2023年03月16日 01:43
伊坂幸太郎『砂漠』、命名という暴力などについて
2015年11月に書いたものに少し加筆修正した。
2005年刊、文庫版2010年。「砂漠に雪を降らせる」云々という青臭い人生論をぶつ西嶋と、「みんな必死すぎないか、とどこかさめた気持ち」を抱いていた「僕」の成長とを軸に、ボウリングと麻雀の日々、超能力、パンクロック、通り魔「プレジデントマン」の事件、恋、キックボクシングとの出会いといった出来事をちりばめながら進行する、大学生たちの青春群像。この著者はミステリ作家として有名で売れているらしくて、売れるからには一定の面白さは保証されるだろうと思って読み始めたのだが、幾ら読み進めても全く引き込まれない。若者同士の「軽妙」な会話がただただうそ寒い。群像劇なのにどいつもこいつも作り物じみていて、とりわけ西嶋はいかにもこういう青年がいたら魅力的でしょうと言わんばかりでうんざりする。女も、南は「夜の繁華街のビルの中にもかかわらず、彼女だけが陽だまりにいる雰囲気だった」(p.11)と鳥肌の立つようなクリシェで描写され、また東堂は能面のような無表情の美女でワンピースなんぞを着ていて、いずれも見事に「男から見た女」で、きつい。更には:
そういえば、はじめて東堂に会った時に鳩麦さんは、「東堂という名字だから、ものすごく記憶力が良かったりして?」と言った。僕にはその意味が分からなかったけれど、東堂にはぴんと来るものがあったらしく、「ええ。『忘れました』とは絶対に言いません」と答えていた。おそらく何らかの映画か小説に出てくる人物の話なのだな、とは想像がついたけれど、詳しいことは分からない。(p.275)
と、スットボケたようなカマトトぶったような『神聖喜劇』に関するくすぐりが出てきて本気で嫌になった。
小説作品として丁寧に作られていることは分かるし、それなりに「感動的」な場面もあり、最後まで読むと面白くなくはないが、取り立てて感心もしない。何しろ長すぎる。作中に:
小説作品として丁寧に作られていることは分かるし、それなりに「感動的」な場面もあり、最後まで読むと面白くなくはないが、取り立てて感心もしない。何しろ長すぎる。作中に:
以前、西嶋が教えてくれた、「売れる、小説の条件」と奇しくも一致する。ユーモアと軽快さと、知的さだ。洒落ているだけで、中身はない。(pp.283-284)
という一節があるのだが、もし作者がこの作品自体はこの否定的な評言に該当しないと思っているのであれば少なくとも「中身」はあると自負していることになり、だとするとその「中身」とは愚にもつかない実存的メッセージと考える他ないわけだが、残念ながらそれが俺の胸には一向響かない。
語りの詐術(らしきもの)
さてこの小説は「春」「夏」「秋」「冬」、そしてエピローグとしてまた短い「春」という5章に分かたれていて、普通に読み進めると春に大学に入学してからの1年間を描いているように思えるのだが、ところが最後の最後、大立ち回りが演じられいかにも盛り上がるクライマックスの場面で鳥居が「腕をなくして、半年くらいリハビリして」「ジムに通って、一年半だ」(p.516)と発言し、続けて「僕」も「頭の中に、大学に入学してからの記憶が、一気に噴き出」(p.520)し4年間の出来事を振り返る。いつの間に4年も経っていたんだ、雑に読んで見過ごしていたのかと読み返してしまったが、結論から言うとこれは「語りの詐術」であるらしい。すなわち、ものすごく煩瑣ではあるが(だから読み飛ばしやすいようにフォントサイズを小さくしておくが)、書いておくと:
- 初めの方に「学生生活なんてまばたきする間に終わっちゃうぞ(……)春にはじまり、夏が来て、秋が過ぎたら冬、一年なんてすぐだぞ」(p.20)という一文があるのは、目次を見た上で今からこの長編を読もうとしている読者に、小説の全体が1年間の出来事だと思わせる誤導だろう。
- この大学では卒論だけでなく「一年目の終わりにも論文を出すことが義務づけられている」(p.96)、という設定は、(本当にそういう大学があるかどうかは知らないが)明らかに「冬」で「みんな、論文を書き終えた」(p.400)という一節への言い訳として持ち出されている。つまり読者が一般的な通念に従って「論文を書き終えたということは主人公たちは4年生なのだな」と推測しないように、わざわざ300ページ前から仕込みをしている。
- 続けて西嶋が「来年もまた大学に通っている以外、決まってないですよ」(同前)と言うのも、彼だけが卒業せず留年した(p.524)ことが明らかになってから読み返されることを期待しているようである。
- 「春」の末尾に「僕の大学一年の春の出来事は(……)だいたいこんな感じだ」(p.140)とあるが、以後は2年の夏とも3年の秋とも言うことを慎重に避けている。
- 「夏」の初めで、鳥井はいつの間に免許を取ったのかと訊かれ「最短コース」(p.142)と強調し、時期を明言することを避ける。
- 「秋」で、文化祭は「三年生が中心なんだけど、一、二年も何人かいる」(p.279)、と莞爾が言うが、自分たちが何年生かという言及だけは避けられており、寧ろ1年生であるように読める。
- 「不要なことは述べないので、七月の次が九月の話になる可能性もある。今年のエピソードを喋ったら、次は翌年の出来事、なんてこともあるかもしれない」(p.158)――言い訳と言うならこれが最大の言い訳だろう。「七月の次が九月」のような事例は実際には存在せず、寧ろ「海に行った翌々日」(p.157)とか「半月ほど経った、九月の中旬過ぎ」(p.217)とかいった具合に、かなり律儀に時間経過が報告されている。
- 時間経過に関する言及は他にも色々あるが、明らかに誤導的なものが少なくない。長谷川選手が「ついこの間まで、名ショート、と評されていたのに」(p.152; cf. p.77)、「夏」の空き巣事件について「秋」で「驚くほど日は経っているのに」(p.262)、「春」から言及されていたプレジデントマンについて「冬」で「これだけ長期間」(p.413)、更に末尾に近付くにつれて「どれだけ時間が経ってると思うのだ」(p.463)、「本当に時間がかかった」(p.476)といった言い回しが頻出する。
つまり作者が意図して「語りの詐術」を仕掛けているとしか解釈の仕様がないのだが、ところが困ったことに、その意味が俺にはさっぱり分からない。なぜそんな仕掛けをする必要があるのか、それによって何が面白くなっているのか、どのような作品的価値が生まれているのか、びっくりするくらい理解できない。敢えて探すならば、南が超能力で車を動かせるのが4年に1度であるらしい(p.49, 521)という設定が一応それに関わってくるものだと思うが、しかし初めの方でその設定を与えられた読者が「これは4年後に南が超能力で車を動かすための伏線に違いない」「4年後と言えば彼らは大学4年生になっている筈だ」「それは結末に当たる『冬』の章だろう」――と推測するものと想定され、そして作者はその裏をかくためだけにこんな手の込んだ真似をする必要があった、のだとしたら何ともご苦労なことだし、それをやるのがミステリ作家というものだとするなら随分報われない仕事だと思うばかりである。
携帯電話の扱い
他にも気になる点は幾つかある。例えば2005年時点の大学生としては異例なことに「僕」は携帯を持たず宅電に頼っており、また彼を含む主要人物たちが携帯を使わない理由がああだこうだと説明されている(p.160ff)。携帯電話自体は登場しているし、また後には主要人物たちも携帯を持つようになるものの、ではこの一連の饒舌には何か作品構成上の意味があるのかと言えば、何もない。全員が最初から最後まで携帯を持っていても、または持っていなくても、恐らくはこれと全く同じ事件を展開し、同じ感情を描出することができる。アシュタサポテの電話論が2000年4月に書かれていることを考えるとこの作者のボンクラっぷりがよく分かり、読者は「またも『都合いいよな』と呟かされる」。
命名という暴力
一番気になったのはこの作者が作中人物の人名で遊んでいることだ。姓に東西南北の字を含む4人がたまたま同じクラスになったことは作中でも驚くべき偶然として扱われており(p.31)、また彼らが麻雀にかこつけて群れる機縁となるという物語上の意味もあるのだからまあいいとしよう。しかし作者は、「幹事役の莞爾」、やませみのような頭で文鳥を飼っているのが鳥井、或いはキックボクシングのチャンピオンは(実在の)サックス奏者・阿部薫と同じ名前、ホストの礼一の本名は佐藤一郎という「地味っていうか、『普通』の極北みたいな名前」(p.214; p.449)、といった具合に、どうでもいい部分でもいちいち名前に意味を持たせたがる。
昔読んだ入間人間『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』というラノベに「菅原道真」という生徒会長か何かが出てきて、それが歴史上の菅原道真と同名だから面白い、みたいな扱いを作中でされていて俺は呆れ返った。そりゃ作者というのは自分の作品内で絶対的な権力を有するものだから、作中人物にも好きな名前を付けて好きに動かすことができるわけだが、そうして嬉々としてお人形遊びに興じる作者に付き合わされる読者こそ良い面の皮で、分かった分かった、あとは勝手にやっててくれ、としか言いようがない。
命名という行為は常に権力関係を孕んでいる。ペットや子供や奴隷には好きな名前を付けるし、あだ名はしばしばいじめの温床となり、そのため現代の学校や職場では禁止されることも多い。真の名を知ることが支配権の掌握につながるという数多の説話の存在もこれを裏付けている。「命名という支配権は、言葉そのものの起源を支配者の権力の表れと解して差し支えないほどである」(ニーチェ『道徳の系譜学』)。
最も分かりやすいのは地名だろう。フィリピンはスペイン王の名にあやかったものだし、アメリカはブラジルを通りかかった探検家の名に由来する。ニューヨークやニュージーランドやノヴァスコシアはなぜ「新たな」と付くのか。コートジボワールはなぜ「象牙海岸」という意味のフランス語なのか。アレクサンドリアとかイスカンダリーヤとかいった都市がなぜ中東のあちこちにあるのか。或いはミシシッピ湾がどこにあるか、あなたは知っているか。ミシシッピ州にはない。神奈川県である。ペリーが来航してそう名付け、以来居留地の外国人がそう呼んでいた。今では根岸湾というが、ひとつ間違えば横須賀をとっかかりに日本の各地が英語の地名に変わっていた可能性があることは、日本人として心に留めておくに値しよう。田中克彦は日本人がアイヌ語の地名に無茶苦茶な当て字をしてアイヌの痕跡を消し去ったことを糾弾的な口ぶりで指摘しており(『ことばの自由をもとめて』所収「法廷にたつ言語」)、戦後知識人の面目躍如たるところと感じ入る次第だが、とは言え音はどうにかこうにか保存されたのだから、単語レベルで総とっかえする遣り口に比べれば随分マシではなかろうか。……
さてその一方、作者は作品世界を創造するに当たってその内部では自由に名前を付与することができる。命名という暴力の快楽を思うさま享受できる、と言ってもよい。前近代の物語においてそれはとりわけ露骨で、それこそ桃から生まれれば桃太郎だし、或いは「心中でもしようてんなら粋な名がついてる、六三郎だとか半七だとか言って」(「小言幸兵衛」)という具合に特定の名前が特定の人物類型と結び付く。これに対し敢えて無意味でありふれた名を選択することで作為的な操作の主体としての作者が姿を消し去るのが、英雄ならぬ平凡な主人公が市民社会の一個人を表象 = 代行する近代小説という仕掛けであった。ここで選択という操作は、裏返しにして排除であっても構わない。なぜ現代の小説家は、例えば安倍晋三というそれ自体としてはこれといった特徴のない名を主人公に付けないのか。それは第一義的には、主人公が殺人犯だろうが政治家だろうが、芸術家だろうがコンビニ店員だろうが、とにかく描きたいと思うその人物に安倍晋三と名付けた途端、読者は「あの」安倍晋三を不可避的にイメージしてしまい、作者が望んだわけでもない「意味」が発生してしまうからである。そこで大概の作者は安倍晋三という名を排除するという作為的な操作によって巧妙に姿を消して生き延び、隠微な暴力行使の道を選ぶわけだ――とまあ一と先ずこれだけの常識を顧みれば、小説の人物名に意味を有たせることには相当の配慮と戦略が必要な筈である。
ところがこの伊坂という作家はどう見ても、単にそうした作り込みがしてある方が楽しいという程度の菅原道真式の判断に基づきのほほんとこれを書いているわけで、こういう鈍感さが俺には本当に我慢がならない。もう一つだけ例を挙げると、腕を切断する夢が現実のものとなる(p.153, 206)という展開についても同じことが言える。詳述はしないが、小説において作中人物が夢を見たり未来を占ってもらったりすると、それは当たろうが外れようがとにかく何がしかの「意味」を持ってしまうという問題があるのだ。
その他せいぜい褒められるところ
超能力の扱いは美点と言っていい。つまり単に超能力が実在する・しないではなく、「スプーンを曲げることが出来たところでそれが何の役に立つのか」、或いは「それが嘘・トリックであったとしても、悪意のない嘘を皆で寄ってたかって糾弾することは許されるのか」といった社会的乃至倫理的な広がりの中で捉え、そこから作品のテーマが立ち上がるようになっている。そのため現代日本の平凡な大学生活という舞台に一点だけSF的要素の異物を導入することが、作品論的な必然に導かれた設定たりえている。
それから、この小説にはほのかに村上春樹の匂いがするのだが――例えば三島由紀夫の演説(p.259ff)を冷笑的に遇するのではなく西嶋の一本気な熱意を対置し肯定するのは『風の歌を聴け』へのアンサーと読むことも出来るし、そう考えると保健所のシェパードを巡る会話(p.276ff)もなんだか『風の歌を聴け』を想起させるし、やませみやいぼいのししといった微妙なタイプの動物に言及したがる癖も村上(或いは村上を経由した大江)的に思えるのだが、但し猫は出てこなくて、そこだけはほっとした。
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