多分クビにはなっていないと思うんだけど出勤しなくていい日が続くことがあって、そうすると本当に俺は起きる、読書、コーヒー、読書、酒、読書、気が向いたらメシ、読書、寝る。という生活を延々続けてしまって、読書のところに VIP が入っていても違和感ないようなダメな感じがする。今そう書いて思い出したので触れておくと、『サマーの詩集』というのがあって、これはよくある「姉が昔書いた詩集が出てきた」という類のスレの一つが遂に出版に漕ぎ着けたものらしい。俺は幾つか目を通してみただけなんだがそんな絶賛するような面白いものではないし、況して毒気や混沌からはさらに縁遠くまことに微温的で、だからこそ出版もされるのだろうなと思った。 VIP の魅力はこういうところにはないと俺は考えている。「アナルにきゅうり挿してうpするよー」といった、下品で馬鹿々々しく一向に胸を張れないようなことを全力でやって、しかもそれが一時の慰みとしていずれ流れて忘れ去られて行くことを潔く受け入れる態度にこそ、「クオリティ」という語で指し示される多分に日本的な一種の美意識ないしスノビズムがあるわけで、広く好評を博して祝福されながら出版の運びに至るというのは寧ろその対極じゃないかと思う。そんなのヌクモリティとすら呼べぬわ。そしてこのまま続けると、「僕ははてな blogger より VIPPER に親近感を覚えます」とかうっかり本当のことを言い出しかねないのでやめる。
どうでもいい別の話をします。もう 10 年くらい前だと思うんだけど、或る時ふと、自分の部屋には四角いもの、直方体のものしかないということに気付いた。具体的に言うと本と CD (のケース)ばかりが積み重なっているので、まあそればかり買っているのだから当然なのだが、そう思ってみると他人の部屋にはもう少し面白い・複雑な形をしたものが置いてある。服とか健康器具とかフィギュアとか観葉植物とか、扇風機とかカメラとかぬいぐるみとか、東南アジアのお土産の置物とか。そして他人と比較する場面ではなぜか劣等感しか抱けない人間なので、そんな自分の生活がひどく貧しく精彩を欠いたものに思え、且つそもそも今に至るまでそれに気付きさえしなかった自分の鈍さが腹立たしくもあったのである。
その後も折々、例えば青山二郎のエピソードを読んだりする度に、俺もこんなことではいけない、まあいきなり茶碗とか蒐めるのは張り切り過ぎだろうが、試みに携帯ストラップ(根付)辺りから買ってみてはどうか、などと思い立ち、そしてその都度挫折するのだった。買って手にしてみた瞬間は「これはおもしろい」「立体だ」「しかも曲がっている」「色までついている」、などと思うのだが、結局すぐに忘れてどうでもよくなってしまう。そういう「モノ」に対する感性が根本的に欠落しているらしい。男の喫煙者なのだからライターひとつでも「こだわりの逸品」(笑)を持つべきか、と考えたことも白状すれば今までの生涯に数回あるのだが、やっぱりそんなものを手に取って愛でている暇があったらとっとと煙草に火を点けて読書に戻りたい。結局俺は、本にせよ音楽にせよ或いは映画を観に行くのもそうだが、コンテンツや情報に対してしか金と時間と労力を捧げて来なかったし、そのこととどちらが原因で結果かは分からないが、そうした脳内で処理できるイデアル(非感性的)な対象のことしか考えない。着るものは 3 種類しか持っていないし、いや押入れを漁ればもう 2 種類くらいは出てくると思うのだが、何しろ服なんて日常考えることの内に入り込む機会がないから忘れている。靴なんか俺は本気で(冗談や比喩ではなく)、穴が開いたり踵が剥がれたりして解体するまで履く。そこまで辿り着かないと、靴なるものは俺の意識の野に登場しない。財布もポケットの中で小銭がこぼれ落ちるようになるまで買い換えるという発想が浮かばなかった。すると今この時も崩壊への道を歩みつつある物体が俺の身辺にはあるのか、とも思うが、認識の埒外のことだから見当もつかない。
今では、もうなんか諦めたというか受け入れたというか、或いは単にそんなことを考えるのも馬鹿らしくなってきた。興味を持とうとしても持てないことに興味を持とうとしても無理だし、寧ろこの極端に観念に偏った生活が俺のスタイルなのだから、意地でもそれを貫くしかないという思いが強い。勿論それは取り立てて楽しい話ではないので、例えば先日 19 世紀小説における宝石がどうとか思い付きで書いてしまったことから、進めてドイツ文学、特にロマン派における鉱物フェティシズムのことなどを改めて考えた。実際いちいち名を挙げるのも面倒なくらいあの作家たちは鉱物、鉱山、鉱脈、貴金属、卑金属、宝石、石ころといったモノに情熱を傾け続けたわけで、既に多くの研究もあるから俺が改めて何か言うこともない、以前に、何も言えないのである。なぜなら俺は鉱物なんぞにはまるで興味がないからで、「ファールンの鉱山」は読み返す都度憧憬に心を捩られるようではあっても、ホフマンがなぜかくも熱心に鉱物の神秘的な魅力を語っているのかは結局分からないと思う。
これは堪らなく悲しいことだし、更にプリニウス以来の伝統の一脈が俺の前からだけそっくり消え失せるかの如くでもあってみれば、いっそホフマン文学の理解のためだけにでもここはひとつ鉱山に就職してみるべきではないか、と例の気紛れな決意を固めたりするのだがまあ余り現実的ではないな。となると、仮に目の前にひすいとめのうと水晶を並べられても「へえ綺麗ですね」「それぞれ色が違いますね」「これは透明なんですね」「ところで水晶と言えばシュティフターですが」、としか反応の出来ない、そのような人間として俺はホフマンを読むしかない。鉱物への愛を共有してホフマンを読める人間を羨むのはフィギュアを並べて幸せに酔っている人間に引け目を感じるのと同じことで、然るに俺はここまでみかげ石にもハルヒのフィギュアにも無縁で生きてきて、今更やり直すこともできない。いやつまり、誰しも今の自分の位置から読むしかないという当たり前の話をしているのだが、それでも俺の言語の限界が俺の世界の限界を意味するなどとまともに認めるのはいずれ苦々しい。
始めてみたら一人で妙に盛り上がってしまって、 1 日おきペースでホイホイ更新して、 200611.html がファイルサイズではサイト史上(多分)最大になって、しかし間もなくしてそれが自分の中で義務化してきているのに気付いたのでやめた。こんな基礎体力だけで筋トレやってるような更新なら幾らでも出来るが、そればかり続けてはいけないのである。そしてお前らもこんなもん読んでんじゃねえ。
などと考えることにこれといった根拠や理由はなくて、実際このまま読書ノートばかり黙々と書き続けても別に不都合はないだろうし、その反復の果てに気が付いたら何百という書評を抱え込んでしまうサイトはそれだけで立派で価値があるものだから、よし俺もひとつ、と気紛れな志を時に抱かないこともない。まあやらないんだけど。そういうサイトを作れる人とは、俺は言ってみれば生まれた時の星の配置とかそういう水準で違っているので到底できない。こういうのは何ていうか自分ではどうしようもない。例えば半年くらい前にお便りをいただいて:
アシュタサポテをアンテナに登録しようとしたら、「そのURLのページは存在しません」というエラーで登録できません。どうしてですか? アンテナを拒んでいるからですか?
これはなるほど悪いことをしたと思ったし、その上に半年も放置しておいていまさら、ほんっといまさらなんだけど(リポーター・アトム)、来歴から辿って説明いたしますとまず、 2003 年 9 月頃の或る日、当時は Geocities にあったアシュタサポテをはてなアンテナに入れている連中を列挙して「消えろ屑」と罵倒しました。次いで 2004 年 10 月にここに移転して、 .htaccess で hatena.ne.jp を弾くようにしました。その後そんなことはすっかり忘れていたので、例えば今年に入ってハー○イ○ニー観察日記というなんか今見られなくなってるところの人が、アシュタサポテの過去ログを WebArchive から掘り出しているのを見て「いやホラちゃんと再掲載してあるから」とお節介にも言いに行ったまでは良かったんだけど、その後はてなからアシュタサポテにはリンクが張れないんだったと気付いて人の神経を逆撫でする才に我ながら吃驚などしつつ(ごめんなさい)、それでもアクセス制限を解除する気にはならない。
こういう一連の行動には、やっぱり根拠や理由はない。いや理屈は幾らでもつけられるが、説明しようとした途端嘘のようになる。ただ、例えば俺は今も昔も貧乏で、机というものがないからベッドの上で立て膝して猫背で煙草を咥えて、煙に目を顰めながらノートパソコンに向かって文章を書いていて、そういう貧しい現実からこのサイトが乖離するようで困る、と思う。酒を飲んだり女に戯れたり、医者に行ったり本を読んだり、そういうご覧にならるる通り無為の日々がまずあって、そこでの気分や思い付きを最優先させることを已めてしまったら、途端に何か嘘のようなものが混じり始めるではないか。……
さて特別な必要に駆られでもしなければ自分が書いたテキストを読み返すことなど滅多にないし、となると勢いそんなものを Web 上に公開しておきたい、或いはおくべきだ、とはいよいよ思わないので、実際一時期は過去ログを一切置かない形態でこのサイトを運営していた。しかし最近になってログをきちんとした (X)HTML のフォーマットで、且つは出来るだけ不変の URI で提供しておくことも、市民の義務というかノーブレスオブリージュというか(どちらも違う)の一つだと考えるようになったので、気が向いた時に目に入ったもので今でも読めるかも知れなくて再公開しても差し障りがなさそうなものを、選んで、ぽつぽつと「過去の日記」に追加するようにしている。これは例えば mp3 を落として気に入ったらちゃんと自腹を切って CD を買うとか、駅前でティッシュを配って通行の邪魔をしている企業の商品やサービスは利用しないように心懸けるとかいったことと、俺の中では同義なのだがまあいいや。話せば長いことである。
昔のテキストを読み返さないのは単純に面白くないからで、或いは得るところが少なくて時間の無駄だからでもある。これもいつか書いた気がするけれど、日記なんてものは歩いていれば勝手に出来てしまう足跡みたいなもので、せいぜいたまに振り返って消すことくらいしか出来ないように思う。ただ今回、 1999 年末に書いた一文を読み返して、図らずもちょっと感慨じみたものに襲われたことも事実なので、まあ例に因って随分と的外れなことを書き散らしてはいるけれど:
(……)面白い事を書けば面白い事を書いているという生きざまを、面白い事を書こうとしてスベっているならそのスベりざまを、また更新しなければ更新しないという生きざまを客はそこに読み取るだろうし、或いは男がネット上で女を騙ったところでそこに現れるのは女を騙っている彼の姿でしかない(無論この場合相手がそれを信じているかどうかは関係ない)。約言するにどんなにポーズを決めようとも客はそのポーズまでを含めた全体を見てしまうのであり、従ってネットでの嘘はバレるバレない以前にそもそも吐くこと自体が不可能だとさえ言えるだろう。
1999 年、 7 年前、このサイトを始めて 1 年弱の時期に、なんでこんな認識を持っていたのかはよく分からない。ただ、今の俺は何だか、これが当てはまるのは俺一人なんじゃないかという気がしてしている。別に、俺が偉いとか俺が特別だとかいう話じゃないよ。俺が偉いのは当たり前なんだから。俺俺俺。以下、いよいよ変なことを言い始めるので警戒して聞いてほしい。
ここ数年間でわが国のインターネット(世界全体のインターネットの話など俺はしない)、に生じた変化というのは、検索なら Google 、通販は Amazon 、ものを調べるには Wikipedia 、日記を書くなら mixi かはてなで、政治的には数多の嫌韓・反反日系 blog 、そして何より 2ch という、幾つかの「中心」が形成されたことだと俺は思っているのだが(この事態を指し示すなにかべんりな用語があったりするのだろうか?)、そうした中でも結局やっているのが同じ人間だから、同じ誤読が系統的に継承されているように見える。例えば駅前の一等地には朝鮮玉入れ屋と悪徳高利貸が軒を連ね、それら悪の組織の上層部にはエラの張った人がふんぞりかえってニダニダ言いながら本国に送金しているらしくて、ところが既成メディアは糞だからこの許し難い現実を報道しない、と憤懣やるかたない気分で家に帰って PC をつけて 2ch やそれ系の blog を見れば、そこには辛うじて幾許かの真実が語られている、とまあ単純化して言えばそう考える人間が多過ぎる。ここでは、駅前と自室の PC を両つながら容れる場所としての「現実」が消去されていると一と先ず言えるだろう。
これに対し、 OK わかったネットで吠えているだけではダメなのだ、電凸ビラ撒き不買運動、とにかく行動を起こすことで世論を喚起しネットから少しでも現実を変えて行くのだ、というアンガジュマンの志は立派なものだと俺とて認めるに吝かでないが、ところで、これはどちらかと言うと mixi でご丁寧にも実名を出した上で思ったことをそのまま放言して祭られてしまう人に近い。この種のネットと現実が何の緊張感もなく透過的に繋がっている人間はこれからも増えるのだろうけれど、両者を容れる場所としての「現実」は、また両者をどうしようもなく差異化する力でもあるのだ。あなたは今 PC のモニタに映し出されたこの文章を読んでいて、回線の向こうにいつかそれを書いた男がいるようにも思うし、またどこかのサーバ上に置かれた無機質なデータの一片を目にしているだけだとも思う。インターネットの常軌を逸した巨大さは後者を実感として保証するようだし、しかし所謂「中の人」がいることもまた健全な常識として承認される。この両方が別々のままで同時に正しい、ということにみんなもっとくらくらしてほしい。或いは、ネットに書くことが怖いのは本質的にこのためなのだ(それとも怖がっているのはまた俺一人なのか?)。回線越しの人間に向けて書くと同時にまた所詮自分以外のものに向けては書いていないという、この事態が怖いのであって、実名を出して特定されるとか異なる政治的信条の持ち主から攻撃されるとかいった、その後に起こることはいずれ枝葉だと思う。
……実を言うと俺はひとつだけ mixi とはてなに感謝していることがあって、連中のお蔭で日記サイトというこの場所が昨今では牢獄に見えてきたのである。何しろ連中がいとも簡単に日記を書いて、というか投稿している傍らで、塀一つ隔てて俺は過去ログの管理のためだけにも自前でスクリプトを書かなくちゃいけなくて、可哀想なくらい不便な目を見ている。そしてこういう時に思い浮かべるのは『クリトン』のソクラテスに始まる獄中哲学の系譜で、ボエティウスを経由してルネサンスのカンパネッラ、啓蒙主義時代のヴォルテールとディドロ、サド、或いは吉田松陰とグラムシを経て現代のネグリにまで至るこの伝統に思いを寄せるならば、俺もがんばらなくちゃなあというか、意思のオプティミズム(最善世界観)というか、要するにここも案外仕事のしやすい場所じゃないか、と考え直す。なので気が向いたらまた読書ノートはぼちぼち書いて行こうと思うんだが、今しばらくは論語とか読んで過ごすつもりなので話しかけないでくれ。