2022年10月22日 04:49

森博嗣『すべてがFになる』、あるいは理系という神話

ブログを作ったはいいけど別に書くこともなくて、しかし目的もなく書くだけ書いた文章は腐るほどあるので、適当に貼っておく。これは2016年4月頃に書いた。


森博嗣『すべてがFになる』(1996年、文庫版1998年)。徹頭徹尾不快な小説だった。解説(瀬名秀明)によるとこれは全10作に及ぶシリーズの1冊目だそうだが、2冊目以降を読むことはあるまい。

読んでいて気恥ずかしくなるような天才同士の対話から始まる。一方は天才にして両親を殺した多重人格者の女(早くもお腹一杯である)、もう一方はこれも非凡な知力(3桁の掛け算が一瞬で出来る等)を持つ超絶お嬢様で、犀川という助教授の下で学ぶ学生。犀川は比較的凡庸な研究者として描かれるのだが、しかしこのお嬢様・西之園萌絵が彼に恋心を抱いており、「センセ、○○ですわ」調で話し、しかもこれを書いているのが現役の大学教員だというのは知りたくない事実だった。

前者、真賀田四季博士という人物は作中では天才ということになっているのだが、その裏付け・説明となるのは:

  1. 「9歳でマスター、11歳でMITのPh.D.」みたいな経歴と、研究所のシステムに使われているOSを設計したといった実績
  2. 犀川を始めとする周囲の人間が無闇と恐れ入っていること
  3. 言動の直接的な描写

の3点である。この内読者にとって「確かにこれは大変な天才だ」という印象を抱かせ「天才」というラベルを納得させるのは3.しかないが、俺が読んだ限りその言動は単に「奇矯」なだけである。解説では「これまで多くの小説では、登場人物に深みを持たせるために彼らの行動過程を書き込むという手法が採用されてきた」のに対し、この作者は「思考過程を通して」人物を描写していると言われていて(pp.514-515)、一体どんな「多くの小説」を読むとこんな文学観が生じるのか不思議だが、まあ仮にそうだとしたところで真賀田博士の「人物」が思考過程を通して描写される様子は見当たらないので、この試みは失敗しているということになる筈である。

さてその真賀田教授が殺される。四肢を切断されウェディングドレスを着た状態でロボット(台車)に乗って登場するというのが何かものすごく恐ろしい場面ということになっていて、失神者まで出るのだが、読者としては特に何ということもなく、想像すると寧ろ間抜けな部類ではないかと思ってしまう。そして博士の部屋が「完全な密室」であることが強調されるのだが、システムで制御されているから入退室管理は完璧だとかログも全て残っているとか、要するに「この部屋は超すごい強力な魔法で防護されているから絶対誰も入れません」みたいな説明があるだけで、まあ良いさ、それはそういうものとして受け入れようと思ったら、無論誰かが操作した可能性は否定できないが……と何だか頼りない話も付け足される。

ミステリというジャンルに蒙い俺にとってこの時点で考えられる展開は:

  1. 実は他に出入口があってシステムでは捕捉できていなかった
  2. 犯人はシステムの穴・死角を突いて出入りした
  3. 誰も出入りはせず内部の人間(真賀田博士)一人の仕業だった

のせいぜい3通りで、この内1.は作中でも語られる通り「ミステリィ小説では、それは禁じ手です」(p.254; 全く、こういうセリフをのほほんと書いてしまうのだから呆れる)なので除外され、2.は作中の架空のシステムに実は穴がありましたという話なので「はあそうですか」としか言いようがない。だからせめて3.であることを祈って読み進めたのだが、残念ながら結論は2.で、博士はシステムを設計した際に経過時間をカウントするunsigned shortの変数を仕込んで、その2バイトの「すべてがFになる」時にシステムが暴走するように計画していた、というのである。何と遠大にして綿密な計画だ、まさしく天才だ、と言いたいらしいのだが(実際言うのだが)、全く以て「はあそうですか」という話である。

ところで天才理系研究者たちも解けなかったこの謎を解いた犀川が、256*256 = 65536という文系SEでも何度か目にする内に覚えてしまうような計算結果を暗記していない(p.416)とは不思議なことである。勿論それは、この3桁の掛け算を即答できるという萌絵の知的能力を描くためお気の毒にも犀川が引き立て役に回されたというだけのことで、つまりただの作品的瑕疵なのだが、それを言い出せば秒ではなく時間を数えるという発想もおよそ開発者らしくないし、たまたま研究所を訪れていたに過ぎない部外者2人があっさりと捜査に加わりシステムも好き勝手に触っているのも随分人を馬鹿にしている。
 
警察等を除くと基本的に「理系」の人間ばかりが出てくる小説で、例えば犀川は初登場する場面で大学の退屈な会議に出席しながら「もし、電子メールが使えるのなら、こんな会議そのものが不必要なはずである」(p.25)と考える。メールによる無駄なコミュニケーションが増えただけでなく会議の手段と機会もTV会議システム等によって却って増大した20年後の現代に生きる読者からすれば殆ど牧歌的なまでに非現実的、と言う以前にそもそも非論理的な夢想だが(メールによって会議が代替されるならとっくに紙に書いて回覧するようになっていただろう)、それはともかく、対面での人間的で情緒的で血の通った関係を無駄と断じ、例えば挨拶は無駄だからしない(p.48)というのがこの作品世界における「理系」であるらしい。事件の舞台となる離島の研究所では、まさにそうした考えを共有する、「科学的にものを考える」(p.298)優秀な研究者たちが、時間や季節の感覚のない密室で研究に没頭しており、科学的にものを考えることが出来るならばそんな環境は不健康で非生産的なだけであることは明らかだと思うのだが、犀川にとってはそれが理想的な、天才に相応しい職場に見えるらしい。

萌絵もまた、「このような内容の話を、単純に物理の問題として議論できるというのは、彼女が完全な理系人間であることを示している」(p.148)と評される。これは殺人事件が今まさに起こったという異常な状況でも冷静さを失わず論理的に考えることができることへの評言なのだが、しかしそれは普通「肝が太い」と言うのであって、知的志向が理系寄りであること(もっと有り体に言えば高校の時に数学の点数が良くて理系の学部に進学したこと)とは何の関係もない。「理系の人間」という観念がその実極めて文学的で情緒的な神話であって、それがこういうところで再生産され社会に蔓延るのだということがよく分かる、恐らくはそれがこの作品の唯一の美点である。


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