何の脈絡もなくしかも中途半端に昔の話から始まって恐縮なんですけど、もう2年近く前になるんですかね、当時16歳の少年がお台場で小学生を人質にとって大騒ぎ(いや、中騒ぎぐらいか)という事件がありました。彼は刑法の厳罰化とか何とか訴えたい事のある憂国の少年だったらしくて、でも普通に発言したところで大人が相手にしてくれる筈もないからついまあそういう派手目な行動に出たらしいんですが、結局誰にも意見を聞いて貰えないまま捕まってしまい、人質も無事保護されました。良かった良かった。で訴えるのが目的ですから一応「報道陣を呼べ!」とか言ったらしいんですが、その時一計を案じた警察はどこかのラジオ局の人から腕章を借りて報道陣に混じって近付いたとか、そういう事があったらしいです。そして僕がこの事件を憶えているのは、これに関してどこかの大学の先生が「そんな事をしたら報道の中立性が保てなくなる、許されないことだ」とか怒っていて、世の中にはなんと悠長なことを言う人がいるものだろうと感心したから、というただそれだけの理由です。
もちろん人質が危険に晒されているんだからこの場合は緊急事態で例外だとかそういう話ではなくて、そもそも報道の中立性なんてことを言ってる時点で「悠長」。ボスニア紛争において報道陣の腕章というのはスナイパーにとってまさに格好の標的になったそうだけど、誰であろうとその場に居合わせている以上は「中立」なんてのはムシの良すぎる話だし、それを言えば報道というのは受け手がいるからこそ成り立っている訳だから、テレビで見ているわれわれも少なくとも「無関係」ではないだろう。ましてこのケースでは犯人は報道陣及びそれを通した世間というギャラリーを意識してやっているんだから、犯人と警察に対して報道が別の系に属して外部から観測しているなんて、そんなウマい話がある筈がない。逆に考えてみるなら、もし犯人がお台場なんて目立つ場所ではなくどこかの森の中とか人目につかない場所で子供を人質にとったとしたら、誰も知らない訳だから報道陣という系はもちろん犯人という系自体が存在しないことになろう。要するに、これは「或る系の内部動作が他の系の境界条件を決定している」という「観測」の問題である。
という訳でいつものような話なんですが。「いやオレ理系だし」という人は、例えば「Microtubule assembly nucleated by isolated centrosomes」(Mitchison,T. and Kirschner,M. Nature 312,232-237 (1984))だとか「Visualization of the dynamic instability of individual microtubules by dark-field microscopy」(Hotani,H. and Horio,T. Nature 321,605-607 (1986))だとかいった論文を読んでくれると有り難いですというか読んで僕に解説してくれると大変有り難い。昔興味と必要があって読んだけど全く理解できず、でも未だになんか気にかかっているんで。まあ大体こんな話だったと思います。細胞の中で細胞骨格を作ったり物質を運んだりする微小管(microtubule)というのがあって、これはチューブリンが重合して出来たプロトフィラメントが13本集まって管状になって形成されるんだけど、出来たと思うとわりとすぐに脱重合してバラけたりもする。と言うか、そもそも微小管は常に重合・脱重合を繰り返して伸縮しているものだそうで、これを動的不安定性(dynamic instability)と言う。管の両端が絶えず長くなったり短くなったり、短くなった挙句遂には消滅したりしているわけだ。さて今、一つの微小管を系として確定しようと試みるならば、その動作(収縮)を観測して境界設定をしてやる必要がある。微小管の重合に際してはGTP加水分解によってエネルギーが消費されるが、そのエネルギーは別の微小管が脱重合して発生することで供給される。では、重合から脱重合へ、またその逆への転換は、何を契機として起こるのか? 観察してみると、転換は一本の微小管の両端で全く独立して、かつ周囲の他の微小管の動作との相互関係もなしに起こっており、細胞内の環境の周期的な変化に応じて伸縮しているとかではない。つまり或る微小管という系の境界は他の微小管の内部動作に依って決定している。
かくして観測者の地位は揺らぎ自己関係性が露呈される、という話は今時ありふれているし、その上で「最早や超越的な外部にある者などいないのだ」とか言ってみせればそれなりに倫理的に説得的な言説が構成されもしようし、その上で加藤紘一が送られてきたメールに対して「共通しているのは政治に不満を述べるだけでなく政治批判に『自分』が入っているのです。」「そこに私は、政治を他人事と見ずに『自分たちの問題』としてとらえようという新しい萌芽を感じるのです。」などと言っているのを目にしようものなら、ある種のリアリティとアクチュアリティさえ感じられそうである。しかしそれは新たな内面化の始まりではないかという疑いも捨て切れない訳で、やや譲歩して超越的立場を含まない自己言及的なシステムを考えるとしても、その系自体をいかにして指し示し得るのか? という事は問わなくていいんだろうか。微小領域の話とかは自信が持てないので、もう少し自分で言ってて分かる例をとります(大体最近は考える事が極端に抽象的・形式的なので例でも出さなければやってられない)。
例えばオリンピックとかでメダルをとった選手が感謝を捧げる相手として名を挙げるうち、「コーチ」「自分を支えてくれた家族」とかまではいいとして、「応援してくれた皆さん」と言うことがある。確かに会場で声援を送ってくれる人がいるといないでは気合いの入り方が違ってくるだろうから、言いたいことは分からぬでもないのだけれど、ではテレビ越しに声援を送っていた大多数の人々はどうでもいいのかというと、たぶんこれも感謝の対象に入っている。普通に考えるとシドニーのオリンピック会場と日本のお茶の間とは別の系をなしており、そこに相互干渉のようなものがあるとは考えにくい。「応援がパワーになる」というのはレトリックであり或いは単に日本的な精神論だというなら別にそれでもいいけど(ここでの議論には関係ないけど)、選手は本当にそう考えているのかも知れないし、人はテレビで試合を見ている時でもノってくるとなぜか力を入れてしまうという現実もあることなので、やはり一旦はこの両者の相互関係を考えたい。ならば「自分の競技が日本に中継されていると知っている事は選手の精神状態に影響を与えるのだから、競技結果にも関係がなくはない」と言うことが可能だろう。実際の選手も訊かれればそんな風に答えるかも知れない。そしてこのような内面化を否定しようとするなら、例えば次のような想定をすることになろう。「シドニーでその競技の行なわれたまさにその時間帯に、日本でハイジャックとかテロとか阪神大震災とか何か大事件が起こって、テレビもラジオもみんなそっちの中継を始めてしまった。そのため『テレビの向こうで沢山の人が応援してくれている』というのは選手の思い込みの中にしか存在しなかった」。これに対して「いや、たとえ思い込みに過ぎなかったとしても実際に効果があったならば『テレビ越しの応援者』という系は存在したと言えるのだ」と言うのはいかにも野暮だが、それにしても次第に問題の焦点は浮かび上がってきたと思う。つまり、系の存在を確定する時点で指し示しが先行している必要があるということだ。
ちなみに上のようなことを最近考えたのは、一つにはもちろん9月のオリンピックがあるんだけど、より直接的には曽田正人がスピリッツで連載してる『昴』というマンガで、ローザンヌのバレエコンクールに出ようとしていた主人公が日本にいるおばちゃん(バレエの師匠)の死を知らされるとかいう話を読んでだった。僕にとってこのマンガは好きかと聞かれればわりと嫌いな方に属するのだが、とは言えその無意味なテンションの高さだけは認めざるを得ないので、現にうっかり立ち読みなどしようものなら感情移入なんかしているつもりは毛頭ないのになぜか涙目にさせられてしまう(そう言えば『おジャ魔女どれみ#』も僕の中では大体そういう扱いだ。特に好きって訳でもないのに見れば必ず泣かされてしまう。今朝も泣いた)。そしてコンビニで目許を拭うのはエロ本を立ち読みするより遥かに恥ずかしい行為なのであってみればやはりこれは苦手な作品だと言わざるを得ないのだが、しかしまた同時にそういう強度が色々とものを考えるきっかけになることも確かなのである。僕は「これについて『考察』しよう!」と意気込んだからといって思考を開始できるような器用な人間ではないので、何かを考え始めるにはどうしてもまず外部からひと押しされる必要があるのだけれど、その「ひと押し」を与えてくれる事件や作品というのはやはりそう多くはないのだ(※注意! 更新ペースが遅くかつ不定期であることに対してとてもさりげなく言い訳をしています!)。えー、そんで何だ、谷村新司だっけ? ああ、はいはい『昴』ね。いや似てたからつい。
主人公のすばるがですね、新人バレリーナの登竜門みたいなコンクールに出ようとはるばるローザンヌに行くんですけど、その間に日本にいるおばちゃんが死んじゃうと。ところがすばるについて行ったイワン・ゴーリキーという「鈴木太郎」「ジョン・スミス」ばりに分かりやすい名前のロシア人振付師は、彼女を自分の愛弟子の「あて馬」に利用しようという目論みがあるから、それを知らせないまま彼女をコンクールに出そうとする。しかしすばるは電話でおばちゃんの死を知らされてしまい、もうバレエなんてやんない~とか言い出す。云々。曖昧な記憶だけで書いてるから違うかも知れないけど、まあ大体そんな話だったと思う。さてこの時すばるという系の動作が系外部との情報の入出に依存すると考えると、初めおばちゃんの死という情報を「言わないでおいた」イワン・ゴーリキーの態度は、すばるという系に参与しない外部観測者のそれである。しかし日本からの電話によってこの系に情報が入力された後には、彼も自分の目論みのために系に参与した行動をとらざるを得ない。とするなら彼は外部観測者ではなく、情報を「言わないでおく」という行為をなす事によって既に行為者だったと思われる。だがそうと分かるのは電話による情報の入力という彼の関知しない事態の発生の後においてのみなのだから、ここからすばるとゴーリキーが同一の系に属していたと言うことは出来ない。ならば、そもそも彼はすばるという系を確定し(指し示し)得ていなかったのではないか? ごめん、例のとり方が曖昧だから議論もあやふやだ。やめとけばよかった。まあ感じだけつかんどいてください(←ずるい)。
……僕はこれまで、外部観測者の立場を批判するに当たって相互決定的な複数の系を含む一つの閉じた系を考えてしまいがちだった気がする。例えば昔の現代思想入門みたいな本によく書いてあった美人投票の例というのがあるけど(1位に投票した人が賞金を貰えるという風に決めておくと、みんな賞金が欲しいから自分が美人だと思う対象ではなく「みんなが投票しそうな対象」に投票するようになる、しかし当然自分の投票も他の投票者の計算に入れられている筈なんだから、自分はその上を行って「みんなが『みんなが投票すると思う対象』と思う対象」に投票したい、でも他の人もやっぱりそう考える訳だから……みたいな話)、あれだと投票者の全体が相互干渉的であるというだけで結局一つのスタティックな閉鎖系しか出て来ない気がする。ある対象を観測する主体の地位を確定するにはそれを観測するメタ観測者の地位が確定されねばならず、それには更に上位の観測者の地位が確定されねばならず……という無限循環を避けようと思ったら、観測者と対象が同一の系に属する自己言及的なシステムを考えざるを得ないが、自己言及にはゲーデル的なパラドクスがつきまとう。マトゥラーナとヴァレラはこれを積極的に捉えてオートポイエシス(自己創出)という理論を提出する訳だけど、統整原理のようなものとして使うならともかく全体をそれで覆ってしまっていいのかは躊躇うところだし、その場合も指し示しの対象が実在するということは前提されている筈だ。とするとこれは、単一の系を考える時にも指し示し(囲い込み)の問題が不可避であるという、ウィトゲンシュタイン-クリプキ的な「規則」の問題として捉えるべきなんじゃないだろうか。
ただここで気になるのは、指し示しの問題にするとどうしても時間性が持ち込まれるということだ。例えば、まあ何でもいいけど「裸エプロン」という言葉がある。普通われわれが言語について考える際には、「裸エプロン」という語が或る対象を指し示しているとか、定義が可能だとかいうことになっている。「『裸エプロン』とは『裸にエプロンだけを着用した状態』のことである」、とか。ところが、もし今僕が土下座とかしながら「男子一生のお願いだ、裸エプロンになってくれ!」と言ってこの語を使用したとする。さてここでの「裸エプロン」が「裸にエプロンだけを着用した状態」を意味する(指し示す)と、なぜ言えるのだろう? 僕は例えば「『裸エプロン』という語によって今までは『裸にエプロンだけを着用した状態』を指し示し、今回は『メイド服を着用してネコミミもつけた状態』を指し示す」という仕方でこの語を(自分でも気付かずに)使ってきたのかも知れない。少なくともその可能性を否定する内的な根拠はないし、何よりそれは「裸エプロン」という語に対するこれまでの僕の有限回の用法に矛盾しないではないか――というのがクリプキのプラス/クワスの議論だ。で、ここで持ち込まれる「これまでは」「今回は」という時間や順序の観念をどう処理すればいいのかが僕にはよく分からない。ひょっとすると何か単純な思い違いをしているだけでそんなの気にする事じゃないのかも知れないけど、とにかく分からない。なお僕の生涯でここまで「裸エプロン」という語を連発する機会はたぶん二度とないだろう。ないことを祈る。言い換えるなら、一度言えば頼みを聞いてくれるような彼女が欲(以下、黙秘権)
ともあれだ。こういう視点は『ONE』を読んだり或いはより一般的に「日常」を論じたりするのにも有効だと思う。ある時期からギャルゲーに「前半は楽しい日常描写、個別シナリオに入ってからの後半はやや重たいシリアス描写」というタイプのものが増えたというのは、ギャルゲーマーにとってまあ「経験的」に共有されている歴史的認識だと思うけど、僕はこれは「日常」ではなくてあくまで「ギャルゲー」の問題だと考えている。現実には例えば好きな女の子に話しかけたいけどきっかけがつかめなくて遠くからニヤニヤ眺めてるだけで、でもそれで結構満足してしまって一日が終わる、なんて「恋愛」もあるだろうし、或いはごく普通にデートに出かけたりセックスしたり浮気したり別れたりといった「恋愛」もあるだろうから、ギャルゲーとか「恋愛SLG」と言ったらそういう関係をシミュレートするゲームであっても良さそうなものなのだが、なぜかそういう作品は余り見たことがない。思えば『同棲』はこの点なかなか面白い。何しろそれは同棲という「日常」を持続させることだけを目的とするゲームなのだ。まあお蔭でいまいち盛り上がりに欠けるとかゲームとしては完全にルーティンワークだからえらく退屈だとかいったちょっとした問題点も含んではいるのだが、中途半端な佳作よりは評価に値すると思う。まあ本質的にはどうでもいい作品なんだけど。とにかくそんな感じでギャルゲーが描く「恋愛」が極めて限定された恋愛であり、またギャルゲーが様式的なジャンルであるならば、そこで主題化される「日常」もまた様式の側面から読み解かれねばならない筈である。
「日常」とは、少なくともわれわれの論じる限りでの「日常」とは、ギャルゲーにおいて初めて発生した概念である。われわれがもともと微かにもせよ抱いていた「日常」という問題を『ONE』なり何なりが言い当てたとか、ギャルゲーが「日常」を描くようになったのもこの同時代的な空気の結果だとか言って納得していられるのは相当のお人好しというか要するに遠近法的倒錯であって、われわれが「日常」と言う時には既にギャルゲーという枠組の中で思考や感覚が始まっていると言わねばならない。ではなぜことギャルゲーにおいて「日常」という概念が主題化されたのだろうか? それは恐らくこのジャンルの持つ独特の時間性に由来するものだ。多くのギャルゲーでは、ゲームが日付に沿って進行して行くいわゆる「カレンダー形式」が採用されている。そしてそれがもたらす単調さをカバーするためメッセージのそこかしこにちょっとしたネタを書き込んで行くうちに、いつの間にかこのルーティンワークの部分が前面に押し出されて来てしまったのではないか、というのが、ルーティンワークを要求するゲームに耐えられない僕が『To Heart』を遊びながら感じたことだった。加えて――これもまた僕がこのサイトで口を酸っぱくして言ってきたことだけど一応もう一度確認しておくと――攻略対象には一人だけではなくメガネとかロリとか妹とか数種類のキャラを用意したほうが安全だという多かれ少なかれ商業的な水準での要求を満たすために、最初は誰にも惚れていない主人公(プレイヤーキャラクター)がプレイヤーの選択を反映して次第にその中の一人に惚れてゆくという「過程」をゲームに持ち込まざるを得ない、ということがある。そしてこの「過程」が殆ど目的化して「日常」の描き込みが始まり、遂には上述の、エロテクノゴン風に言えば「いま流行りのトラウマ泣かせ系シナリオ」が現れた、というのが僕の想定するモデルだった訳だけど、今回はこれを「時間」の問題として見てみたい。
ギャルゲーでは例えば主人公が死んでゲームオーバーという事態はまずなくてプレイして行けば何らかのエンドに辿り着くことが初めから分かっているし、またイベントの生起は不可避的であり不可逆的な時間の制約をかけられている(例えばクリアまでの時間が伸縮可能であるRPGの「イベント」と比較してみよ)。この「日常」という過程は、数十回の反復の後には「恋愛」の成立或いはエロギャルゲーならエッチという、いずれもそれまでのゲーム過程においては現れたことがないという意味で「非日常」的な事態の発生によって終わることが予め分かっているものなのだ。そして『ONE』の提示する諸問題は、突き詰めればこのギャルゲー的な「日常」概念を徹底化したこと、及びそれと対になる形で必ず「非日常」が現れることを「えいえんの世界」というイメージによって明瞭に表現したこと、この二点に絞られる筈である。実際「えいえん」は、自分の存在が消滅するという「予感」にせよ幼少期に交わした盟約の「記憶」にせよ、常に時間性との関わりにおいてしか描かれていないし、また描かれ得ない。
『ONE』では終盤、それまで全く語られていなかった主人公の「妹の死」という幼少期の事件が語られ、しかもその後彼は「えいえんの世界」へと消え去る。この展開がわれわれに驚きをもたらすのは、「語り手=犯人」というタイプの推理小説に似た「語りの詐術」が仕掛けられていたからだと言えると思う。事件の経緯を語ってきた一人称の語り手が実は犯人であったことが最後に語られる、このトリックを最初に用いた作品はポオの「お前が犯人だ」(1844)であり、日本では恐らくポオを読んでいたであろう谷崎潤一郎の「私」(大正9年=1920)、そしてポオと谷崎を読んでいたであろう江戸川乱歩のデビュー作「二銭銅貨」(大正12年=1923)ということになるが、探偵小説の元祖と呼ばれるこれらの作家が揃ってこの形式の作品を書いているという事実は注目に値する。それは探偵小説というジャンルの誕生に「語り」の問題が関係していたことを示しているのであり、従って語り手が知っている事実を敢えて語らないことで物語を宙吊りにする(suspend)というこの手法は、ここでは単にサスペンスを演出するための一手段とか意外な人物を犯人に据えたトリックとして済ませる訳には行かない問題を含んでいるのである。
なるほど、「語り手が知っていることを敢えて語らない」という手法自体は「物語」を語る水準においても出現し得る。例えば『蜻蛉日記』では中巻末部あたりからいわゆる日記的な語りを踏み越えて客観的・物語的な構成が志向されるようになり、下巻の最後(天延2年5月)、右馬頭藤原遠度との遣り取りでは作者・道綱母が「知っていることを敢えて語らない」ことで物語的な面白さを演出するという語りが採用されている。或いは泉鏡花の初期の連作短編「二の巻」(明治29年=1896)なども同様の意味で検証に値する作品だと思うのだが、しかしそれらは形式化して見れば同じことになるにも拘わらず、探偵小説におけるそれと同じ「意味」を持ってはいない。ここで問われるべきは語りの形式の同一性ではなくそれが各文脈において持つ「意味」の差異なのだ。「語り手=犯人」というトリックはなぜわれわれを驚かせるのか? それまでは「自らは直接事件に参与しない客観的な語り手」を指し示すかに見えた「私」という一人称が、「初めは『自らは直接事件に参与しない客観的な語り手』を指し示し、最後では『自らの犯行を語る犯人』を指し示す」という仕方で使われていたことが明かされるからに他ならない。別言すれば、単一の閉鎖系と思われた一人称においてすら指し示しへの懐疑を否定できないことが明かされるからである。しかも後者は前者の有限回の用法(意味)と矛盾しないので、これは「やや掟破り的ではあるが」と留保をつけつつもやはり探偵小説のトリックの一つとして認証されるのである。
そもそも探偵小説とは、乱歩の有名な定義にもあるように、「犯罪に関する難解な秘密」が「徐々に解かれて行く」ことを主たる興味の対象とする文芸なのであり、従って「内面に関する難解な秘密」が徐々に解かれて行く「近代小説」と形式的にはパラレルである。そして、最早や言うまでもないと思うが、上述したように前半の「日常」描写を経て「内面」が解明されるという近年のギャルゲーの潮流は、その「内面」描写の「深さ」などではなく、まさにこの形式において臆面もないまでに「文学的」なのである。「いま流行りのトラウマ泣かせ系シナリオ」という身も蓋もない括りが秀逸なのは、それらのシナリオがこぞって「トラウマ」という時間的に構成される「内面」の物語となっていることを言い当てるからだ。或いはこう言うべきだろう。ギャルゲーの人物がかつての類型的で「ゲーム的」なそれとは異なり「内面的」な「深み」を獲得し始めたかに見えるとしても、その原因は物語(シナリオ)の水準には還元されない。ギャルゲーというジャンルの持つ独特の時間性こそが、そのような「深み」を感じさせる遠近法を可能にしたのだ。大体、数人の天才的なライターが出現した程度のことで「深い」「文学的な」「最早やゲームではない」ゲームが作られた、なんて話を誰が信じるというのか? 「作品」がそれほど簡単であるわけがない。少し考えれば分かりそうな事ではないか。
われわれがゲームをスタートさせると娘さんという系が指し示されて存在を開始し、彼女がモニタのこちら側へ喋りかけるとプレイヤーという系が指し示されて存在を開始する。プレイヤーは選択肢を選ぶことで物語という系に働きかけるが、その選択は物語という系の動作に干渉されている。なるほどゲームとプレイヤーとは相互に観測し合う系をなしている。そして『ONE』がそれとは異なる地平を切り開いたとするなら、それは一人称の主人公という単一の系においてすら指し示しに対する懐疑が否定できないと示すことで相互観測的な系の外部を示唆するからであり、また作品の後半が前半と比べて何かギャップのようなものを感じさせるとするなら、それは「オレ」という語に関して前半とは異なった用法が開始されるからである。人物の「内面」などここでは全く問題にされていないし、いわんや「トラウマ」とそこからの回復といったあのお決まりの物語がわれわれを感動させている訳ではない。それでもなお、人は『ONE』を「トラウマ」を巡る「内面」の物語として読むのだろうか?