCRPGにおいてこの「縮限」が起こる理由は誰にでも分かる。そこには現在のコンピューターの処理能力という単純に物理的な限界が立ちはだかっており、プレイヤーの行動の「意味」が必ずしも十全に理解できない以上、彼はどんなに自分では気の効いたつもりの行動をとろうとも、望むリアクションが返って来ることは期待できないからである。僕は以前『ちょ~イタ』レビューで、コンピューターゲームにおける戦闘の描き方の画一性について指摘した。

 「大体エロゲーに限らずゲームにおいて戦闘を描くとなると、アクションの要素を前面に押し出すか一定のコマンドから選択する作業を繰り返すか(……)、あとはせいぜい後者に「戦略性」を加味する程度で、改めて考えてみるとこれは驚くべき画一性である。簡単に言うと、これらの手法ではわれわれが例えば『ジョジョの奇妙な冒険』のような少年マンガで読み慣れてきた筈の戦闘における駆け引きの面白さ、つまりSLGにおける「戦略」があくまで一定のルールの枠内での思考操作であるのに対して、戦い方そのものを与えられた状況からその都度割り出し・切り抜けるという知的な駆け引きの面白さは描き得ないのである。」

 そしてこの制度性を突いた戦闘シーンを含む佳作『ちょ~イタ』の製作者たちが、元遊演体PBMマスター陣だったことは無論偶然ではない。

 しかし問題はその先にある。この「縮限」はCRPGに限って観察されるものではないからだ。つまり、不思議と言えば全く不思議なことなのだが、行動の「自由度の高さ」を誇るTRPGにおいてさえ、人はまず大抵の場合上述のような幾つかの選択肢から行動を選択してしまいがちだという現実があるのだ。なるほど、想像力に富んだプレイヤーとそれに臨機応変に対処する能力を持ったGMとの間では、僕などには想像もつかないハイレベルなプレイが日夜繰り広げられているのかも知れない。しかし注意しなければならないのは、その場合にも行動の成否は必ずや何らかの「ルール」に沿って判断されているという事である(但し、後述するようにここで言う「ルール」とは必ずしも狭義のそれ、つまり成文化されたゲームルールだけを指すものではない)。もしそうでなければ、ゲーム自体が崩壊してしまうだろうから。要するに選択肢が「縮限」されるのは、あらゆる行動が同一の超越的にして不変の「ルール」によって取り仕切られなければゲーム世界が成立しないというRPGが抱える原理的な条件によってもたらされた結果なのであり、RPGが成立するためのこの条件はGMやプレイヤーの「想像力」を裏付けとする「自由度」に権利上先行する。

 TRPGとはプレイヤーが別世界の別人格を演じて行動することが出来る「自由」なゲームだという通念、それはとりわけCRPGが普及しRPGと言えばまずCRPGを指すのが普通になった今日においてTRPGの優位性や先行性を確認するために強調されるものだが、しかしその「自由」が可能性に対する制度的な縮限を経た「想像力」の範囲内に留まる程度の自由でしかないこともまた事実なのだ。これは、RPGが所詮はゲームである以上「現実」を何ほどか単純化し記号化する手続きが不可欠だといった問題ではない。言い換えるなら、RPGの初期から論じられてきた「ダンジョンにトイレはあるか」という問題ではない。われわれの論点は、RPGが成立する条件を原理的・形式的に問うことで、現在とりわけ「実践的」なゲーマーにとって自明となっているRPGという通念を批判することにある。例えば、今パーティーがある街にさしかかったとする。このプレイでこの街が出て来たのはこれが初めてだが、冒険者の一人がかつてここに滞在していたことがGMによって知らされている。この時かのプレイヤーは「誰か知り合いとかいないかな? いたら会って話をしたいんだけど」などと言うことが可能であり、上手い具合にGMもそれを予期していたならば、旧友が現れて何か有益な話が聞けもするだろう。これは、「想像力」に富んだ「自由」で良質なプレイと一般に言われうる(というか、昔の雑誌にそんな例が書かれていた)。なるほど、ゲーム世界に対するこの積極的で主体的な関わり方は確かにTRPGにしか出来ないことだろう。しかしその「想像力」の質が、例えば「街の人とは会話ができる」「会話すればクエストに役立つ情報が得られることがある」といったどこまでも「RPG的」な制度というか枠組というかお約束に従ったものであり、だからこそGMにも受け答えが出来たという事実は、TRPGが本来GMをも含めた参加者全員の共犯関係によってしか成り立ち得ないという点を照射するのだ。

 この共犯関係は他者性の排除を基本原則とする。GMとプレイヤーがゲームの進行においては一見すると対立する役割を果たしているように見えるとしても、それが根本的にはあくまで非対称性を排除したコミュニケーションであることは言うまでもない。要するにGMとプレイヤーは同一の「言語ゲーム」に属しているのであり、ウィトゲンシュタインのこの概念を説明するのにTRPGほど恰好の例はないとさえ言えそうである。更に言えばTRPGは民主主義という以上に、同じ聖書解釈(つまりは信仰)を持つ者たちが排他的なコミューンを形成するアメリカ的ピューリタニズムに原型を持つものなのかも知れないし、だとすれば同一の世界解釈(つまりはルール)に従う者たちがテーブルを囲んで内向きの輪を作るというプレイスタイルや、それがしばしば部外者に与える違和感もごく当然の結果と言えるだろう。それゆえ、ゲームシステムを作ったりカスタマイズしたりする「実践的」なプレイヤーたちは何にも増して「ゲームバランス」や「世界観」つまり最大多数の同意が得られる規則もしくは世界解釈の同定に拘り、プレイに当たってはスタイルやマナーを重要視する余り多かれ少なかれ排他的になり、時には攻撃的としか見えないまでになるだろう。当たり前である。他者性を排除してイマジネーションの同質性を確保しなければTRPGは面白くないのだから。例えば身勝手なパワープレイで突っ走るタイプの、いわゆる「マンチキン」と呼ばれるプレイヤーを排撃する人々は、彼ら自身はどう思っているにせよ傍から見れば狂信者以外の何者でもない。

 では彼らにとって神あるいは聖典に当たるものは一体何だろうか。言い換えるなら彼らを結び付けている超越性は何か。そこには幾つかの要素が絡み合っている。まず、言うまでもなくゲームマスターは神ではない。作品によってはレフリーと呼ばれていることからも分かるように、それはプレイヤーの行為をあくまでルールに沿って処理する中立で公正な「審判」役であることが求められる。ではルールはGMより上位にある審級なのだろうか? 厄介なことに、TRPGにおいてはルールブックに成文化されたルールも決して絶対的な規範ではないのだ。ある種のTRPGではルールがかなり細かく立ち入って定められており殆ど完全な規範としてゲーム世界を支配し、またある種のTRPGではルールはあくまで基本的な枠組の素描に留まりGMの裁量に任される比率が高くなっている。だがいずれの場合でも、実際のプレイの過程においては全てを成文化されたルールに従って処理することが現実問題として不可能に近いため、そこに何かアドリブ的な裁量が持ち込まれることは避けられない。更に世のゲーマーにとっては、ある程度プレイに慣れてきたらルールを自分たちのプレイに合うようにカスタマイズする事はごく自然であり、或いは既に必然でさえあるだろう。

 ルールとGMという二つの審級に加えて第三に、殆どのTRPGでまず例外なく導入されているサイコロによる偶然性という要素がある。無論サイコロを使う他のあらゆるゲームと同様、TRPGにおいても出目を無視したり振り直すことは許されておらず、この偶然の結果あるいは神意の下に全てのプレイヤーは無力である。だがそれさえも、やはり絶対的な規範ではないのだ。なぜならGMはゲームを面白くするためなら衝立の陰で振ったサイコロの目を偽ることが出来るからである(ちなみに、さも意味ありげに導入されたランダマイザーが結果的に無効化されるというこの事態は、CRPGでは例えばストーリーの要請上「その場面ではどう戦っても勝てない敵」が出現するといったイベントの形で実現されている)。第一、どのような時にどのサイコロを幾つ振って判定するかは事前にルールによって厳密に定められている以上、その出目はどう転んでも或る予想の範囲内に留まるものなのである。

 だからまとめると、ゲームマスター・成文化されたルール・ランダマイザーによる偶然という三つの規範要素が、いずれも超越性を持ち得ず三すくみ的に配置され拮抗しているのがTRPGの権力空間という事になろう。そこにおいてGMも含めたプレイヤーたちを結び付ける超越性とは、或いは彼らにとって最後まで守るべきものとして残る「ルール」とは、最早や彼らが結び付いているという事実そのものにしか求められまい。人はその中で徹底的に操作され調整された「想像力」を駆使し、不可視の検閲を受けた「自由」を満喫する。従って、魔法やモンスターの横行するゲーム世界はわれわれの現実世界とは遠くかけ離れているとしても、TRPGが成立するこの空間はとりわけその不自由度において驚くほど現実に酷似することになる。もちろんそれはTRPGが「つまらない」という事を意味するものでは些かもない。だが、TRPGが他のゲームよりも優れた自由度を持っているなどと口にする権利が一体誰にあるというのか。

 しかし楽しむことが目的だなどとタカを括って「実践」へと向かうゲーマーに限って、この現実性から顔をそむけて不自由を自由と信じようと躍起になって他者性を抑圧して回るのであり、その態度をオタクと呼称するかどうかはさて置くとしても、そこに現れるのが今や知的退廃でしかないことは確かである。つまりRPGは本来の自由度を捨てることで経験値上げとストーリー追いのCRPGに堕したとか、『D&D』における「クラス」が「種族」と「職業」に分化して行ったとかいった、単線的でまことに馴染みやすい歴史の見取り図が描かれ、或いはロールプレイングというのは心理学の療法として生まれたものだとかいったあのいつもの起源探しが始まるわけだ。だがCRPGが主流化しその反動としてTRPGの「自由度」が無批判に持ち上げられるようになった現在こそ、人は両者の差異ではなく同一性に着目し、TRPGの「不自由度」と制度性を見極めるというささやかな「自由」を手にしうる筈である。


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作者:林
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最終更新:Friday, 08-Dec-2006 03:40:48 JST