astazapote (2010-01-30 21:43:28)

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astazapote (2010-01-30 21:38:05)

浅草公会堂第二部。新春浅草歌舞伎は例年色々とサービス精神旺盛で、両部とも日替わりで役者の口上がつくのだが、俺が見た時はたまたま 2 日とも七之助でなんだか損した気分だ(ちなみに一昨年、挨拶もそこそこに立ち上がるとマイクを持って客いじりをしながら作品解説をした MC 獅童はいかにも浅草で楽しかった)。「袖萩祭文」について、筋が複雑だからと言ってそこに至るまでの経緯を説明してくれるのだが、聞いていて気の毒になってくるほど下手糞で却ってこんがらがるばかりである。

ともあれ「袖萩祭文」。良いとこのお嬢さんがどこの馬の骨とも知れぬ浪人と駆け落ちして勘当を蒙り、その後苦労を重ね今では盲目の瞽女に零落している。ところが諸般の事情で父が切腹を命ぜられたことを伝え聞き、十数年ぶりになろうか、雪の降る中を娘に手を引かれ実家に辿り着く――という、ギリシャ悲劇にでもありそうなドラマの予感に満ちた幕開き。勘太郎の袖萩は、これといった特色・個性もなく教わった通りに丁寧にこなしている感じだが、しかしその企みのなさが実に良い。例えば袖萩は勘当の身だから屋敷に入ることが叶わず、もどかしくも木戸を隔てたまま僅かに老父母と言葉を交わし、祭文を語る。これは舞台上の物理的な境界に象徴的な意味を持たせることで内面の葛藤を視覚化するという、形式化すればそれこそ「御浜御殿」の敷居と同一の、どちらかと言えばよくある部類の作劇上の手法だが、勘太郎の袖萩は殆どそれを本気で踏み越えることのできぬ壁と捉えている。そのため「この垣一重がくろがねの」という名文句が些かもクサくならず自然に腑に落ちて、ほとほと感心する。王道を行くとはこういう所業か。

父の切腹と同時に門前で袖萩も自害して果て、後半はこれも勘太郎の貞任。刀をひょいと投げてパッと受け取る見得が実にかっけええ。――総じて義理と人情、公と私の相剋と葛藤という歌舞伎の得意とする主題の中にあって、分けてもこの作品が傑作たる所以は家庭に「政治」が土足で上がりこんでくるスキャンダル感にあると俺は思っているのだが、実際今まで見た中で一番その意に適う出来だった。何しろ若手揃いだから技巧や芸を言い出せばきりのないことだが(別に下手だという意味ではなく)、にも拘らずこの水準の舞台が仕上がるというのは、やはり驚ろくべきことである。

「悪太郎」。以前から見たいと思っていた演目の一つ。同名の狂言の舞踊化で、大酒飲みの悪太郎(亀治郎)を伯父(愛之助)と太郎冠者(男女蔵)が懲らしめるという話だが、まあ良い意味でも悪い意味でも期待の地平を超えない、明朗な古典の笑い。亀鶴の智蓮坊。


astazapote (2010-01-30 21:37:47)

歌舞伎座昼の部。「春調娘七種」。曽我兄弟になぜか静御前が絡んでの踊り。静御前は福助で、ホントまあ、こんな綺麗な立体を拝めるならまた 1 年生きる甲斐があるというものだよな。幸せ。十郎は染五郎で、確かに与三郎よりはこちらが適役だろうが、対する五郎を橋之助がやっているのは納得できない。つまり、なぜ与三郎をやらせないのか。歌舞伎業界、ないし松竹の政治的思惑を垣間見るようで嫌になる。

「梶原平三誉石切」。幕が開くといきなり全員出揃っているのでびっくりした。梶原は幸四郎で、この人は義太夫狂言をやらせると一層台詞が聞き取りにくくなることは確かなのだが、そこを措いても糸に乗ってんだか乗ってないんだか分からぬ感じでどうも困る。左團次の大庭、歌昇の俣野、東蔵の六郎太夫。魁春の梢が不相変良い仕事。

「勧進帳」。團十郎の弁慶、梅玉の富樫、勘三郎の義経という大顔合わせで、巧拙を論ずるのも野暮であるが、勘三郎は出て七三で向き直った瞬間見事に義経になっているのが憎たらしいほど上手い。

「松浦の太鼓」。初めて見たが実に下らない。こんなものを「秀山十種」の一とか称して「家の芸」として後生大事に受け継いでいるのかと思うと、悪いが役者という奴はやはり馬鹿なのだなと思ってしまう。初代吉右衛門、及びその父・三代目歌六の当たり芸だったそうだが、それは多分たまたま役が役者の人柄と見合って、且つ今に比べれば相当のんびりしていたに違いない観客の趣向にも適ったという程度の話に相違なく、作品自体はどうにも救い難い凡作である。

両国橋で俳人・其角(歌六)と大高源吾(梅玉)が遇う。源吾は浅野家断絶の後浪人して今は煤竹売りに落ちぶれているが、風流心は忘れていないようで其角の詠んだ句に謎のような付け句をして去る。舞台を移して吉良邸の隣、松浦鎮信(吉右衛門)の屋敷。俳諧にうつつを抜かす殿様・鎮信と其角、そして其角の口利きで奉公させてもらっている源吾の妹・お縫(芝雀)との間で何やらgdgdしたやり取りが続いてまことに退屈。『元禄忠臣蔵』の綱豊と同じく大石内蔵助以下赤穂浪士に忠義を期待するという点は共通しつつも、終始単純無邪気なバカ殿に徹するという趣向は悪くないが、しかし結局のところ仕草や台詞運びの端々でトリヴィアルな笑いを購うだけのごく水準の低い喜劇だと思う。お縫も、其角が昨日大高源吾に会ったと言うと、御殿女中の分際で突然えーマジで? どこで会ったのと図々しくも話に割り込んでくるバカ女である。

最後は山鹿流の陣太鼓を聞いて赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったことを知り、「助太刀する」を駄々をこねて家来どもに押し留められるところに、火事装束の源吾が来て討ち入りの模様を語るのだが、ここまで来て、木に降り積もった雪がドサッと落ちて頭からかぶるというドリフばりのベタなネタをやる。呆れ返る他ない。


astazapote (2010-01-30 21:37:17)

歌舞伎座夜の部。建て替えが決まってから劇場前には電光掲示板が設置されて「あと何日」と表示していて、面する通りでカメラを構える田舎者も心なしか増えた気がする。まあ俺とて学生時代から算えて十数年通った場所ではあるから一抹の感慨もなくはないが、それにしてもたかだか築 60 年程度の建造物の何をそれほど難有がるのか、正直理解できない。座席がもう少し広くなって、あと女性用トイレの数が増えて休憩時間に決まって発生する長蛇の列が緩和されれば、随分結構なことではないか。

まずは新作の長唄舞踊「春の寿」。王朝風の舞台に梅玉の春の君、福助の花の姫、そして雀右衛門の女帝が出てそれぞれ踊る。まあ華やかで目出度く初春らしくて結構、というそれだけのもの。

「車引」。吉右衛門の梅王丸と芝翫の桜丸が出て、笠を被ったままあれこれ話し、やっと笠をとってまたあれこれ見得をするのだが、芝翫小っさ! この日は上手側の袖の方の席だったので、概ね下手に陣取る桜丸はなかなか見えにくいのだが、遠近法を差し引いても吉右衛門と並ぶとまるで大人と子供である。

吉右衛門が何だか軽々しい飛び六方で引っ込んで、さて舞台が変わって車が出る。幸四郎の松王丸が、なんか白いカーディガンみたいのを纏って出るのは白鸚の型であるらしい。ストーリーも何もない、所謂「錦絵」を堪能する舞台だが、それにしても随分散漫じゃないかと思って殆ど退屈しながら見ていたのだが、その印象も富十郎の時平で一変した。設定上も他の連中を呑む神通力の持ち主ではあるが、そういう問題ではなくて迫力の桁がまるで違う。脚もきかない年寄りがあんな凄まじいエネルギーを発しているのに、吉右衛門どもは一体何をやっているのかと思わされる。

勘三郎の「京鹿子娘道成寺」、道行から押戻しまで付いたフルコース。一昨年に三津五郎がやったのがとんでもない代物で、あれを越える娘道成寺を俺は今後果して見ることがあるのかと思っていたが、今回のもなかなかどうして素晴らしい。

これでもかとばかりに上手を見遣るのはどうも鼻につくし、「おお嬉しおお嬉し」で、何と言うのか、脇を締めて両手を合わせて拗ねたように左右に振って娘々した振りをするのも嫌味に感じるし、花笠や何やが始まると「結局のところ非有機的な寄せ集めなんだよな」と冷めた疑問も首を擡げるが、にも拘らず 1 時間全く飽きさせず、どころか見終わってどっと疲れるくらい集中して見てしまった。この吸引力はちょっと凄いと思う。曲も言うまでもなく聴きどころ満載の名曲だが、これほど堪能したことはなかった気がする。押戻しは團十郎。

そうしてすっかり満足して、もうこのまま帰ろうかという気分のところに「世話情浮名横櫛」。お富さんが福助なので見てやったが、染五郎の与三郎は無論下手である。見染から始まるが、俺の中のイメージに比べると幾ら何でもなよなよと突っ転ばしに過ぎるし、 3 年後に時を移しての源氏店でもそのなよなよ感が時に顔を出す。福助も思いのほか良くない。弥十郎の蝙蝠安が、威勢のいい啖呵といいコミカルな応酬といい上出来。歌六の多左衛門は初役だそうだが、落ち着いた貫禄が良い。


astazapote (2010-01-30 21:36:49)

演舞場昼の部。「壽曽我対面」。右近の工藤祐経が時代な味を保ちつつ清々しい仕上がり。獅童の五郎は初役だそうだが、丁寧にやっているだけで荒事の気持ち良さはない。笑也の十郎は単に存在感がない。しかし恐らく最大の欠点は猿弥の小林朝比奈。芝居全体のアクセントをなす重要な役なのだと改めて思う。

右近の「黒塚」。能の「黒塚」の舞踊化で、「猿翁十種」の一として猿之助がたまにやっているやつだが、こんなに面白いならもっと早く見ておけば良かった。どうも俺は、主にスーパー歌舞伎に対する偏見から、猿之助を必要以上に軽視してきた気がする。

海老蔵の「春興鏡獅子」。「対面」と言い最近なんだか正月の度に見ている気がするな。やはり女形は難があり、「川崎音頭口々に」で右手を翳すだけで「手ぇでかっ!」と突っ込みたくなったが、後ジテは流石。鏡獅子と言うと勘三郎辺りのイメージが俺は強いのだが、考えてみればこれは市川家の「新歌舞伎十八番」の一なのである。「獅子は気負いて」で床も抜けよとばかりに足を打つと、客席が一斉に波立つようにぞくっと息を呑む。たまんねえ。

演舞場を出て銀座の駅まで歩きながら、嫉妬としか言いようのない鬱屈たる気分が心の中に渦巻く。ここ数年、海老蔵という男の存在が俺の中で愈大きくなってきている。歌舞伎役者に嫉妬しても始まらないことは自明なのだが、それにしても「なぜ俺は市川海老蔵ではないのか」という理不尽極まりない憤りを抑えることができない。


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