アシュタサポテ :: 過去の日記 :: 2001-06

日記 :: 2001-06


2001-06-27

考えるのと書くのにどうもタイムラグがあるから例を挙げようとするといつも中途半端に古い話になってしまう気がするのだけれど、例えば中村歌右衛門の死去、あのニュースを僕はテレビや新聞で知る前にインターネットで知った。でそういう事があると、なるほどネットは従来の情報伝達システムを変えつつあるのかなというさして面白くもない「実感」を抱いたりもするわけだ(「実感」てやつはいつもそうなのだが)。確かにバルクの生産・流通が情報の伝達に対して不可避的に課してしまう経済的および時間的負荷は、インターネットの手軽さや速さに比べるといかにも不利な条件なのだから、後者の普及によって例えば雑誌という極めて煮え切らない速度を生きるメディアが大打撃を蒙るであろうなんて話は、よく耳にする気がするしまあ或る妥当性を持っている気もする。ただ一方テレビというやつはあれで結構バカにできない速報性を持っているものだから、地震があった時には人はとりあえずテレビをつけるだろう。そこで僕は以前「現在世間の大半の人間にとってインターネットの速報性が勝るのは一日のうち最大6時間だ」という持論を酒とか飲みながらデッチあげたこともある。要するに、一日のうち眠ったり働いたりしている時間を除いてしかも新聞やテレビに接していない時間となると案外少ない筈だ――という所から始まる与太話なんだけど。

無論テレビのあり方がインターネットに接近しつつあるとか、ことによると前者は後者に包摂されるかも知れないといった現実はあるのだが、差し当たっては現在われわれに与えられた環境から出発して議論を進めよう。速報性以外の面でインターネットが有利になりうる要素としては、テレビの画面と違ってウェブページはある程度の間保持されるからニュースを見られる時間的スパンが広がるとか、或いは将来的にはこちらからアクセスせずとも向こうからニュース速報を送ってくれるサービスが出来るであろう(というかもう実現しているらしい)、といった点なのだが、例えば自分の興味のあるトピックを登録しておくとそれに関連したニュースが即時入ってくるというシステムがそんなに便利なものかと考えると、「歌右衛門の死を知るのが6時間遅れたところで別に何も問題ないよな」とか僕は考えてしまう。要するに現在的なニュースに余り興味のない僕などがインターネットとニュースについて考えること自体バカらしいという結論も仄見えたりなんかして。

……例えば個人ニュースサイトというのが或る時期から随分増えた気がするが、そこで扱われる「ニュース」というのは、ネット上での話題を除くと基本的に全てオフィシャルなニュースサイトに拠っている。簡単な話、個人ニュースサイトの管理者は自分で取材とかしてニュースのネタを仕入れている訳ではないのであり、それをやったらそのサイトは「ニュース」ではなく「ドキュメンタリー」とかに分類されるだろう。つまり「ニュース」とは、定義的に言って、ごく限られた集団のみが作り出し発信できるものなのである。そのため「ニュース」は――それがもし「今日の世界で起こっている事」を伝えているとするなら――少なくとも二つの点で不誠実な世界の表象である。すなわち第一に彼らが掌握する情報収集のアンテナが或る選別の論理を持つ以上、世界内の或る事象は「ニュース」から予め排除されざるを得ないという点において、第二にそうして収集された諸断片の集積を、にも拘わらず全体性として提示せざるを得ないという点において。だからマスコミの持つ権力性とは単一の世界表象を大衆に宣伝してしまうという例の「イデオロギー」的・「洗脳」的な側面よりも、その選別の論理が彼ら自身によっても知られ得ないというシステムの不可視性、及び表象される「世界」の境界がその論理によって画定されるという意味での外部性のなさにおいて問われねばならないわけだ。そしてここまで考えてくると当然「ニュース」というものの歴史性を問わない訳には行かなくなるんだけど、話が逸れるし面倒だから僕はやらない。19世紀のパリでエミール・ド・ジラルダンがどうとか好きな人は論じてください。僕が読みます。

もっとも事態はやはり歴史的なものに関わっている。「インターネット」にしても「ワールドワイドウェブ」にしても、「網」というメタファーが当然のようにして使われるわけだが、世界中を覆い繋ぐ網というイメージは明らかに19世紀の鉄道を反復するものだ。国民国家の形成期において鉄道がいかに啓蒙的な装置として機能したかについては、武田信明『<個室>と<まなざし>』(1995、講談社選書メチエ)という非常に面白い本の中で様々な資料を駆使して論じられているが(ちなみにこれはとても良い本だからぜひ読んだほうがいい)、近代の「ニュース」はそうして形成された抽象空間の内部で成立し、かつそれを補強している。そして狭義のニュースを含めた情報の伝達の形態がインターネットによって変化を蒙っても、それは恐らく、鉄道網によって結ばれた抽象空間という近代国民国家が用意した表象を越え出るものではない筈である。もっとはっきり言うなら、インターネットという構想自体が鉄道網に象徴される抽象空間に依拠しているのであって、「ネットには国境がないからワンクリックで世界中のサーバにアクセスできる」などと考えることが、まさに国民国家を前提とした思考なのだ。

言うまでもないことだがインターネットは或る物理的・経済的条件下でのみ可能となるものである。NYのホームレスが図書館のPCからネットにアクセスして云々という「インターネットちょっといい話」はたまにあるし、聞けば山岳地帯に棲むクルド人の家にも今ではパラボラアンテナが立っているそうだが、それにしても現実には世界の何割かの人間は依然電気もろくにない暮らしをしている。そして日本のような「恵まれた」国にいるとそんな単純な事実をも忘れがちになり、インターネットによって「世界が結ばれている」かのように錯覚してしまう事の根底には、やはりあの「マスコミ」的な排除-選別を経た世界表象が働いている。それは「想像力」によって乗り越えられるような種類の「錯覚」ではなく、寧ろわれわれを規定する唯物論的な条件なのだが、とりあえず次の単純な事実は忘れないでおくとしよう。インターネットが或る物理的・経済的条件下でのみ可能となるものだということ、従って「現実の世界」と「ネットの世界」があるのではなくその総体が「現実」なのだということ、いや寧ろ両者を分けて考えさせるような力こそが「現実」を成立させているのだということ。例えばネット犯罪を報じる非ネットメディアがこぞって口にする「インターネットは身元を明かさずにコミュニケーションができる現実から乖離した危険な場だ」というあの決まり文句をわれわれネット者は決まって嘲笑するが、その舌の根も乾かないうちに「実生活のほうが忙しくて更新できませんでした」などと言い出すのはどう考えても妙な話だ。


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作者:林
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最終更新:Tuesday, 14-Nov-2006 19:07:17 JST