アシュタサポテ :: 過去の日記 :: 2001-03

日記 :: 2001-03


2001-03-17

昼頃に起きて駅前まで出かける。ATMで記帳するとバイト代が振り込まれていてオーイエー。取りあえず1万円引き出して百貨店(死語)へ。ブランクメディアと、あとCDキャリングケースというのを購入。ケースのないCDやCD-Rを収めるアレだ。僕は音楽CDの大半を海外のトラッド系レーベルからカタログだけ見て気合いで注文して買っているのだが、そういうのの中には紙製のジャケにCDがそのまま入ってるものがかなり多くて、言うまでもなくこれは記録面が傷つきやすい。もっと悪いのはブックCDというのか、CDサイズの本の最後のところに紙フォルダがあってそこにCDがブチ込まれている場合で、取り出しにくさと相俟って傷つきやすさも倍増だ。更に最悪なのがそのフォルダがCD本体より微妙に小さい時で(折り紙とかした事のない民族が製造してるんだと思う)、まあDaniele Sepe『Lavorare Stanca』などがそれに当たるのだが、こうなるとCDを出し入れする度に確実に傷がつく。そこでCDを別途に収納する、なんかエンベロープとかそういうのが欲しいと随分前から思っていたのだ。

何種類かあったその手の商品の中で、僕のメガネ(っ娘)に叶ったのはAXIAのその名も「マジキャリ」。本気と書いてマジ。バインダー式で8枚入れられて1,050円はチと高い気もしたが、バイト代が入って気が大きくなっているから買ってしまう。あと本屋に寄って参考書や問題集をチェックした後、マンガのコーナーを見ていると、平積みされたCLAMP『ちょびっツ』第1巻が目に入る。ははあ、これがアレか。と大侮蔑の調子を以て冷やかしまでにレジに運んでみる。

帰宅。コーヒーをいれてシンバルズを聴きながら、何はともあれ件の「マジキャリ」を試してみる。フィルムを剥がすとややベタベタしたシリコーンラバー面が現れるので、ダニエレ・セペやケパ・フンケラやチャーミング・ホステスのCDをペタペタと貼り付けてみる。8枚なんか当然すぐに埋まってしまった。なかなか良い感じだ。しかもこのベタベタにはディスクに付着した埃を除去するクリーニング効果まであるらしい。おお。素晴らしいではないか。その上、ラバー面の汚れがひどくなっても「水に濡らしたタオルをよく絞ってお拭き取りください」すれば回復するらしい。凄いぞアクシア。ほんとなのか。ちょっと話がウマすぎないか。

まあもう一つ同じのを買うかどうかは様子見ということにして、『ちょびっツ』。ヤンマガ連載(僕は立ち読みすらしてない)。この種の絵はみんな同じに見えるのでコメントは出来ないが、本を手に取ってみての印象というか、製本(紙の質感)や色遣い・デザインは非常に良い。内容は、貧乏浪人生がすごく可愛い女の子型パソコンを拾う。OSすらインストールされていないようで全くの低脳、役立たず。片言で喋ったり主人公のまねっこをしたり目にしたエロ本を真似てあられもないポーズをとったりするばかり。といった、読んでいて気の毒になってくる(作者らの脳が)までに工夫のないお話。ロボ萌えというのは恐らく人外萌えの一類型であり、後者は「男性が女性(それもしばしば人外の力を持った女性)に導かれて精神的な達成を得る」という、ゲーテやダンテにまで遡れるロマン主義的願望の末流だろう。この女性は彼にとっては到達し難い対象であり、寧ろ到達不可能であることにこそ存在意義があるのだから、通常の人間に対するのとはおよそ異なり決して外部に対して開かれない(盲目的な、とでも言っておこうか)関係性が形成される。「萌える」とはまこと慎み深い自動詞なのであって、例えば「愛する」といった他動詞が直接目的語をとるようには対象を訴求せず、必ずその間に「に」という助詞(印欧語なら前置詞)を置くわけだが、直接的に関係しえないことを殆ど条件とするこの恋情は紛れもなくロマン主義的なものだ。従って次元の壁が「萌え」の間接性や自閉性をもたらしたと考えるのは、一見もっともらしいが歴史的な転倒を見逃していると言わねばなるまい。

低脳な幼女を拾うという設定はもちろん「白痴もしくは記憶喪失の美少女を拾ってあんな事してこんな事して! 相手が身元不明でしかもバカなら気がねなく好き放題やれんし!」という切実な欲求の顕れであり、その意味でこの作品は「ひょんな事から美少女と同棲」というオタ寄りラブコメの類型に則る事で明らかに藤島康介『ああっ女神さまっ』を意識しまた現にしばしば比較されつつも、本質的にそれとは異なるものだと僕は考える(ちなみに『女神さま』は形式化すればアメリカのTVコメディ『奥さまは魔女』と同一であり、エピソード完結型で延々と続けられる極めて完成された、もしくは完結した構造を持っているが、『ちょびっツ』はいわゆるストーリーマンガの形式をとっている、この対比も注目されよう。少なくとも蛍一とベルダンディーを中心に配したストーリーマンガというのは想像しにくい)。ピグマリオニズムという観点から付言するなら、それは江戸川乱歩『人でなしの恋』や牧野信一『夜の奇蹟』が示すように覗き見という問題系と密接に結び付いているが、現代のオタク的想像力がマンガやテレビ画面・パソコンモニタへの「まなざしの一方向性」に根ざすものであるという事実はこれに照応する。例えば牧野の『風媒結婚』や宇野浩二『夢見る部屋』はこの種の自閉的なまなざしのありようを主題とした作品である。……まあ要するに、作品自体に対する感想が何一つ思い浮かばないという事なのだが。

半分も読まないうちに疲れてしまったので、特典の「描きおろしスペシャルポストカード」を栞にして中断。なんでたかがコミックスごときに特典が付いているのかは不明だが、役には立ったぞ。で一緒に買ってきた『高校入試 本番で勝つ!理科1分野』を読む。ううむ。流石に上手くまとめてあるな。ただ僕が読んで理解できることとそれを生徒に理解させられるかどうかは全く別なので、結局は僕の力量が問題となるのだが。思うに、こういうのの教え方というのは大体メソッドのようなものが出来ており、それに従えばある程度までは「上手い教え方」が出来るのだが、しかしその「上手い教え方」で生徒が理解してくれるかどうかはやはり別問題だ。それは一つには個々の生徒の受け取り方(聴き方、理解力)や教える状況(双方の体調とか気候とか雑音指数とか)が千差万別だからだが、ではその都度個性や状況に合った修正を加えれば件の教え方は必ず通用するのかというと、これまたそうは行かない。環境は全て整っている筈なのにどうも「上手くハマらない」時というのがなぜかあるのだ。これはやはりウィトゲっちの言う「規則」を「教える」という問題なのだろうか!? とか考えつつ、中和反応とイオンの辺りの教え方のイメージトレーニングをした後再び『ちょびっツ』。これ以上積みマンガを増やしたくないので、多少無理しても読んでしまうことにする。

天才パソコン少年によると、ちぃ(←名前)は「自分で考えて行動する伝説のパソコンchobits」かもしれないってさ。「好きにならないほうがいいよ あとで泣きたくないなら」。言葉を学び始めるちぃ。セーラー服。体操服。後輩(巨乳ロリ)とか管理人(後家)とか。予備校の美人講師が主人公の下宿に転がり込んできて、その時ちぃの様子に異変が!? で、おしまい。つくづく工夫のない話だよなー。あなたの削れたオタ妄想にナイスオン! を狙って、そのネライっぷりが嫌われたり開き直って擁護されたりするタイプのなー。ま、ともあれ久し振りに一冊の本を最後まで諦めずに通読できたので少し気分が良い。たぶんこの後は、先生や管理人さんや後輩が絡んだ腫れた惚れたがあったり、「それはちょっと無理があるんじゃないか」的なエロシーン(納豆など)があったり、ちぃに隠された驚くべき謎が徐々に解き明かされて行ったり、といった気の滅入るような展開が待っているに違いない。期待感大、といったところか(投げやり)。

……ええと。これ1冊を読んだ限りでの感想だけど、計算高い作品だとか本気で相手にするには値しないとか萌えるの萌えないのとかいったいずれも作品外的な与太話を除いてきちんと読解してやるならば、指摘すべき核心はやはり一つしかないだろう。すなわち「女の子型パソコンの持つ両義性」であり、この作品の提示する物語は恐らく全てその変奏として理解されうる。それは例えば序盤では「便利」であると同時に「可愛い」という両義性として物語学的運動を構成するし、また中盤以降ではロボものにありがちな「人間的な心の有無」「感情を持つもしくは持たないことの悲しみ」といったモチーフも当然のごとく顔を出してくるのだが、それもまたこの両義性の一様態である。それがありがちなモチーフであると指摘する事などは児戯に類する。読まれねばならないのは、そのありがちなモチーフが今この作品・文脈ではどのように現れてどのような意味を持っているかであり、それは物語的水準からは決して読み解き得ないものだ。まして、ちぃは果して「chobits」なのか、だとしたらその開発者は一体何者なのか、なんてのはどう見たって物語を牽引するための記号(マクガフィン)に過ぎないのだから、それこそ「本気で相手にするには値しない」。いやこの先では僕の浅墓な読み筋を超えたスゴイ(もしくは収拾のつかない)展開があるのかもしんないけどさ、少なくとも1巻はね。要するに夜空の星は星座を描いて動き、星座は神話=物語を背負っているが、僕は星がどのようなからくりで動くのかにより興味を惹かれる。作品読解とは目を閉じた後で瞼の裏に輝き始める星のない星座を凝視することである。さて、僕はつまらない作品や不毛な作品が基本的に大好きなので、chapter.1だけでもちょっと真面目に読み直してみますか(注意:作業としては何の発見もない限りなく不毛なものになります)。

1)最初のページ(p.3)は作品世界への導入である。具体的にはa.舞台となる世界を描写する3コマの絵に、b.主人公・秀樹の独白がかぶさっており、3コマとはまずa-1.青空の下のビル群。広告塔が描き込まれている事から繁華街であることが想像される。これはごくありふれた現代の都市の描写である。a-2.これもまたありふれた電器屋の店頭。行き交う人々の姿もごく普通にあっさりと描かれており、特に異とすべき点はない。注目すべきは寧ろその「普通さ」なのである。a-3.ショーウィンドウに並んだ、この世界における「パソコン」。水着姿で目を閉じて座った少女たちが「パソコン」として提示されることで、作品が独自の世界観を示す、言い替えればありふれた現実から虚構への導入がなされる最初のコマである。そのためこれはページの下半分を用いて強調されている。一方台詞のほうは、b-1「『世の中 本当に便利になった』と皆はいう」、b-2「それは すべて『パソコン』のお蔭らしい」、b-3「そして これが『パソコン』だ」、というもので、ここからは以下の少なくとも3つの事が読み取れる。1.こう台詞だけを書き抜いてみると明らかだが、「パソコンが普及してその便利さを享受する社会」とは取りも直さず現実の現代社会を模している(a-1,a-2の描写はそれを裏付けるであろう)。従って文明批評的な意図が籠められた作品である可能性も捨て切れない。僕は捨てたいのだが。2.下線を付した部分からもわかるように、発話者はこの社会において例外的にその「便利さ」を享受していない、少なくとも「皆」とは違う立場にある人物である。やはり文明批評か!3.この3つの台詞の漸進性に注意せよ。「パソコンがあって便利」とだけ言って具体的に何がどのように「便利」なのかには一切触れず、「便利」という記号を宙吊りにしたまま話題は「パソコン」自体へと移行している(なおこの宙吊りは作品の全編を通じて維持される)。別言するなら、作品はこの第1ページにおいて「パソコン」という主題を提示しつつも、その内実には触れず外観(a-3)のみに急速に焦点を定めるのだ。

2)見開きの表紙を経て(表紙の分析は明らかに的外れなこと言いそうだからやらない。誰かやってくれ)、本編。p.6は絵と台詞(独白)によって主人公の紹介がなされるページだが、「蝶ネクタイに黄色いハッピという、いかにもダサい居酒屋のバイト姿」「しかもゴミ出し」「溜息、疲れた表情に汗」「浪人中」「貧乏暮らし」「肩こりをほぐす仕草の後ろ姿」と、マイナス的側面ばかりを強調した描かれ方である。

3)続くp.7-8では、主人公・秀樹と「パソコン」が普及して「便利」になった社会一般とのギャップ(差異)あるいは関係がより明瞭に描かれ、この差異により物語学的な運動が開始される。その差異は既に述べたように「パソコン」の持つ「便利」であると同時に「可愛い」という両義性に起因するものであり、これは二項対立として少なくともchapter.3までの作品の主要な動機を形作るので、以下では「便利さ」をA.、「可愛さ」をB.という記号でマークしてみることにしよう。このページを読むなら、1.居酒屋で稼動している「パソコン」は無機質な微笑を浮かべたまま黙って仕事をしており、「便利さ」の象徴として提示される(A.)。但しその姿が水着だかレオタードだかを着たきれいなオネーチャンであることも同時に示されている(B.)。2.居酒屋の恐らく店長であろう男性は、「パソコン」の性能を吹聴する。彼は「便利さ」を享受する社会一般を代表するものと思われる(A.)。ただ彼の言葉が具体的な性能には向けられず、「最新機種」であり「速い」という抽象的な表現に集約されている点は注目に値する。この作品において「便利さ」はどこまでも空虚な記号なのである。3.秀樹は「パソコン」を見て一瞬動きを止める。店長に「興味あるのか?」と問われて「いや・・・んなわけじゃないんすけど」と受け流すが、何らかの関心を持っているであろうことは予想される。

4)では、どのような関心なのか? それは続くp.10-11において彼自身の口から表白される。彼は確かにパソコンが「欲しい」のだが「万年金欠浪人生」であるため買えない。しかしなぜ欲しいのかは自分でもよく分かっておらず、「インターネットのエロサイト」が見たいとか「持ってないのオレくらいだもんなあ」といった理由しか示されないまま、「せっかく人型してんだから こう・・めちゃくちゃ可愛いやつ」が欲しいと考える(B.)。彼はパソコンのA.よりもB.の側面に注目するという点で、既にこの世界において例外的な存在なのである。

5)p.12-16、ゴミ捨て場でちぃを見付けて拾って帰るまでのシークエンス。同梱のディスクを落として行ってしまうという伏線。……ごめん、だんだん飽きてきた。つうかこの辺は薄いよな。ただ秀樹がちぃを初めて見た時に彼女を人間だと認識するのにはB.をマーク。

6)p.17-23、ちぃを起動させるまでの奮闘。この部分ではA.B.の差異によって感情的な(というか一人相撲的な)運動が展開するという意味で、後述のchapter.2と併せて極めて徴候的な箇所と言わねばなるまい。すなわち「こうしてると普通の女の子と変わんねえなあ」で赤面(B.)→「つか」と一旦我に還る。「オレがちゃんと使ってやるからな」(A.)→しかしスイッチがどこにあるか分からず、あとは股間しかないと気付くと再び赤面&ドキドキ(B.)→で、やっと起動。今回の見せ場(当然裸)。

7)p.24-25、パソコンが「ちぃ」と言いながら秀樹の方へにじり寄る。彼はそれに対して「それお前の名前か?」と訊き返す。後のほうで「パソコンに名前をつけて可愛がる」という話題が出て来るが、それが通常のユーザーの態度としてA.の側に留まる程度の愛着であるとするなら、パソコンが自分から名乗る(或いは秀樹がそう認識する)この場面は対立項としてB.を形成するだろう。

8)最後、p.26。裸の少女に抱き付かれて顔を赤くして固まる秀樹。というただそれだけのページなので、B.とだけ言っておけば済むのだが、一応「なんかどっかで見た事あるぞこの展開!」という独白により作品の自己パロディ意識も確認できる。先行する記号に対する言及・反復はアレゴリーの形成として常に注目されねばならない。

ついでにその先も見ておくと、chapter.2は秀樹のちぃに対する期待がA.B.の間で目まぐるしく往還するという心理的運動だけで成立している話。すなわち「せっかく拾ったんだ ちゃんと使うって」(A.)→「ほんとに可愛いな――」(B.)→「パソコンにむらむらしてどうするよ!オレ!」(A.)→エッチなポーズとるちぃにドキッ!(B.)→「相手はパソコンなんだ!」(A.)→で最後にはA.+B.両方が叶う「女ドラエ○ン」を期待する事に落ち着くが、直後何もインストールされていないと判ってA.への夢が破られる。おしまい。わかりやすいですね。

chapter.3は、清水先生に関する伏線を張る事に割かれたp.44-45を除けば、友人・新保との対比において秀樹が飽く迄B.寄りの人間であることを描くもの。ちぃを「いじる」ことに何のためらいもない新保(A.)と、いちいち赤面する秀樹(B.)。ノートパソコンの「すもも」を見せて「便利だぞー」と言う新保(A.)と、ちぃの耳カバーを外すのにわざわざ「ちょっとごめんな ちぃ」と優しく声をかける秀樹(B.)。すももが壊れても新保が嘆くのは「CPU」や「メモリ」に関してである(A.)。

とまあ、この辺までは「便利」と「可愛い」の対立項で押して来ている訳だが、chapter.4以降はそれが次第に変奏される形で「心を持たないロボットを愛する人間の悲しみ」という例のありがちなモチーフが導入される。簡単に見ておくなら、まずchapter.6において稔が「どんなにいい子でも 可愛くても 好きにならないほうがいいよ あとで泣きたくないなら」、またchapter.8では裕美が以前持っていたという人型パソコンについて「なんか 悲しくなっちゃって」、と述べるのだが、秀樹はいずれに対してもその言葉の意味を理解できない。「オレはちぃといても悲しくなんかないけどなあ」といった見るからにズレた反応をしてちぃと戯れるばかりなのだ。なぜか? 彼は「パソコン」の両義性を――恐らくはパソコンに対する無知と無経験ゆえに――、「便利」と「可愛い」という分節化によってのみ了解しているため、それが例えば「心がない」と「心がある」という様態をも取り得る、しかもそれによって或る種の葛藤が生じ得るという事態が想像できないのである。


……いやあ、不毛な作業だなあ(満面の笑顔)。つうかなんでオレこんなこと長々と書いてんだ。ともあれ、最後に「作品」が常に作者の思惑を超えた構造的な多義性を帯びているという当たり前の事は言っておこう。本気で『ちょびっツ』を論じようという奇特な人がもしいたら是非この辺を狙って頂きたい、という注文を込めて幾つか指摘しておくなら、例えば歴史的な被限定性というものがあり、この作品でも「BBS」といったネット用語にはさりげなく解説が施されて現在ネットに縁のない者にも読めるよう配慮されているわけだが、作品読解上はこういう細かい所は見逃してはなるまい。或いはchapter.10における絵本の引用、これはいかにも嫌味だが、例えば「chobits」という話自体が「インターネット上に流れてる都市伝説」つまり噂話のコードを用いて導入されているとか、ちぃが自発的に行動を起こす場面は2箇所あるがいずれの場合もテレビという外部からの情報伝達に触発されているとかいった事と並べて、一応チェックしておこう。この作品が明らかに「無垢な少女をオレ色に染める」的側面を持っている以上、情報の入出とちぃの変化の関係は丹念に検証する必要がある。またその事とも関連するのだが、終盤でちぃが突然よく喋るようになると途端に面白くなくなる(萌えにくくなる)、これはどう考えても面白い。それはちぃが絵本や「死」という言葉に触発されて感情らしきものを見せる、別言すればちぃの「内面」が示唆される過程と並行している。無論その「内面」或いは深さ・奥行きは、ちぃの「過去」という消失点の設定により遠近法的に構成されるものだ。

そんな訳で、ロラン・バルト先生に心の中で謝りながら強制終了。やめときゃよかった。あと2巻が出てもたぶん買わない。


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作者:林
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最終更新:Sunday, 09-Jul-2006 12:55:22 JST