いや、しかし『化競丑満鐘』の話の続きなんだけどね、ほんとなんで狸の女房が雪女で雪女の兄がカワウソなんだろうか? 例えば雪女の旦那も雪女、いや雪男で、彼ら夫婦の間には雪子供がいるとか、そういう風には考えられないのだろうか? もちろん考えられないのだ。なぜなら「怪物」とは、「一般-特殊」或いは「類-種-個」という枠組には収まらない単独者として想定されるものだからだ。虫や魚の新種なんかは毎日のように見つかっているが、学者でもない限りそんなものにいちいち驚いたり注意を払ったりする人はいない。しかし怪物となると話は別である。それは「類-種-個」という生物種の分類体系にスキャンダルをもたらす存在だ。彼らは同じ種に属する個体を持たず、従って繁殖もしない。例えばネッシーに子供がいるなんて話は聞いたことがないし、いたとしたら大層興醒めではあるまいか?
怪物論は思想的には恐らく天使論に遡る、というより、天使論の変奏されたものである。天使、つまり神が人間に遣わす使者・仲介的存在というアイディア自体はユダヤ教に由来するものだが、背中に両翼を担ったあのお馴染のイメージは古代バビロニアにまで遡れる東方由来のものであり、もっとも旧約および新約聖書を読む限りでは人間に似た姿をしているという程度のことしか分からないから、どの時点で件のイメージが成立し一般化したのか、といった美術史学的・図像学的な論究はそれはそれで興味深いが、差し当たってここで問題としたいのは天使が神学的・哲学的にどう位置づけられたかということだ。聖書だけを読んでいる限りでは、つまりユダヤ教の延長線上で考える限りでは発生し得ないこの問題が顕在化したのは、中世にキリスト教神学が確立する過程で新プラトン主義哲学が導入されたためであり、それには少なくとも3つの経路が指摘できると思われる。すなわち、第一にはマリウス・ウィクトリヌスによるラテン語訳でプロティノス(そして恐らくはポルフュリオスも)を読んでいたアウグスティヌスによる影響であり、第二にはプロクロスの『神学綱要』を元に9世紀アッバース朝のバグダードで成立した『純粋善論』が更に12世紀にラテン語訳されることで西欧世界に逆輸入され、アリストテレスの著作としてスコラ哲学の教科書ともなった『原因論』Liber de Causisであり、第三に、そして天使論に関してはこれが最も重要なのだが、『使徒行伝』中の人物の名を著者名に冠しつつもプロクロスの著作との対応箇所を持つため現在は偽書とされるが当時は真作として扱われ9世紀にエリウゲナによってラテン語訳された擬ディオニシウス・アレオパギタ文書、とりわけその『天上位階論』Hieralchia Coeliである。
紀元3世紀のプロティノスに始まり5世紀のプロクロスに至る新プラトン主義と呼ばれる哲学は、プラトンの哲学を「正当に」理解し継承するものと自称しつつも、あるいはアリストテレスやストア派の影響下にもありつつも、本質的には「一と多」或いは「全体と部分」という対立概念によって存在階層を執拗なまでに細分化して行くことを特徴とすると言えるだろう。ごく大雑把に言うなら、プラトンにおいてあの人やこの人といった個々の人間(個物)は、人間のイデアを分有し・イデアを原型とする模像であると考えられた。ここにおいて既に「類と個」という階層化が生じているわけだが、実のところイデアとはもともと数学的・道徳的あるいは美的な絶対性として発案されたものなのだから、個物がいかにして存在するのかという議論にこれを当てはめようとすると途端に多くの問題が生じる。そして新プラトン主義者たちの殆ど狂気じみた努力は、これをアリストテレス的な「形相と質料の結合」といった概念によらずしていかに整合的に体系化するかにあったと言ってよい。プロティノスの哲学体系は、これもまた極めて大雑把な要約になるが、基本的に「一者」を頂点として、そこから知性-魂-その受肉としての生物-無生物-完全な無規定としての質料、といったものが順次段階的に流出するというヒエラルキー構造をなしている。この階層構造は時代が降るにつれて過激なまでに洗練され、プロクロスにおいて遂に精緻極まりない体系が完成する。
個物を個物として成立させる原理は何か、個体の本性とは何か。この問いは思想史において殆ど普遍的なものだから、例えば「この人」が他のあの人と同じ種(生物種)に属しつつ別の個体として生成・実在していることを、現代ならばゲノムといった概念を持ち出して説明するのが普通だろう。しかし個体論の論点は本質的には、その本性がその実在において「いかにして」内在するのか、という点にある。そこを説明しなければ、ゲノムを持ち出そうが何をしようがイデア論と変わらない。人類の思想史は直線的に進歩してきたというよりは寧ろ螺旋状に同じ問題系を巡って展開され、しかも徒に分化するばかりで全体としてはさのみ進展してもいないように僕には見える。何しろゲノムは無生物の生成を説明してはくれないのだから、そういう点ではプロティノスもしくはアリストテレスのほうが遥かに整合的で包括的な世界生成の原理を提示していると思わないか?
話を戻そう。『天上位階論』は文字通り天上の構造を9階層に分けて説明するもので、この明らかに新プラトン主義的な発想は中世以降のキリスト教天使論の構成に大きな影響を及ぼしているが、そもそも天使の存在階層中への位置づけが問題となるのは、それが「一つの種に一つの個体しかないもの」と考えられるからだ。人間の場合に、人間(人類)という種の下で個々の人間が発生し繁殖し死滅するのに対して、天使は種=個体であるから発生・繁殖・死滅しない単独的な存在である。だからこの問題を、想像的な存在である天使を現実の生物種の体系に当てはめようとしているのだから上手く行かなくて当然だ、などと言って済ませるわけには行かない。それは個物の単独性や固有名という問題系に直結するものなのだ(……もっともこの辺はキリスト教神学の埒外にある人間が下手なことを言うとすぐに足許をすくわれかねない。例えば旧約『イザヤ書』6.2以下には「セラフィム」が二人「飛び交って」「呼び交わしていた」とある。つまり、少なくともこの箇所に関しては「セラフィム」は固有名ではない可能性がある!)。
近代と呼ばれる時代に入ると、大航海時代と植民地主義を背景として、天使論は怪物論として変奏される。怪物という想像自体はどの時代・どの土地にも見られるものだが、植民地から新しい情報が次々と入って来る状況はこの想像にとって確かに刺激的だったろう。例えばアジアやアフリカや新大陸でそれまでヨーロッパ人に知られていなかった新しい生物種が発見される、これは何の問題もない。しかしその中には生物種として認定されないような曖昧な情報も含まれていて、これは何とも言えずスキャンダラスだから、例えばロックも『人間知性論』の中で「豚人間」の話題を扱っている。問題は、豚人間が実在するか否かではない。豚人間という「新種」が発見されたならば何も問題はないのだが、豚人間という「怪物」が存在する(かも知れない)と考えたときには、生物種の分類体系にスキャンダルが発生する、これが怪物論の要訣だ。つまり怪物もまた発生・繁殖・死滅しない、種=個体であるような単独者である。
さてもう少し時代が降って、話は近代国民国家の形成期に移る。この時期おいて鉄道網の敷設がもたらす「啓蒙的」役割については以前の日記(2001/06/27)でも少し触れたが、今回は怪物論という観点から、鉄道網に象徴される抽象空間が国民の「想像力」に或る限界や閉鎖性をもたらしたという点に着目してみたい。例えばヴィダル・ド・ラ・ブラーシュは1922年の時点で次のように述べている。
「ヨーロッパの鉄道網は、シベリア鉄道を介して、中国北部に粗描された鉄道網と連絡している。合衆国のそれは二条の大動脈を介してメキシコに侵入している。アジアではインドの鉄道網とロシアの鉄道とのあいだに、アフリカではアルジェリア、エジプトおよびケイプ コロニーの諸線のあいだに、南アメリカではボリヴィアとアルヘンチナとのあいだに、いずれも空白の部分がある。しかしこれらの欠隙の埋まるのは時間の問題にすぎない。」
「交通の現状は、孤立にもとづく諸結果をますます目立たせる。かつては自然な事柄として怪しまれなかったこの孤立状態というものが、今日では一つの時代錯誤として咎められる。(……)われわれの高度な諸工業は、販路と原料とを欲するあまり、身をひそめている国々があることを辛抱しきれないでいる。国々の孤立は今や持続さるべくもない一つの犯則のように見える。」
(Paul Vidal de la Blache; Principes de Geographie Humaine, (1922) / 『人文地理学原理』飯塚浩二訳)
鉄道網は国土を連結することで国民にとって国家を統一体として表象せしめると同時に、「世界」がそれによって結ばれたという表象をももたらした。鉄道網や電信網によって結び付けられた閉鎖的な(外部をもたない)統一体としての「世界」という表象が、ここではっきりと現れたのだ。事実、19世紀後半から20世紀初頭は――言い換えるならそれはスエズ運河の開通(1869)とパナマ運河の開通(1914)によって区切られる、「交通」が飛躍的に発達した時期だ――、何よりも「世界」が単位として考えられた時代なのであり、例えば世界共通語が発案され、欧州に起こった国際戦争が第一次「世界」大戦と呼称されるのである。かくして「世界」は閉じられる。無論現実には未踏の地はいくらでもあるのだが、人々は既に「世界」が一つの閉域をなしているという実感を手にしてしまったのだ。豚人間の情報は最早やかつてほどの知的衝撃をもたらさないだろう。にも拘わらず人が「怪物」を求めるとしたら、あとはどこを探せばよいのだろうか?
その一つの答えは宇宙である。無論怪物を想像することが土地や時代の差異を越えて普遍的であるように、地球以外の星に何らかの生命体がいるという想像もごくありふれている。『竹取物語』はその最も馴染み深い例だろうし、ヨーロッパでもローマ時代には人が他の遊星を訪れ異星人と遭う物語が書かれ、啓蒙主義時代にも異星人が登場する文学作品が書かれている。しかし実際に「SFの祖」とされるのは例えば『月世界旅行』(1865)のジュール・ヴェルヌや『宇宙戦争』(1898)のH・G・ウェルズなのであり、SFが文学や映画の領域でひとつのジャンルとして確立するのはもっと後の時代になってからである。1950年代にはSF映画が隆盛を極め、更にジョージ・アダムスキーを始めとするいわゆるコンタクティ(宇宙人会見者)が話題を集める。これを実際の月ロケットの打ち上げ等によって人々の宇宙への関心が高まった結果と解するのは、誤りではないだろうがつまらない(ついでに言うと'50年代アメリカで量産されたSF映画に清教徒的イデオロギー性(善悪二元論)が露骨に顕れている事をことごとしく指摘することも、同時期のアメリカB級映画で流行した「人体に寄生する怪物」というモチーフを外見上は何の変わりもない普通の隣人が実は思想的には共産主義に染まっているかも知れないというマッカーシズム的風潮と重ね合わせて理解するのと同じくらい、正当であるだけにつまらない)。従ってここでは、大空を翔ける鳥のごとく自由なものである筈の人の「想像力」なるものが、いかに唯物論的な制約のもとに規制され導かれるものであったかを検証してみよう。
1969年7月20日、アポロ11号が月面に着陸しニール・アームストロングが例の「一歩」を踏み締めた時、ある作家は「これでSF作家は書くことがなくなった」と言った。SFの作家や読者がこの言葉を決まって嘲笑するのは、自分の「想像力」に自信があるからというよりは単に現実にそれ以後も(現在に至るまで)SFが書かれまた読まれてきたからに過ぎないと思うが、それにしてもこの言葉は一面で真理を突いている。なぜなら、誰もいない月面を人が歩いたという事実性によって、かつてあったような想像力は質的に決定的な変容を蒙ったからだ。実際今から考えると、『月世界旅行』だの火星人が襲来する『宇宙戦争』だのは何だかやけにほのぼのとしているし、アダムスキーが1952年に金星人と接触したと報告しているのもどう考えても「嘘」っぽい。われわれは最早やそんな「近い」星には夢を抱けなくなってしまったのである。だから近年のSFは火星を扱う際には最早や古典的なSFにおけるのとは異なり人類の移住可能性といったより「現実的」な側面に着目しているようだし、また自称コンタクティも最近では火星人なんかには目もくれず、アンドロメダだかプレアデスだかシリウスだかもっと遠くだか、とにかくえらい遠い星の人々と交信しているではないか。ネット上にもそういう人は沢山いる。
話を戻そう。僕が天使論や怪物論を通覧することで言いたいのは結局は個体論だった。つまり「個物を個物として成立させる原理は何か」「個体の本性は何か」という問いである。この人間が他ならぬこの人間であると言うためには、種的本質が個体的本質でなければならない。別言すると、個体の単独性を認めようとするなら人は怪物や天使と同じように存在しているのでなければならない。もちろん「本質」という概念があらかじめ多を含意している(複数のものに対して当てはまるからこそ、複数のものから抽出され得るからこそ「本質」である)と考えるなら、「個体的本質」なるものを認めるかどうかがまず問題になるんだけど、そこは一旦措くとしてこう考えよう。個体が個体として在るには他の個体との差異化が必要である。この時、個体Aと個体Bの同一性として種的本質が取り出されるのが普通である。しかしAがBとは異なる実在であることを強調したいなら、両者の差異性こそが強調されなければならない。ならば量や形質といった偶有性こそが本質的なのだと逆転するべきではないのだろうか。ある個体がある特定の身長や体重を持ってある場所に存在する時、われわれは個体化の原理がまさにそのようにして働いている現場に立ち会っている筈なのである。最後に、以前書いた(もう消した)テクストから引用。
さっき隣にひどく上機嫌な奴がいて俺は大層不愉快であったが、生物学的にみれば何も変わらない筈のこの2個体の一体何が違うのか?位置が違うのだ。例えば塩化銅水溶液に電極をブチ込んで電流を流すと陰極に電気分解で発生した銅が付着する。化学の実験だから何度やっても答は同じで必ずCuなんだけど、1回目の実験で出た銅と2回目の実験で出た銅は確かに「別の」銅だ。では化学的には何ら異ならないこれら2つのCuは何が違うのか?そう、電極に付着する位置が違うのだ。逆に言えばそれがどんな(何回目の)銅かを指示するのは位置だけである。或いはね、餅を2つ網の上に並べて焼くと、成分的には同じ餅なのに必ず違う膨らみ方をするだろ。一つの餅は歓喜にうち震えるかのように膨らみもう一つは苦痛に身をよじらせるかのように膨らむ、この差異を生み出しているのもやはり餅の置かれた位置なのだ。だから俺とあの野郎の気分が天と地ほども違うとしても、その原因は俺の内面やら精神やらではなく僅か50cmばかりの位置的なズレにあるのさ。
未だにそれほど的外れなことは言ってないと自分では思うんだけど、どうだろうね?
納涼歌舞伎は勘九郎が毎年かなり力を入れてやっていて、例えば去年の『東海道四谷怪談』はホント凄まじい代物でラストの隠亡堀のだんまりの異様な緊張感なんかは今思い出しても震えるほどだし、一昨年の『義経千本桜』での忠信狐もとんでもなかったんだけど、今年はちょっとねえ。いや勘九郎はいいのよ。福助も橋之助も良かったのよ。ただ市川染五郎っていう見たことのない役者が出ててね。僕はこんだけ歌舞伎座通ってても見るのは初めてだから、たぶんこの役者は歌舞伎初挑戦だと思うんですけどね、いきなり寺子屋で源蔵とかやらされちゃってて。橋之助の松王丸や勘九郎の千代に挟まれると気の毒なくらい存在感なかったですよ。まだ若いみたいだし、もっと端役をやらせればいいのになあと思いました。村人とか。
……皮肉はこのくらいにしますけど、イヤほんとひどかったんですよ染五郎。一応姿はいいから写真とかで見れば役者っぽく見えるのかも知れないけど、やっぱ舞台に立っちゃうと全然ダメだわ。いかにも歌舞伎らしくキメるとこで型をつくることは出来ても、何気ない立ち居の端々とか、いやもっと単純に言うと座ってるだけでも、毎月きちんと舞台に立って勤めてる連中との違いは素人目にも一目瞭然なの。年齢(キャリア)の差とかじゃなくて、役者としてのオーラというか、もう殆ど存在論的な水準での格の違い。一番勉強するべきでもあり且つ伸びる筈の時期にテレビとか現代劇とかで遊び過ぎた報いって言やあそれまでなんだけど、これからこの遅れを取り戻すのはまず不可能って感じだったからさ、家柄も容姿も話題性も全て揃ってたのにこれは実に勿体ない事をしたもんだね。まあ若手では新之助とか辰之助とか凄いのが後に控えてるから、歌舞伎界自体はまだまだ面白くなるっていうか非常に楽しみなんですが。あと若手と言うと寺子屋で最後に出て来る園生の前が七之助(勘九郎の次男)で、あれっ、そういう配役で来ますか、という感じだったんだけど。こいつもなんかいつまで経っても成長したって感じがないんだよなあ。お兄ちゃんの勘太郎はちょっと良くなって来てるのに、何でだろうね。
まあとりあえず福助は相変わらずラヴでしたよ。寺子屋の次は三津五郎と組んで『色彩間苅豆』でかさねをやったんだけど、こういうのをやらせるとやっぱ最高。与右衛門に惚れた美女のクドキから一転して顔のただれた醜女の深情け、殺されてからも執念だけで男を連れ戻す連理引き! ギャー女って怖い! ていうか最近の福助はマジ凄いですよ。3月には国立劇場でこれまた累をやったけど萌えたし、4月の『鷺娘』もムチャクチャ綺麗だったし、いやそれより何より7月のコクーン歌舞伎の『三人吉三』ね。いやホント俺、お嬢吉三とかああいうの弱いの。弁天小僧とかにしても。退廃的な匂いが。たまらんよね。振袖のお嬢様を装って夜道でおとせ(勘太郎でした)に声をかけて、彼女が訳ありの大金百両を持っていると知るや男声になって強盗を働くところから、朧月の下で庚申丸を翳して悦に入っている所に現れたお坊吉三(橋之助)と名乗り合い斬り合うところまで、見てて死ぬかと思いましたねあれは。振袖姿の悪党が橋の上で月光を浴びて刀を振り回すなんてのは、倒錯した美のひとつの完成形じゃないのかなあ。それにまた福助がハマってカッケエエのよほんと。――といった具合に初役も含めて色んなことやってて、しかもいちいち見事な成果を挙げてて、脂の乗った時期とかそういう事なんでしょうか、とにかく今更ながら要チェキですよ。
第二部は三津五郎がなんか忠臣蔵みたいのをやってた気がするけど、見るからにつまんなかったし眠かったし席も良くなかったので寝てました。次の『化競丑満鐘』っていうのは聞いたことない狂言だったけど、馬琴の滑稽浄瑠璃だそうで、これは単純に楽しめて良かったですね。「腹鼓指南」という看板を掲げた家に狸(歌昇)が住んでて、そこにろくろ姫(孝太郎。ろくろ首のお姫様なんですよ、勿論)が首だけニュ~って伸ばして訪れて来て、狸は主君に当たる姫の首を取れと役人に命じられていて、ひとまず姫をかくまうんだけど、困った挙句女房の雪女(福助。なんで狸の妻が雪女なのかは不明。ちなみにその兄は橋之助のカワウソだ)の首を代わりに取って渡して――といった具合で、化け物の世界を舞台にしたお家騒動もの。寺子屋をついさっき観たもんだから、首実検とかがいちいちそのパロディに見えてくるところも面白かった。で流石に第三部までは金も気力も続かないから観ないで帰りました。つうか野田秀樹演出とか興味ねえし。あ、でももう一度観られるとしたら第一部をもう一回かな。中日から後半は染五郎と橋之助が役を交換して演るらしいのよ。染五郎の松王丸のダメっぷりっていうのも確認してみたいんだよね(←悪趣味)。