
[神聖喜劇 (第1巻) : 大西 巨人, のぞゑ のぶひさ, 岩田 和博]
こんなの出てたのか……。
戦後文学の言葉の貧しさというか江藤淳テーゼを目の当たりにする度に絶望感に襲われるものだけど、それでもなお小説は書ける、どころか小説という形でしか書けないことがあるという事実を大西巨人を読むと実感するので、要するに戦後文学で読むに値する数少ない作家だと思う。
アラビア語入門書をもう一冊注文。そろそろ辞書が欲しい。
多分酒と薬と煙草のせいなのだろうが記憶力が壊滅して久しく、よってこれもまた今どうしても名前が出て来ないんだが、学生の頃に読もうとした本で、アルジェリアだかモロッコだかチュニジアだかとにかく北アフリカのフランス人が書いた小説があった。なぜ「読んだ」ではなくて「読もうとした」なのかと言うと、フランス語とアラビア語が滅茶苦茶に混じっていて到底読めなかったからなんだけど(そもそもアラビア語が混じっていることが分かるまでに相当苦労した)、それにしてもあのカッコよさは異常だったので、思い出す都度今の生活を全部已めてチュニジアに移住したくなる。明日にでも辞職してやる。ここばかり米が出来る訳でもあるまい。どこの果へ行つたつて、のたれ死はしないつもりだ。
なんていう埒もない夢想を抱かされずにいないのは、つまり日本にいて日本語を喋って日本人相手に仕事をし、日本語で日記を書いて日本人向けに公開しているという、この現状がどうしようもなく息苦しいからだ。なんか色々あって閉鎖したらしいんだけど、少し前までワラタ2ッキという 2ch のコピペからアフェリエイト収益を生み出す錬金術 blog があって、たまに見ていたんだけど、それが本家のエントリを英訳して載せる blog を作ろうとしたことがあった。つまり 2ch に投稿された面白いレスを英語にして公開しようという試みで、俺はこれはかなり重要なものだと思って一瞬注目したのだけれど、結局大した数の文章は英訳されなかった。そしてそういう目で本家を見ると、実は殆どのネタが日本語の洒落や日本の芸能人の名前や日本人にしか分からない共通知識を前提としているのだと分かって、今更ながら驚かされた。結局俺を含む日本人がやっている言語表現は、そういうものでしかないのではないか。無論日本人及び日本のマーケットを相手にするならそれで十分だし、現に俺とて全世界に向けて発信すべき情報は何も持たないが、ただこの状況の総体がひどく息苦しく、何も書けない感じがして辛い。
昨年か一昨年辺りからインターネットに接する時間がどんどん短くなっていて、或いはこれが普通で単にそれ以前が異常だったのかも知れないけれど、ともあれそれはこの果てしない情報の大海に対し胸を張って否と言うこと、「見たくないものは見ない」権利を行使することだったとひとまず定義できると思う。インターネットリテラシーと言いデジタルデバイドと言い、何か情報を持てる者と持たざる者との間で分離や差別化や格差の発生が起こっているかのような理解は、しばしば持てる者の優位という観念を根拠もなしに伴ってしまうのだけれど、無論誰でも知っているようにこんな馬鹿げた量の情報をひとまとめに与えられたところで何の役にも立たず、時間リソースが無駄に削られて行くだけである。
どころか、その過程でわれわれは不可避的に消費へと駆り立てられてしまう。 Web 2.0 を何か新しい技術や理念やフレームワークだと思っているプログラマ連中が大嫌いな俺は迷わずそれをビジネスモデルと呼ぶし、だから先日流し読みした『 Who Controls the Internet?: Illusions of a Borderless World 』というまあタイトルから分かる通りの内容の本も、フラット化とか何とか言われるよりはまずまず精神的に落ち着かせてくれる良書だと思った。さて、ところが俺はこの本を、よりによって Amazon.co.jp の「この商品を買った人はこんな商品も買っています」で知らされて興味を持たされて買わされてしまったのである。何だこの皮肉は。あれか、アドルノの言う、文化批判者の批判がまさに自己の属する文化に依拠しているというやつか?
確かにわれわれはこの社会で消費者として主体を確立させられることを避けられなくて、しかしそれは今や男子諸君が思春期にポルノグラフィを通じて性的主体を確立せざるを得ないのと同断の、単体で取り出して是非を問うても仕方ない一つの事態に過ぎない。そしてそれが現代における生の条件だと言うのなら、ここで、何かこう「術中にはまった」ような印象を受けて屈辱を噛み締める必要もないのかも知れない。だがそれにしても自分の消費活動を自ら進んで(……)誰にとっても家計簿や小遣い帳の方が有意義なのだし、或いはまた不買運動は投票などと比べて――有効ではないかも知れないが、少なくとも――市民にとって遥かに意識的な政治参加の方法ではあると思うのだが、それが出来るうちはまだ主体は資本主義に呑み尽されていないと(……)。
そんな次第だから、人がインターネットの利用法についてまず学ぶべきはネチケットでもなければ巧い検索の仕方でもなく、ウィルススキャンの意義の正しい理解や 2ch における煽り・荒らしへの耐性も重要ではあろうがそれ以上に、何より「見たくないものを見ない」技法だと思う。不要な情報を除去して必要な情報のみを適切に取り出す篩が大事なのではなくて、必要な情報などというものは実はそれほどない、代わりに見なくてもいいものが圧倒的に多い、という認識をこそ手にしておかねばならない。こんな文章を読む時間こそが無駄だと悟ったなら今すぐ hosts ファイルに 0.0.0.0 astazapote.com と追記して、二度とうっかり開いてしまうことがないよう自分の TCP/IP を躾けるべきだ。
ここで、せっかくアクセスできる情報に自ら道を閉ざすなど随分偏狭だ、などという物欲しげな目つきは言うまでもなくインターネットに関する例の幻想、自由だとか公共的だとかいったユートピア的夢想に根ざしている。われわれはもう十分現実に気付いている筈で、プロバイダは警察にログを提出するし、 JASRAC は新しいピンハネの仕方を発明するし、 Google は利害関係のために検索結果を調整する、今も昔も現実はやはり一つしかない。この現実に些かなりとも主体的・能動的な形で関わりたければ、まず見ないという行動から始めるべきだし、安心して良いことには、人が見ないことを選択できる対象がたかだか有限個に過ぎないならば、無数ある情報の総体は増えもしなければ減りもしない。
お便りが届いたら内容の公開は「不可」でメールアドレスは未記入で、でも疑問文が書いてあって謂わばこうレスポンスを期待しているさまが読み取れる場合俺はどうしたらいいんだぜ?
人間と接する機会が少ないせいか妄想が威力を増していて、稍々ともすると現実と区別がつかなくなりそうで困るというか辛い。そして語学の勉強ばかり捗る。
こうして益もなく酒を飲み続け、本を読み続け、発語されることのない言語の学習を続け、仕事には不満を垂れ、ミサイルや地震には不安を感じ、それでも結局出来事は必ずここではないどこかで起こると信じきって、そして(……)。
以前書いた長渕剛の『 JAPAN 』と『 Captain of the Ship 』、それからこれも 525 円で買った『 JEEP 』の 3 枚をとっかえひっかえ聴いていて、これは大したものだと思う。俺は長渕剛というと、「乾杯」という或る種のシチュエーションでよく利用される歌を歌っているフォークシンガーだったのが、やがて色々あってチンピラヤクザ役が似合う役者(弟分は哀川翔)になってしまった人、という程度の認識しか持っていなかった。それを今更聴いてみたのは言うまでもなく般若に導かれてで、実際長渕に(ここで「剛に」と表記するとファンっぽい)、長渕に対する般若の傾倒ぶりは年を追うごとに増していて、「圏 GUY 」に登場する「ツネと英二」とは何者だと思って俺が調べている間に、般若は長渕の「心配しないで」なる曲をトラックに「心配すんな」というなかなかに感動的な佳作をものし、「かいじゅうたちのいるところ」では「もし、オレが死んだら葬儀でかけろ『泣いてチンピラ』」と言うのでこれまた誰の曲だとぐぐる遑もあらばこそ、今度は長渕のトリビュート盤に参加したと思ったら続いて長渕が主題歌を歌っているところの何とか言う邦画のイメージソング、「オレ達の大和」なんてのも出したけど俺はこれは余り買っていない。
長渕剛に関してまず言っておかねばならないのは、これらは大体 15 年くらい前のアルバムなんだが、音が異様に良い。特に『 Captain of the Ship 』のクオリティは異常で、まあアメリカで一流どころのスタジオミュージシャンを揃えて作っているらしいのでそれに相応と言えば相応の出来なのかも知れないが、俺は 1993 年の時点でこんな音楽的に高品質なポップミュージックが日本でリリースされていたなんて全く知らなかった。大体「 15 年くらい前」の音楽というのは一番中途半端で、新しくもなければ古くなりきって却って新鮮に聞こえるにはまだ若い、つまり所謂「古い」と聞こえてしまう場所にあると思うんだけど、いやこれはマジ全然聴ける。『 JAPAN 』では湾岸戦争やバブル経済といった「時事ネタ」にも少なからず手を出しているが、音が古びていないお蔭でそれほど違和感がない。
次に曲作りがどれも非常に巧みで聴きやすく、妙にポップで、全くもって風貌や声やイメージからすると落差を感じるくらい、人懐っこくて耳に残り、一聴して良いと思える曲を書く。これはフォーク時代からの修練を経て言わば職業人としてそういう能力を、つまり取り敢えず毎回ソツなく良い曲を書く能力を養ってきたということなのかも知れないが、いずれにしてもこの男のソングライティングの基礎体力は侮れないと思う。ただ、あの顔で女との情事を生々しく歌われるのは未だに苦手だ。
詞について言っておくと、時代とか日本とかいったテーマを持ってくる、所謂「社会派」な歌詞はフォークの伝統なのかも知れないが(関係ないが英国のパンクは folk song である)、単語の選択のセンスは確かだと思う。「単語の選択のセンス」みたいな言い回しは最近では LOVE PSYCHEDELICO について書いた時、昔なら SUIKEN について書いた時にも使った気がするが(気のせいかも知れない)、俺が意味したいのは例えば KAN は「幻影」をこう始める:
ふと眺める高層ビル 立ち並ぶ新宿の一角
または、「あれよという間に」ではこう言う:
本気で変わろうとすれば変わるかも知れん だがそう上手くも行かねえ
俺は、ああこれはダメだ、と正直思う。無論詞というのは韻律を伴い発声されて初めて生を享けるものなのであってみれば、そこから意味表現だけを取り出してとやかく言うことが不当だというのは正論だし、だからそれこそ「宿ノ斜塔」で「不穏」という語を音像化したかのようなイントロに乗せて、少佐がリリックになる直前の言葉の断片のごときものを吐き出す瞬間、あれは我が国のヒップホップにおいて 10 年に 1 度といった単位でしか起こり得ないであろう緊張に満ちた瞬間だったと思うのだが、檻の中の DQN が警察権力に対する逆恨みを表明するだけの貧しい表現によってそれが達成されてしまったという事実も、なるほど同じ正論によって裏付けられるのだと思う。ただ、上に引用した KAN のリリックはそういう水準を越えてもう単純に貧しい。
ではこれに反しどうした場面で長渕の優秀さが論証されるのか。例えば、というのは概ね「ごく恣意的に一例を挙げると」程度の意味だとして、例えば『 Captain of the Ship 』の 2 曲目「泣くな、泣くな、そんな事で」は、こうして書き写すのも気恥ずかしい人にやさしいフォーク風のタイトルとは裏腹に、ダイナミックな演奏に支えられた謂わば過大な包容力によって聴く者を感動させずにはいない曲だと思うのだが、その中に次のような 1 行がある:
眠れぬ夜に ただひとり酒をかじる
なぜ「かじる」なのか。例えば代わりに「呷る」でも文字数は合って歌になるし、意味だって寧ろ通りやすくなるのだから、殊更に「酒をかじる」というどこか奇矯な言い回しを採らねばならぬ必然性もないように見える。ところが実際に聴いてみると俺はなぜかこの箇所では確かに「かじる」が最適解だと納得してしまうのであり、それは例えば a と o という母音ではなくここでは k や j の硬質な音が欲しいという音韻論的に審美的な判断や、美味くもない酒をしかし人生の辛苦から口にするのは液体をスムーズに「飲む」よりも遥かに抵抗のある物体を「齧る」行為なのだという意味論的に心理的な判断、さては「酒を呷る」などという日常で人々が用いる慣用句をそのまま持ち越しては芸術表現としての価値に疵がつくといった市場論的に文学的な判断などによっては、到底覆い尽くせぬ諸要素の絡み合いからこの詞が析出されていることを示すように思う。
ああ、色々書いてみたけど俺はこの人の膨大なディスコグラフィの中でまだアルバム 3 枚しか聴いてないんだよな。取り敢えずその「泣いてチンピラ」(指示代名詞がすごいロングパス)が入っているらしい『 LICENSE 』を買おうと思います。
アクセスログに曰く「最近どんなものを飲んでいるんですか」ヱビスビール飲んだ。ブルジョワの酒だ!
hosts ファイル。こつこつ作りました。誰かほめてください。
今思ったんだけどコレひょっとして誰も言わないだけで実はみんなやってて、でも誰も公開しないのは自分のサイト閲覧傾向が晒されてしまうからで、とすると匿名でこの種の情報を募って蓄積して公開してくれるサイトが既にあったりするんでしょうか。なんだよ先に言えよちくしょう。バーカ。嫌いだ。
ものが存在するにはそれを容れる(それが於いてある)場所が権利上先行して必要である。ものを容れる場所は別のものであることも可能である。しかしものを容れる働きに於いて、そのものは場所でありものではない。そうでなければ、 2 つのものがいずれも自身を容れる場所を持たずに存在するということになるが、ものは必ず場所に於いてあるのだから、これは不可能である。従って場所はものではない存在として規定されねばならず、ものとは異なる仕方で存在する、或いはものとは別の位相に存在すると考えられる。
例えば家の中の部屋の中に人が存在する場合、部屋は人を容れる場所であるためものではなく、且つ家という場所に於いてあるものである。部屋が場所であると同時にものであることは矛盾しない。操作上いずれか一方を取り出すことも可能である。また或るものの於いてある場所は物理的にせよ概念的にせよ複数考えられる場合があるが、どれを取るかは同じく操作上の問題である。
ものが 1 つ以上存在する場合、全てのものの集合としての全体が考えられる。ものは定義上必ず全体の内部にあるため、全体はものではない。また全体はものを容れるため場所であり、且つ外部に自身を容れる場所としてのものを持たないため、超越的な或いは純粋な場所である。この純粋な場所は、述語となって主語とならない。
ものが存在するには限定、境界設定、指し示しが権利上先行して必要である。ものに対する限定者はものとは別の位相に存在しなければならないため、それは場所であると考えられる。ものは同時に複数の場所に於いてあることが可能であり、従って同時に複数の場所の限定を受けることが可能である。しかし別のものは別の限定を受ける限りに於いて別のものとして存在する以上、全てのものは必ず少なくとも 1 つの自身に固有の場所(限定者)を持たねばならない。場所であってものではない全体が存在することから、全ての場所の数は全てのものの数より必ず少なくとも 1 多いことがここで導かれる。
ものは少なくとも 1 つ以上の場所に於いてあり、少なくとも 1 つの場所とはそのものに固有の、他のものを容れない場所である。例えばこの人間という固体を限定するには、この人間に固有の場所(限定者)が必要である。ところで場所はものに権利上先行するため、固有の場所はその対応するものに権利上先行する。従って固有の場所がその対応するものを限定する働きは自己限定であり、ものは場所の自己限定により生成されると考えられる。限定するのは場所であり限定を受けるのはものである以上、固有の場所は限定を受けない。固有の場所の自己限定とは、限定を受けない固有の場所が自己限定を行うことで限定されたものを生成することであるが、この限定は更に上位の限定者を持たないため根拠を持たない。
しかし、にも拘らずものが同一性を保って存在するならば、それは決定不能な限定・判断の系列(である、ではない、である、ではない……)が決定不能のまま存在することが可能だからである。この系列はものの存在とは別の位相に存在するが、ものの存在の根拠となる限定の総体であるため、ものの存在から切り離された位相に存在することもできない。ものとともに存在しながら同時に排除されるこの特殊な位相は潜在性に帰属し、経験的には時間として認識される。つまり時間とは、現存するものと共存しつつ同時に排除される、潜在的にのみ存在する決定不能の限定・判断の系列である。時間はものの潜在性に過ぎないため、単線的と言うより謂わばものの存在の厚みである。
意識というものは意識に固有の場所の自己限定により生成されるが、意識が単線的な時間に於ける連続性を持つと表象されるならば、それは同一の限定・判断の系列の上で或る方向へのスライドが生じたためであると考えられる。この動作に於いて系列上の始点の方向が過去または記憶、終点の方向が未来または予測として分節化されるため、意識に於いて時間は単線的・一方向的なものとして表象される。つまり単線的・一方向的な時間という表象は、限定・判断の系列の単線性をなぞり書きしたものである。
目を覚ましている限り飲み続ける生活。アクセスログに曰く「アシュタサポテ -焼酎は芋をお湯で」うむ。最近届いた本:

[From Oslo To Iraq And The Road Map: Essays : Tony Judt, Wadie E. Said, Edward W. Said]
持ってなかったので。しかしサイードかっこいい顔してるよなあ。見事な哲学者面だ。
Patrick Lacoste - Psychanalyser quand même
さっぱり知らない人。フランスのフロイディアンらしい。タイトルがちょっと面白そうだと思ったんだけど、めくってみたら案の定と言うか最初が「終わりのある分析と終わりのない分析」の話から始まってた。
Martin Heidegger - Questions III et IV
ハイデガーは実は余りちゃんと読んで来なかった。良い機会だから言っておくが、『存在と時間』が主著ということになっていて邦訳も一番手に入りやすいという状況がいかん。いきなりあれを読めと言うのが無茶だ。まあどれを読んでもとっつきやすい作家ではないが、あれは無理だ。普通の人間には手に負えん。あとニーチェをツァラトゥストラから読むのも同断だと思う。
よってここしばらくは外堀から攻めようと思っていて、これはなんか雑纂みたいなものらしい。ドイツ語だときついし日本語の全集は高いのでフランス語に落ち着く。
読んだ本:
アントナン・アルトー - ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト
再読。読む度に前半は「訳わかんねえ、つーかフランス人の哲学詩になんか付き合ってられねえ」と思うんだけど、終盤の簡潔な古代的文体で綴られる戦の場面を経て、冒頭の一文に回帰する結語を読むと決まって異様な感動にうち震えてしまう。
そう言えば Simon Reeve - One Day in September 読了。後半はモサド大活躍の巻なんだけど、こいつらやっぱおかしい。例えばヨルダンで暗殺作戦実行中に警察がやって来ると、警視長官とかを騙って各方面に電話しまくって見事に煙に巻いてしまい、そのまま逃げて上陸から撤退までたった 30 分で無事作戦完了ってどんなルパン三世だよ。
櫻井よしこ - 日本の危機
ブックオフ。ものすごく暗澹とした気分にさせられました。読んでかなり後悔した。しかし初出 1998 年でここまで現在の 2ch 的なトピック(反日勢力、朝日新聞、人権派、フェミニズム、教育等々)を網羅しているのは凄いな。
アラビア語はぼちぼち。特に焦りもないです。
注文した本:
Antonin Artaud - Oeuvres complètes, tome 7
うち震えたのでヘリオガバルスの原書。未訳の原註が沢山あるらしい。
Charles Péguy - Clio
『差異と反復』で大絶賛なのに日本人は全然知らなくてみんなして慌てた(多分)ことで有名なペギー。まあ買っとけば 10 年くらい経つうちには読む機会も巡ってくると思う。
買ってない本:
谷川流 - 涼宮ハルヒの憂鬱
名前をよく聞くからというだけの理由で手に取って大侮蔑の調子をもって斜め読みして後悔したい。
TOMMY FEBRUARY6 + HAWAII
つくづく思うんだけど萌えるとは教育の賜物、後天的に開発される新しい感覚器だよな。ワタクシ生まれは川瀬智子と同じ 1975 年、嘗て言うところのスイケンと同じウサギ '75 、これすなわち当年とって 31 歳になんなんとする大の男でございますが、この年にして眼鏡の良さがやっと分かって参りました。