2022年10月28日 01:56

人はいちいち自分の感じたことを適切に表す語彙を探して使うなんて面倒な真似はしない

『ハイパーインフレーション』が面白すぎるため、昨年から俺にしては珍しくネット上で感想のようなものを漁ってみていて、何やら「社会復帰」しつつあるような気分にもなるし、いやそんな社会復帰は御免だとも思うのだが、ともあれ、このタイトルが一般名詞なので検索しづらいわけだ。



それでTwitter(いよいよ復帰したくない社会だが)で検索すると、流石そういう人種が集まる地域だけあってとりわけ更新のある隔週金曜には結構ヒットするんだけど、ところがどれもこれも、本当にノイズとしか言いようのないツイートばかりが出てくる。つまり「面白いけど人に勧めづらい」「勉強になるから教科書に載せるべきだけどショタがエロいから無理」「ゴールデンカムイみを感じる」の3通りしかないのである。過日LINEスタンプが発売されてからは「使い道がない」が加わった程度で、いずれにせよ何も言っていないに等しい、これらが全て別個の人格から発せられているとは到底信じ難い、まるで餌に群がる鯉のように口をパクパク動かしているだけだ、何ともはやSNSがもたらした語彙力の低下は目に余る(雑)とか思ってやがて見るのをやめた。

暇にかけては人後に落ちない俺が時間の無駄だと判断したほどなのだから、これは大したものである。実際『ハイパーインフレーション』に限らず、何らかの作品名に「全人類読んでほしい」「何食ってたら思い付くんだ」「~でダメだった」「(褒めてる)」といった文言を繋げてツイートするという作業を、飽きもせず延々続けている人が世には余りに多い。頭モブール人かよ。

とは言え、岩頸を見ても「カッケェ」、セーラー服を見ても「カッケェ」、救世主を想像しても「カッケェ」の一と言で済ますのは寧ろ普通のことなのである。例えば谷崎潤一郎は『文章読本』で、『更級日記』の一節を引き次のように言っていた:

足柄山はどんな山かと云ふと、「おそろしげにくらがりわたつた」山であると云ふ。さうして、「えもいはず茂りわたりて、いとおそろしげ」であるとか、「まいて山の中のおそろしげなる事いはむかたなし」とか、山を述べるのに「おそろしげ」と云ふ言葉より外知らないかのやうである。
(……)
此の時分の人は、「めでたし」とか、「おもしろし」とか、「をかし」とか云ふ簡単な形容詞をいろいろな意味に使ひ分けた。

文脈を無視した引用で権威を笠に着ているといった下らぬ誹りは免れたいので一応補足しておくと、谷崎はこれを「古典文の精神に復〔かへ〕れ」というポジティブな意味で言っている。つまり日本語は古来より「言葉の数が少い」、「われわれの国語の構造は、少い言葉で多くの意味を伝へるやうに出来てゐるので、沢山の言葉を積み重ねて伝へるやうには、出来てゐない」と指摘し、その上で日本語の「改良」の提言へと論を繋いでいる(この最後の引用文がまさに同じことを2度「積み重ね」た、谷崎らしいうねうねとして冗漫な書きぶりなのは面白いが)。まあこういう考え方は昔からある。「一詞に多くの理を籠め、現さずして深き心ざしを尽す」(『無名抄』)のが幽玄なのである。

しかし「簡単な形容詞」の頻用・濫用は別に日本の古典文に特有のことではない。現代において「ヤバい」なんかはまさにそうだし、それ以前も、今の女どもは何でも「可愛い」と言うとか、英語であれば若者が何かにつけてawesomeと言うなんて指摘は、しばしば「最近の若者の語彙力の低下」に対する慨嘆とともに発せられてきた。「(笑)」から「w」を経て発生した「草」というネットスラングも、昨今では取り立てて笑うべき要素がない場面で、謂わば単に「自分は何かを感じた」という情動の表明として(としか解釈できない安直さで)使われるのを目にするようになった。要するに大抵の場面において、人はいちいち自分の感じたことを適切に表す語彙を探して使うなんて面倒な真似はしないのである。

言語の発生を求愛行動、威嚇、危機の共有といった必要によってダーウィニズム的に基礎づけるならば、原初的な言語はまずそれが発せられることに価値があるのだから意味内容を云々するのは的外れであろうし、或いはもう少し複雑で高度な発話も詰まるところ脳内に蓄えられた例文の主にパラディグマティックな組み換えであることは、言葉を習得しつつある子供を観察しても自分が外国語を学習しても首肯される。この間の事情については、吉本隆明『言語にとって美とは何か』の原理的な考察が未だに有効だと思う。原始人が海を見て発した「う」という叫びはまず単純な現実反射であるが、次の段階で「類概念を象徴する間接性」を有する指示表出の機能を獲得する。更に第3段階で「海(う)」は「眼前の海を直接的にではなく象徴的(記号的)に指示する」言語となる。

ここに敢えて些かの補足を提案するなら、「海」という名詞に先立つ第2の段階は形容詞であるに相違ない。例えば「悲しい目」とは悲しんでいる者の目なのか、その目を見る者が悲しく感じるような目なのかは、多くの言語においてしばしば曖昧である。語源を辿るならお化けを見た時の感情が「恐ろしい」でお化け自体は「怖い」ものである筈だが、そんなのはとっくの昔にごっちゃになっている。こうして形容詞は、有節音「う」が名詞「海」になる前の主客未分化の状態を保存している。

だから、無内容なツイートもそう馬鹿にしてはいけない。何かを見て何かを感じたら、「カッケェ」でも「おそろしげ」でも、或いは「アツい」でも「尊い」でも「よき」でも何でも構わないが、とにかく動物の鳴き声や感動詞から一歩だけ進んだ形容詞を発するのが普通の言語活動なのである。それを馬鹿にする謂れは何もない。胸を張って鳴けばよろしい。ただ、俺はそれをいちいち読みたいと思わないだけである。


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