2023年03月06日 03:14

アナクシマンドロスのこと ― (3)アナクサゴラスとの差異

続き。



もう少し学統を順に追って、今度はアナクサゴラスを見て行く。

学説

始元
同質素(ホモイオメレイア)を始元であるとし、更に運動の始元として知性を導入した、というのがDiog. Laert. 2.8の伝える学説である。アナクシメネスまでの自然哲学者たちが語ってきた素材の一元論に対して作用因を立てたことは少なくともアリストテレスにまで、またそこで使用された「知性」という概念ないし用語は少なくとも新プラトン主義にまでインパクトを残し、或いは有名な著作冒頭:

あらゆるものが渾然一体としていた。それから知性がやって来て、それらを秩序づけた。(2.6)

は、カオスとコスモスのダイナミクスという多かれ少なかれ通俗的なギリシア的宇宙生成観に哲学的表現を与えたと評価できるだろう。

さてこの同質素について、Diog. Laert.は例によって何の説明も与えていないのだが、例えばシンプリキオスは「一なる混合体から数量において無限な同質素が分離してくる」(DK 59.B1)、「個々の感覚物としての同質素は同質的なもの同士の結び付きによって生じ、それとしての特質を現す」(DK 59.B3)と説明している。つまり「一なる混合体」・「渾然一体」・原初の混沌が同質素に先行して存在してしまっており、これだと同質素を始元と呼ぶことには難があるように思われる。一方アエティオス(DK 59.A46)は栄養の摂取を例に取り、「パンを食べても肉や骨が育つのは前者の中に後者と同質のもの(同質素)が含まれているからである、そこでアナクサゴラスは同質素を個物の(素材的な)始元と呼んだ」と説明している(なお同じ例はシンプリキオスもDK 59.A45で挙げている他、Diog. Laert.の引くシノペのディオゲネス『テュエステス』の説〔6.73〕もこれと無関係とは思えない)。

両者の説明は喰い違っているが、こう解釈するべきだろう:DK 59.Bの断片を読む限り、アナクサゴラスは混沌からの個物(宇宙)の生成を主に語っており、シンプリキオスの説明は概ねそれに沿っている。同質素は、Diog. Laert.の雑駁な学説紹介にあるような始元というより、寧ろ混沌から生成した個物なのである。一方アエティオスの説明は、分かりやすくはあるのだがその実例えばアリストテレス(Met. 983b6)がタレスに対してやったような心理主義的忖度で概念の成立を解こうとする試みに過ぎず、アナクサゴラスの本来の所説には見られない。つまり「同質素が始元である」という解釈自体がこうした学説史的な整理の過程で生まれたものと思われる。更に言うなら、同質素という概念・用語自体にしてからが断片には登場せず、アリストテレスが抽出し命名したものである可能性がある(DK 59.A45註参照)。とするなら、ここで「同質素は始元であるか」「同質素とは何か」という問いを立てることは危険であり、慎重を期するなら、同質素とはアリストテレス以降の資料を通じてアナクサゴラスの学説を理解するための補助的概念という程度に留めるべきだろう。

まとめると、次のようになる:全てのものが全てのものに混在しており、その中で或る要素・特性が寄り集まって優勢を占める = 混合状態から分離することで、同質素或いは個物が生成する(DK 59.A41-42, A45)。つまり変性(要素の変化)という意味での生成は否定されており、混合体に既に内在していた要素が分離する動きがあるだけである(DK 59.B10)。正確に言うなら個物は生成・消滅せず、混合(凝固)・分解するだけである(DK 59.B17)。従って同質素はそれ自体としては生成・消滅せず、永遠に存続する(DK 59.A41, A43, B5; なお生成と混合についてはエンペドクレス、DK 31.A34, A44, B8-12, B15-17, B21を参照)。

ここで、「同質素」と「個物」の境界は曖昧であり、また恐らく重要ではない。例えば肉は肉的要素が優勢を占めた同質素、骨は骨的要素が優勢を占めた同質素だが、それら非同質的なもの(DK 59.A45)の結合によって人間という個物が出来るのではない。人間の種子にはもともと肉的要素と骨的要素が含まれおり(まるで多能性細胞のようだ)、この種子が分離(分化)した結果が肉や骨を含む人間であるというに過ぎない。別言すると、「肉や骨」と「人間」とは分離のプロセスにおいて異なる扱いを受けるものではないし、概念として位相を異にするものでもない(従って、同質素という概念を必ずしも導入する必要はない)。そして更に、混合体と同質素・個物の間も、質的な生成ではなく、優勢を占める(DK 59.A41)・最も多く含まれる(DK 59.B3)という量的な遷移があるだけである。「原初においてと同じく、今もまた全てのものは渾然一体としてある」(DK 59.B6)。

ところでシンプリキオスは、同質素は万物を内在的に含むゆえに「ただ無限であるのみならず、無限が無限倍化される」(DK 59.A45)と言う。これはシンプリキオスの読み込みだろうが、論理的に純化すれば確かにこのような構造が現れるので、なかなか面白い。

次に、知性は混合体に回転運動を与えることで同質素の分離を行うものである(DK 59.A41, B12-13)。存在するもののうち唯一単一的・非混在的・純粋であり(DK 59.A100, B12)、作用を及ぼすが自らは作用を受けないためアリストテレス的には不動の動者とも解される(DK 59.A56)。分離なるものを、混沌に対する秩序化・地 = 図化(DK 59.B7)と捉えるなら、確かにこれを知性と名付けるのは理に適っているだろう。Plut. Perl. 4は「万物に秩序を与えている原理は、他の全てのものが混合している中から同質素を判別する純粋な知性である」と要約している。

ではその知性とは何か、混合体とはどのような関係にあるのか。例えば「それから知性がやって来て、それらを秩序づけた」(2.6)も、「最初に回転を与えたのも知性であった」と言う断片12も、これを宇宙開闢という歴史的・一回的な事態として語っている。シンプリキオスの引くエウデモス(DK 59.A59)はこの点を批判しているし、シンプリキオス自身もアナクサゴラスは「宇宙製作の始まりを想定している」(DK 59.A64)と解釈する。始元と生成のメカニズムを無時間的な原理として捉えようとする限り、これは正当だろう。しかしまた、シンプリキオスの引くテオプラストス(DK 12.A9a, 59.A41)は、混合体をアナクシマンドロスの無限なものと同一視している。この解釈の正当性についてはまた別途検討を要すると思うが、仮に同一と考えると、アナクシマンドロスとアナクサゴラスの差異が、従ってアナクサゴラスが知性を導入した意味が明確化できるように思える。

すなわち、まずアナクシマンドロスにおいては始元が自ら永遠の動を続けるものとされているが、この動に関しては説明が与えられていなかった。始元に含まれる対立的要素がその本性により分離する(例えば水を火にかけると水蒸気になって火から離れて行く、冷えたものに熱いものを近付けると冷が逃げて行く、等)とでも考えるのが妥当かと思うが、とにかくそうした資料はなく、「必然に従ってなされる」(DK 12.B1)というのが最大限の説明だった。別の言い方をするなら、始元が永遠の動を有するという「定義」のため初めからこの問題が存在しないのである。これに対してアナクサゴラスは、動(回転運動)を与える始元として知性を導入した、或いはアナクシマンドロスにおいて暗黙的に前提されていた動の原因(例えば要素の本性)を、知性として明示的に原理化した――こう解釈すると、アナクサゴラスは、アナクシメネスと言うよりアナクシマンドロスの正当な継承・発展者として立ち上がってくる。


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