2023年02月24日 07:17

批評家気取りについて、または文部科学省による身体障害者差別について

Webマンガはコメント欄ありきで楽しむもので、それは例えば嘗てニコニコ動画が、冷静になってみれば特にどうということもない動画でも画面上にツッコミが流れると途端に面白くなることを発見したのと同じように、メディアの進歩により既存の表現様式に新たな楽しみ方が創出された事例だと俺は思っている。だから――説明の都合上民度の低いところを例にとることになるが――『怪獣8号』のコメント欄で、批判的なコメントだけが片っ端から削除された結果「批判的なコメントに対する批判的なコメント」ばかりが上位に残って訳の分からない状態になっているのを見るのは楽しいし、或いは『僕の武器は攻撃力1の針しかない』がちょっとまともになってコメントのツッコミも鈍ってくると、それは寂しいものだと感じる。



ところでどんなツッコミ・批判的言辞にも反対意見はあり世にレスバの種は尽きないわけだが、そこで必ずと言って良いほどお目にかかることになるのが「評論家気取り」「編集者気取り」「そんな上から目線で偉そうに言うなら自分で描け」というタイプの反論、そして返す刀で「無料で読ませてもらっているのに批判めいたことを言うのは良くないと思います」という、擁護するかに見えて擁護できる点がないことをはしなくも露呈させてしまっている切ない擁護である。

批評行為に対する反撥と嫌悪は根強い。調べてみると2016年のことらしいが、pixivにアップされた「私が大好きなアニメを見れなくなった理由」(→Google検索)というマンガがバズった。まあ少しバズったと思う。ポプテピピックでパロディにされる程度にはバズった(程度が分からない)。大好きなアニメに対する批判を耳にして以来その作品に興味を失ってしまった、思い出を台無しにされた、批判は何も生まない、というのがその主張である。

或いは高校の時、現国の教師がこんな話をしていた:その年の教科書に梶井基次郎「檸檬」が載っていたのだが、新学期が始まって早々に女子生徒2人がやって来て、授業で「檸檬」を扱わないでほしいと言う。なぜならこれは私たちにとってとても大事な作品なので、授業で解剖され解釈され分析されることには耐えられないのだ、と。直談判の結果がどうなったのかは聞かなかった気がするし、また今になって思い返すと文学少女2人の百合に梶井基次郎(ゴリラ)が「俺も混ぜてよw」するという要らん展開しか想像できなくなった自分に気付かされ汚れちまつた悲しみにという気分でもあるのだが、まあ確かに梶井基次郎でも中原中也でも、最も典型的なのは太宰治なのだろうが、或る種の作品は、或る年代の人間にとって「俺だけはこいつを理解できる」という強烈な一体感を覚えさせることがある。この時、作品と鑑賞者との間には一対一の回路が形成される。作品が成立した歴史的背景など知る必要もなく、鑑賞者は時代も国も全ての差異をすっ飛ばして作品のもとへと直接推参する。そこに第三者が容喙することは何の役にも立たない迷惑行為でしかない……と、少なくとも鑑賞者には信じられる。

日本に限った話でもないようで、例えば「批評家とは脚がないのに走り方を教える者である」(A critic is a legless man who teaches running.)という、俺は出典を確かめたことがないがチャニング・ポロックなる奇術師の言としてしばしば引かれる言葉もある。或いはジェイン・オースティンは英国の平凡な田舎の家庭を舞台に、やれ娘の見合いだのやれ遺産相続だのとありふれた日常茶飯の出来事ばかりを書き続けたが、サイードはその物語の背景に大英帝国による植民地支配が配置され且つ隠蔽されていることを明らかにし、それまでのオースティン読解を全てひっくり返した。今ではすっかり常識となったポストコロニアル批評というやつであるが、無論当時は批判も多く、「そんな読み方をしたらオースティンの小説の楽しみが奪われてしまうのではないか」みたいに言われることもあったらしい。対するサイード先生の答えは「いやいやそんなことはない、寧ろそう読むともっと面白くなるのだ」というもので(Edward W. Said, Power, Politics, and Culture, 2001)、もうこの返しだけで格が違うわと俺は深く感じ入った。

詮ずるに次のような前提があるのだろう:批評が理知的な行為であるのに対し、作品鑑賞は感性的で美的な領域に属する。批評は「なぜその作品が美しいか」を解釈し説明するが、仮にそれが完全に解明できたところで美の創造には寄与することがなく、また鑑賞者にとっても、美しく思えなかったものが批評によって美しく見えてくることはない。批評は理知 = 言葉(ロゴス)に基づくことで他者との合意形成や他者の説得を目指す本質的に社会的な行為であるが、作品鑑賞は一対一の回路にのみ根差したすぐれて個人的な営為であり、そのため本質的に前者とは相容れない。

このように要約すれば、これがカントが『判断力批判』で扱った問題だということは分かるし、また真に芸術を解することは有象無象の大衆とは異なる一部の特別な者のみに許された特権だという観念が暗黙の背景をなしているようでもあるが、それが別に普遍的でも何でもなくロマン主義という歴史的・地理的にごく特殊な作品鑑賞の方式に過ぎないということも常識の範疇だと思うのだが、ただそうした事情を説明するにはまさに批評が必要になってしまい、ところが一対一の回路に閉じ籠もる自己愛的な作品鑑賞者は、定義上、批評を必要としていない。

だがジャンプ+のコメント欄の不毛さを緩和するためにも、件の百合文学少女たち(ほらお前らがぼやぼやしてるから百合で確定しちまったよ)を安心させるためにも、国語教育には些かの見直しの余地があると俺は考えている。つまり、俺は作品鑑賞の仕方というのを小中学校で教わった記憶がないのである。もし学習指導要領に示された国語科の目標が徹底してプラクティカルな、例えば説明書の読み方や役所の窓口に出す書類の書き方のみを教え込む、散文による文芸すらも扱わないほど散文的なものであるならば、それはそれで筋が通っているから良いと思う。ところが実際には、小説とはどのように書かれていて従ってどのように読むものなのかを教えもせずに、なぜか小説を読ませて作中人物の言動の意味を問うといった乱暴な教育が横行している。

しかも悪いことに、若い人間は歴史を知らない(年号を暗記していないという意味ではなく、自己を含む世界内の諸事象の歴史的布置が出来上がっていない)。そこに突如として梶井基次郎が現れ一対一の回路が開かれたとなれば、横合いからごちゃごちゃ口を挟もうとする輩が厭悪されるのも無理からぬことだろう。しかしその結果義務教育でヘイトが育まれることを看過して良いものなのか。「そう読むともっと面白くなる」という経験をこそ積ませるべきではないのか。せめて、脚がないというだけの理由で発言を封殺されることのない世の中であってほしいものだと俺は思う。

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