歌舞伎座、昼の部。「毛谷村」梅玉と時蔵。丁寧にやっててそこそこ上手ければ及第点が貰えると思ったら大間違いだ。良く言えば安定した仕上がりなのだが実際だるくて観てらんない。観たけどさ。これを本気で面白いと思って観ている人がどれだけいるのか個人的には大いに疑問とするところなのだが、にも拘らずそれを堂々と上演するのだから歌舞伎のこういう所は嫌いだ。「六歌仙容彩」から業平と喜撰。福助の小野小町が綺麗過ぎ。鬼か貴様は。富十郎にしてもそうだけど、結局こういうのが一番安心して観てられる。「河内山」吉右衛門は夜の部では俊寛をやっていて、健全なファンならばまずそちらに足を運ぶわけだが僕は河内山。主人公が皮肉と嫌味と仄めかしの限りを尽くして金をせびる場面が見せ場だというのは、古今東西の演劇史・文学史上でも珍しい部類だろう。実に愉快。吉右衛門上手いなあ畜生。芦燕の北村大膳も梅玉の松江侯も絶妙だ。ところで黙阿弥の狂言を見ていると幕末文化の退廃というか狂いっぷりに比べれば現代などまだまだだという気がしてくるものだが、またその癖時計が小道具として使われていたりする所は新しい時代の文物を採り入れたがる軽薄な江戸っ子気質がよく顕れていて微笑ましい。と言うかまあ歌舞伎というのは大体そんなもんなんであって、例えば今でもよく上演される狂言で言うと(時代はだいぶ遡るが)歌舞伎十八番に「毛抜」というのがある。お姫様が髪の毛が逆立つという奇病に悩まされているのだが、実は天井に潜んだ忍者が磁石で簪を引っ張っていたという今見ると別の意味でビックリなオチが付いている(しかも何を勘違いしたのか持っているのは羅針盤だ)。時計と言えばシェイクスピアも「ジュリアス・シーザー」では何の躊躇いもなくローマ帝国に時計を置いていたな。いっそ時計の演劇史とか……いや、思い付いただけです。
山中貞雄の「河内山宗俊」を思い出した。現存する山中の監督作品が 3 本とも映画史上に燦然と輝く傑作( <- 安っぽい言い方)であることは今更言うまでもないし、またもし彼が戦争を生き延びていたならば、現在しばしば黒澤・小津・溝口或いは成瀬といった固有名によってマッピングされる戦後の日本映画史のかなりの部分が書き換えられていたであろうことも想像に難くない。僕が「丹下左膳余話・百萬両の壷」とマキノ正博「鴛鴦歌合戦」と伊丹万作「赤西蛎太」を毎日繰り返して観ては詳細なノート作りに没頭していたのは 5 年くらい前の夏休みのことだが、そろそろもう一度観たくなってきた。やはりテレビとビデオくらい持っていないと文明人としては不自由するということなんだろうか? と DVD 時代になってようやく思い当たる僕は無論未開人だ。