2023年07月06日 08:57

アナクシマンドロスのこと ― (4)クセノパネスへの影響

続き、そして最後。



学説

始元
クセノパネスについてDiog. Laert.では構成要素を4つとする説(9.19)が引かれているが、これはDK所収の他の資料には見当たらない。DKは始元ないし構成要素という言葉に関して以下の3つの説を伝える:
  • [a]一者(DK 21.A28(3.3-5), A29〔Plat. Soph. 242C-D〕, A30〔Aristot. Met. 986b18〕, A31(3), B23他随所)
  • [b]乾と湿(水と土)(DK 21.A29, A50, B29, B33)
  • [c]土(DK 21.A32, A36, B27)
まず[a]「一なるものは神である」という一者の説だが、この神は球状であり、全体で見聞きし思惟する(9.19; DK 21.A28(3.6-7), A31(9), B24等; cf. 1 Corinth. 12.12ff)が、しかし呼吸はしない(9.19)。永遠なものであり(9.19; DK 21.A28(3.8), A31(4), A33-34)、更に「無限でもなければ限界づけられてもいない」「動きもしないし不動のものでもない」(DK 21.A28(3.8-11), A31(5-8))……と殆ど否定神学にさえ見えるような表現が続く。

このうち、無限か限定的かについては諸説あり、キケロは無限(DK 21.A34)、擬ガレノス(DK 21.A35)とテオドレトス(DK 21.A36)は限定的、そしてアリストテレスに基づくであろう擬アリストテレス(DK 21.A28(3.8))及びシンプリキオス所引テオプラストス(DK 21.A31(5))はどちらでもないとする説を伝える(曰く「無限だとすると始めも中間も終わりも有たないことになるがこれは在らぬものである、また限定されたものは多なるものである」。完全にペリパトス化された説明である)。これはちょっといずれとも決し難い。

動くか動かないかについては、不動とする資料も少なくなく(DK 21.A33-36)、特に真正断片はそう伝える(DK 21.B26)。更に生成・消滅の否定(DK 21.A32-33, A49; 但し9.19)とも併せると不動を採りたくなるが、しかしこれは「個物は生成・消滅するがその始元或いは総体としての万有は一であり不動である(従って一者は動にして不動である)」、或いは「部分部分は変化するが全体は不変」(2.1、アナクシマンドロス)といった形で整合することも可能だろう。アナクサゴラスは混合体内の要素の(DK 59.B10, B17)、またエンペドクレスは四大の(DK 31.B8-9)混合・分離によって所謂生成・消滅を否定したが、クセノパネスもまた別のやり方で同じことをしたのかも知れない。但し、前二者と異なりクセノパネスは個物の生成について詳しく語らなかったようで、関連する断片は僅かでありしかも先述の通り矛盾し混乱している。これはクセノパネスの問題設定の特異さを物語るものと見るべきだろう。

さて以上のような混乱からテオドレトスは、クセノパネスが万有は一であり生成しないものだと主張しながら、「ところが他方ではこの言葉を忘れて」万物は大地から生まれるとも言った、と非難している(DK 21.A36)。しかしここまで相矛盾した所説が伝えられるのがそもそも異常である。これは恐らく学説の中での重点の置き方が他の自然哲学者と決定的に異なっていたことを示すもので、つまりテオドレトスの非難はイオニア派或いはエンペドクレスにおけるような始元の説と宇宙生成論を期待して読んだ者の躓きである。そこでアリストテレスはクセノパネスが自然学ではなく神学を探求していたと言い、またその理解の線上にあるシンプリキオスも、エレア派の主題設定を自然的事物の基本要素ではなく「真に在るもの」に見る(DK 21.A30-31; cf. 28.A7)。これは一応文句のない読みだと思うが、ただ[b/c]構成要素からの生成を欠いた[a]一者の説がアリストテレスによって「粗雑」の一と言で切り捨てられる(Met. 986b)ことには、躊躇いを覚える。

アリストテレスはエレア派の説をイオニア派自然哲学者のそれと比較し、「在るもの」が一つであるという主張を共通点とした上で、後者はこれを質料と見做し動を導入した、一方前者はこれを不動であるとした、と言う(ibid.)。この要約はアナクシマンドロスの特異性を照射するものだろう。アナクシマンドロスの無限は動(アナクサゴラスの知性)を導入されなければ生成を行わない単なる質料ではなく、それ自体が永遠の動を有する一者であった。エレア派から新プラトン主義を経てスピノザにまで線が引かれる概念がここで創出されていることになるが、ではそれが、クセノパネスの神にはいかに継承されたか。

まず、アナクシマンドロスにおける神観念について資料は2通りの説を伝える:
  • [A]無限は不老・不死・不滅である(DK 12.B2-3)。「神」の文字こそ見えないとは言え、「不老」と「不死」は人間(少なくとも生物)を前提とした言葉でまた慣用的にも神に冠せられるのだから、アリストテレスがこれを以て「無限なるものが神的なものであるとも考えている」(Phys. 203b6)と解釈したのは正当だろう。
  • [B]アエティオスは(無限自体ではなく、そこから生成・消滅する〔DK 12.A9〕ところの)「諸宇宙が神々である」という主張を伝える(DK 12.A17)。
しかし[B]は、キケロが直ちに「永遠的でない神など考えられない」と批判(ibid.)する通り、語彙の適用として難があるように思われる。やはり[A]宇宙や個物を産出する一なる始元を神と呼んだと考えたい。そしてその場合、[B]から予想される一種の汎神論とも異なる劃期的な神観念が現れることになる。

実際これは劃期なのである。七賢人は未だホメロス的・人格的な神しか知らなかった。禁忌と祭祀をうるさく語ったピュタゴラスですら、神の姿については疑わなかっただろう。ところがアナクシマンドロス以降「生成」という問題が発生した。神が生成したと考えるのは不合理であり、寧ろ万物を生成する始元こそ神の名に値する。ここから必然的な帰結として、宗教家と詩人の語ってきた人格神とは異なる、ロゴスによって構築されまた把握される全く新しい神というものが登場する――恐らくアナクシマンドロスが「生成」を語ったその瞬間に、アナクサゴラスがホメロスを哲学的に読み始めまた不敬罪で裁かれ、或いはソクラテスが処刑されプラトンがデミウルゴスを創造するまでの未来が一挙に定まったと言って良い。

尤もその端緒を開いたとは言え、アナクシマンドロス自身はそれ以上踏み込むことはなかった。真正断片から言えるのは飽く迄無限を「不老・不死・不滅」と形容したということまでで、自分の学説の要綱を公刊した(2.2)とされるにも拘わらず不敬を非難する言葉一つ伝わっておらず、ましてクセノパネスやヘラクレイトスのように通俗的な神観念を批判することはなかった。

Dielsはアリストテレスの「ただ彼は、天空全体に目を向けて、一なるものは神である、と言ったのである」(DK 21.A30)を踏まえ、クセノパネスの「神」を球状の「宇宙」(οὐρανός)と解する(DK 21.B23註1; cf. A37)。この解釈を受け入れるなら、アナクシマンドロスが、個物を産出する、従って個物とは異なる位相にある始元に神を見たのに対し、クセノパネスはより単純に宇宙 = 個物全体の集合を神と呼んだことになる。これは上述の[B]、キケロに論駁された神観念なのだろうか? しかしクセノパネスにおける生成論の欠落は、そもそも神 = 宇宙がそれを産出する始元を有たなかったことを想定可能とするように思える。しかも彼は、師の発見した「生成」という新しい問題を継承しなかった。理解しなかったのかも知れないし、単に関心がなかったのかも知れないが、恐らくクセノパネスにとっては「一なるものは神である」というテーゼさえ手にすれば十分だったのである。そしてこのことがまた、同時に多くの解釈者にとっての躓きの石ともなった。「……クセノパネスはあらゆることに関して行き詰まりに陥らせていたが、ただ、あらゆるものは一であり、この一なるものは、限界を有し理性を備え変化を容れぬ神である、ということだけは断定的に主張したのである」(擬ガレノス、DK 21.A35)という証言は、この間の事情を伝えるものだと思う。

これを「粗雑」と言って切り捨てるのは容易だが、しかし生成から切り離された一者というアイディアはパルメニデスの存在論を準備するものであり(cf. DK 21.A31; A35のセクストス・エンペイリコス『諸学者論駁』への註)、何よりアナクシマンドロスにおいて殆ど機械論的に語られていた「無限」という中性名詞に「神」の一語を宛てたことは間違いなくクセノパネスの独創である。その意味では新プラトン主義・スピノザ的な一者の元祖も寧ろクセノパネスに、或いはクセノパネスの継承した限りにおけるアナクシマンドロスにこそ帰せられるのかも知れない。しかもそこには「球状」という感覚的なイメージと、「全体で見聞きし思惟する」という人格的な能力までが賦与されている。ヘラクレイトスやアナクサゴラスに先立って、恐らくはギリシアで初めて、古き良き人格神に公然と喧嘩を売ったのもクセノパネスであった。


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