2023年05月15日 05:41
小出もと貴『サイコろまんちか』 ― 工学的心理学と陰キャの青春
2019年2月から6月頃に断続的に書いたものを整形。個人的なメモ書きはそのまま公開しても他人には読解できないんじゃないか、という当たり前のことに今更気付き始めた。
工学的心理学
迂路から入る。以前高倉みどり『平松っさんの心理学』(2016-18年、全3巻)というマンガをたまたま読んだ。仕事に恋に悩みを抱える新人・池田君に、一見ダメリーマンの先輩・平松が心理学を応用したテクニックを伝授する、それが功を奏し一件落着、一話完結お悩み解決という、まあそんな感じの作品だった。
マズローの欲求の5段階説とかいう眉唾な心理学に頼らずともわかることだが、群れで生きる人間という種にとって身の安全がどうにか保証されたら次に来るのは社会的な問題、人間関係のお悩みと相場が決まっている。仏教には怨憎会苦という言葉があって、会いたくない人と会わねばならぬ苦しみという意味なのだが、そんなものをお釈迦様の時代から四苦八苦の一つに算え入れていたとは誠に難有い限りで、ことほどさように社会的動物という人間の本質は変わらない。
言うまでもないことだが、人間関係の悩みを魔法のように解決する方法なんてものは存在しない。なぜなら人間関係の悩みとは詰まるところ「他人が自分の思うように動かない」ということで、ところが他人とは定義上自分ではないものである以上、思い通りに動かないに決まっているからである。しかしどうにかしたいという欲求は切実なので、こうすれば上手く行きますよと囁く者は後を絶たず、それは宗教家であり詩人でありメンタリストであるわけだが、その一族の末裔が工学的心理学の徒ということになろう。
ここで工学的というのは、人間の心理を或る条件下での特定の入力が必ず特定の出力をもたらすものと捉え、従ってその機序を理解すれば望んだ通りに取り扱うことができると考える態度、という程度の意味である。モラリストと呼ばれる著述家たちが残したごく主観的な観察に基づく警句や箴言に比べてそれが本当に科学的と呼べるかは措くとして、俺は別に心理学という学問を貶めるつもりはないで言っておくと、仮に心理学が学問であるならば、この手の似非心理学に惹かれる心理の方がまだ学問の対象とする甲斐があると思う。
マズローの欲求の5段階説とかいう眉唾な心理学に頼らずともわかることだが、群れで生きる人間という種にとって身の安全がどうにか保証されたら次に来るのは社会的な問題、人間関係のお悩みと相場が決まっている。仏教には怨憎会苦という言葉があって、会いたくない人と会わねばならぬ苦しみという意味なのだが、そんなものをお釈迦様の時代から四苦八苦の一つに算え入れていたとは誠に難有い限りで、ことほどさように社会的動物という人間の本質は変わらない。
言うまでもないことだが、人間関係の悩みを魔法のように解決する方法なんてものは存在しない。なぜなら人間関係の悩みとは詰まるところ「他人が自分の思うように動かない」ということで、ところが他人とは定義上自分ではないものである以上、思い通りに動かないに決まっているからである。しかしどうにかしたいという欲求は切実なので、こうすれば上手く行きますよと囁く者は後を絶たず、それは宗教家であり詩人でありメンタリストであるわけだが、その一族の末裔が工学的心理学の徒ということになろう。
ここで工学的というのは、人間の心理を或る条件下での特定の入力が必ず特定の出力をもたらすものと捉え、従ってその機序を理解すれば望んだ通りに取り扱うことができると考える態度、という程度の意味である。モラリストと呼ばれる著述家たちが残したごく主観的な観察に基づく警句や箴言に比べてそれが本当に科学的と呼べるかは措くとして、俺は別に心理学という学問を貶めるつもりはないで言っておくと、仮に心理学が学問であるならば、この手の似非心理学に惹かれる心理の方がまだ学問の対象とする甲斐があると思う。
何が違うのか?
扨て前置きが長くなったが『サイコろまんちか』(2014-15年、全3巻)である。陰キャぼっちの女子高生・伊東が、幼馴染の阿部の心を射止め青春を謳歌するべくこれまた心理学のテクニックを駆使して悪戦苦闘する、ということで、舞台を高校に変えただけの『平松っさん』のように見える。実のところ俺も、タイトルと表紙から内容が全く見当がつかない状態で手に取って、そしたら目次に「ハロー効果」「プライミング効果」「同調」……と並んでいてなんだそういうやつか、じゃあやめよう、と思ったのである。大体、工学的心理学を創作のネタ、ガジェットとして使うこと自体が既にありふれている。「これはフット・イン・ザ・ドアという心理学を応用したテクニックだ(ドヤァ」なんて展開はマンガだけに限ってももう何回見てきたか分からない。ところが読んでみると、非常に面白い。『平松っさん』と同じ題材を扱っていると言うのに、ここまで違う作品が生まれるということには殆ど奇異の念を抱く。では、何が違うのか。
例えば『平松っさん』は、キャラに魅力がない。ここでは心理学ネタがガジェットであると同時に一作の主題でもあるため、池田という主人公はそれを行使するために動く物語上の駒に過ぎず、従って彼が上司に叱られようが心理学で挽回しようが、読者としては同情もしないし一緒に喜ぶわけでもない。単にそういう役回りのキャラなんだな、と思うだけである。平松も「普段は冴えないあのおっさんが実は!」という痛快感があるわけではなく、寧ろ「説明的なト書きの隣にいつも付いているおっさんのイラスト」にしか見えない。とは言え、それは別に作品的な瑕疵ではない。何しろ手塚治虫からして登場人物を物語の駒として使うタイプの作家だったわけだし、実用的知識の解説と伝達を目的とした一群の作品が商業的な一ジャンルとして立派に成り立っているという事実はわが国のマンガ文化の豊穣さを現しているが、その場合必要以上にキャラが立ってはいけないというのは寧ろ作品論的な要求である。そして、それなのになぜ『平松っさん』は面白くないのか。
『平松っさん』は商業作品として非常に上手かった。例えばトイレの個室に入ろうとしている平松をドアに足をかけて引き止めるという場面がフット・イン・ザ・ドアの説明に繋がる、正方形に4分割の仕切りを入れた弁当箱をジョハリの窓の説明に使うといった、行動や形状という視覚的表現を絡めることで心理学の概念をシュガーコートして説明するのは、技法的には当たり前と言えば当たり前だが、それを毎度そつなく着実に使いこなすのはやはり職業マンガ家としての上手さである。それに比べると『サイコろまんちか』は、作品的にとは言わないが少なくとも商業的な巧みさの観点で遅れをとっていると評価するのが妥当で、例えば顔芸で笑いを贖おうとして画力が追い付いていないコマなどを見ると残念に感じるわけだが、それでもなお、『平松っさん』より面白い。それはなぜか。
例えば『平松っさん』は、キャラに魅力がない。ここでは心理学ネタがガジェットであると同時に一作の主題でもあるため、池田という主人公はそれを行使するために動く物語上の駒に過ぎず、従って彼が上司に叱られようが心理学で挽回しようが、読者としては同情もしないし一緒に喜ぶわけでもない。単にそういう役回りのキャラなんだな、と思うだけである。平松も「普段は冴えないあのおっさんが実は!」という痛快感があるわけではなく、寧ろ「説明的なト書きの隣にいつも付いているおっさんのイラスト」にしか見えない。とは言え、それは別に作品的な瑕疵ではない。何しろ手塚治虫からして登場人物を物語の駒として使うタイプの作家だったわけだし、実用的知識の解説と伝達を目的とした一群の作品が商業的な一ジャンルとして立派に成り立っているという事実はわが国のマンガ文化の豊穣さを現しているが、その場合必要以上にキャラが立ってはいけないというのは寧ろ作品論的な要求である。そして、それなのになぜ『平松っさん』は面白くないのか。
フットインザドア、ラポールの構築、ハロー効果といった技法は今どき誰でも知っている。昔、ビジネス書みたいのを読んでいたらチャルディーニ『影響力の武器』の説明が出てきて、そしたら最後に「このテクニックはもうすっかり人口に膾炙している、だから使おうとしてバレると不信感を抱かれるだけだ、とは言え自分が使われる場面を想定して予防的に知っておくことは必要である」とかなんだか切ない結論に至っていて「とほほ」とか思ったもんだけど、『平松っさん』もこのビジネス書と同じように実用性を志すからには、1巻8話で「それって営業マンなら誰でも知ってる 前提挿入の営業トークだよね?」と身も蓋もなく指摘されるという展開が描かれる。ところがまた『サイコろまんちか』でも2巻13話でエンタメ心理テストの眉唾ぶりが主題化して扱われ、1巻のおまけページの4コマでは「知れ渡ることで効力を失う心理テクニックもあるだろう」云々と言われていて、その程度の目配りは流石に怠っていない。
或いは、嘗てマルクスは機械を、動力を供給する原動機・その動力を分配し伝達する伝動機構・動力によって労働対象を把握し変化させる道具機という3つの部分から成るものと定義したが(『資本論』1巻15章、S392)、この入力 / 処理 / 出力という段階論は知的労働にも適用が可能である。そして人間の知能と同じ働きをするように組み立てられた機械が計算機なのだから、例えば昨今ではAIがデータを学習し(入力)、中間層で判断や推論を行い(処理)、任意の問に対する解を出す(出力)ことで、世のホワイトカラーの仕事が奪われるという話にもなる。知的労働が工学的な過程として捉えられ定式化されるようになった、と言ってもよい。これは芸術の分野にも夙に波及し、ポオは『構成の原理』(1846年)で詩が「数学の問題のように」理知によって組み立てられたものであることを示してロマン主義の神話を挑発し、また天才の閃きよりも地道な労働を要求する小説という世俗的様式が詩に代わって言語芸術の代表のような顔でのさばり始めた。当然マンガの制作もその延長線上にあるので、『平松っさん』も『サイコろまんちか』も、適当な心理学ネタを見繕い(入力)、物語というフォーマットに落とし込めば(処理)、一丁上がり(出力)という同じ工学的な過程によって作られている。
そしてどちらの主人公も、仕事なり恋なりで上手くやりたいという現世利益的な欲望を満たすためのライフハックとして工学的心理学のテクニックを採用するのだから、所謂キャラの動機づけという観点でも何も違うところはない。同じネタを扱い、同じプロセスを経て制作され、同じ動機をもつキャラが同じような物語を展開する。では一体何が違うのか。ここでやっとわれわれは長い迂路を抜け、初めから分かりきっていた結論に辿り着いた。作品が違うのだ。
或いは、嘗てマルクスは機械を、動力を供給する原動機・その動力を分配し伝達する伝動機構・動力によって労働対象を把握し変化させる道具機という3つの部分から成るものと定義したが(『資本論』1巻15章、S392)、この入力 / 処理 / 出力という段階論は知的労働にも適用が可能である。そして人間の知能と同じ働きをするように組み立てられた機械が計算機なのだから、例えば昨今ではAIがデータを学習し(入力)、中間層で判断や推論を行い(処理)、任意の問に対する解を出す(出力)ことで、世のホワイトカラーの仕事が奪われるという話にもなる。知的労働が工学的な過程として捉えられ定式化されるようになった、と言ってもよい。これは芸術の分野にも夙に波及し、ポオは『構成の原理』(1846年)で詩が「数学の問題のように」理知によって組み立てられたものであることを示してロマン主義の神話を挑発し、また天才の閃きよりも地道な労働を要求する小説という世俗的様式が詩に代わって言語芸術の代表のような顔でのさばり始めた。当然マンガの制作もその延長線上にあるので、『平松っさん』も『サイコろまんちか』も、適当な心理学ネタを見繕い(入力)、物語というフォーマットに落とし込めば(処理)、一丁上がり(出力)という同じ工学的な過程によって作られている。
そしてどちらの主人公も、仕事なり恋なりで上手くやりたいという現世利益的な欲望を満たすためのライフハックとして工学的心理学のテクニックを採用するのだから、所謂キャラの動機づけという観点でも何も違うところはない。同じネタを扱い、同じプロセスを経て制作され、同じ動機をもつキャラが同じような物語を展開する。では一体何が違うのか。ここでやっとわれわれは長い迂路を抜け、初めから分かりきっていた結論に辿り着いた。作品が違うのだ。
満たされ得ぬ陰キャの欲望
マルクスの機械論に定式化された入力 / 処理 / 出力の段階論は、工学的心理学の礎でもある。それは人間の心理を特定の入力に対し特定の出力を行う機械と見做すことであり、だから仕事にも恋にも、およそ人間の心理が絡む場面であれば問題解決の手法として効果を発揮する(ということになっている)。ところが面白いことに、『サイコろまんちか』で用いられる心理学テクニックは、入力が必ずしも期待通りの出力を生まない。伊東は「ツァイガルニク効果を使って阿部を射止める!」と決意すればまさにその効果で返り討ちに遭い、ラトクリフ波止場の実験を持ち出してオカルト研究部を論破してもなお幽霊が怖いという事実によって結局は敗れる。バスケの試合に勝つために使ったリンゲルマン効果は宇堂の心変わりによっておじゃんになり、ところがたまたまその前に話していた自己開示の返報性が思いもかけぬ結果を生む。だから、『サイコろまんちか』の内容を正しく紹介するなら次のようになる:「陰キャぼっちの女子高生・伊東が、幼馴染の阿部の心を射止め青春を謳歌したいと願っていたところに、たまたま心理学で一度の成功体験を得てしまったため過度に心理学に固執するようになり、以後失敗を繰り返す」。なんだか余り読みたくない感じの紹介になってしまったが、とにかく実態はそうなのである。
これは単に、ベースがギャグだから都合良くお悩み解決一件落着してはいけなくてスベることが必要なのだ、などと言って片付く問題ではない。人間の心理は機械と同じ動作をするというテーゼを、作品は機械労働と同じ過程で制作されるという同じテーゼをもって実証したのが『平松っさん』の退屈きわまる達成だったが、『サイコろまんちか』は全く同じことをやった上でそれを裏切っている。別言するなら、伊東の信念とも況して作者の意図とも無関係に「心理学は役に立たない」「人の心を意のままに操ることはできない」という方向へと常に力がかかっている、それが『サイコろまんちか』という作品に固有の傾性である。
例えば伊東は、占いで女子の人気を博する同級生や、オカルト研究部、演劇部といった連中に片っ端から喧嘩を売る。その物語上の動機は、心理学という学問の正しさを示すためであったり、心理学研究部が文化祭に参加するためであったりするわけだが、とにかくそうした敵に心理学をもって立ち向かう。そして毎回失敗する。この行動は『平松っさん』の池田が心理学のテクニックを利用することで仕事に恋に成功するのとは対照的で、言ってみれば受験に部活に恋に成功する進研ゼミのPRマンガの主人公と、それを真に受けて進研ゼミを始めてしまう中学生ほどの開きがある。
なぜなら伊東は陰キャなのである。そのため彼女が目的として掲げる「阿部という人間の心を手に入れたい」という過大な欲望は決して満たされることがなく、且つその同じ事実が『サイコろまんちか』を『平松っさん』からもPRマンガからも隔てている。陰キャの青春のモヤモヤは仕事に悩むサラリーマンを救う心理学よりも強い、という一つの作品的真実がここには語られている。
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