2023年05月18日 08:45
合田正人『吉本隆明と柄谷行人』 ― 思想における失われた30年、幷にそんなの知ったことかという話
2019年6月に書いた。
2011年刊。レヴィナスとかの研究をしている著者が「二人の知の巨匠の胸を借り、いくつかの基本的な問いをめぐる考察を展開してみようと考えた」(p.17)というもの。本というのは「何か言いたいのことのある著者が、それを読者に分からせるために書くもの」だなどと思っていると、痛い目に遭うことがあるようだ。
とにかく、読んでも何を言いたいのかさっぱり分からない。一文一文は理解できるので俺の予備知識が足りないわけではないらしい。ところが読み進めて行っても著者の論旨は一向に追えない。なぜかと言うと、まず脱線が異様に多い。合田は吉本と柄谷のテクストを精緻に読み込みその思考のよって来る所以を探っている(らしい)のだが、ちょっと目を離すとすぐ別の話を始める。絶えず低声で囁き目配せをして読者の気を散らしてくれる。こうした脱線は全部読んで合算値として著者の思考を再現するか、逆に全部無視して核となる主張だけを取り出すかすれば良いのだが、どちらをやってみても、合田自身が何を言いたいのかは全く浮かび上がってこない。
とにかく、読んでも何を言いたいのかさっぱり分からない。一文一文は理解できるので俺の予備知識が足りないわけではないらしい。ところが読み進めて行っても著者の論旨は一向に追えない。なぜかと言うと、まず脱線が異様に多い。合田は吉本と柄谷のテクストを精緻に読み込みその思考のよって来る所以を探っている(らしい)のだが、ちょっと目を離すとすぐ別の話を始める。絶えず低声で囁き目配せをして読者の気を散らしてくれる。こうした脱線は全部読んで合算値として著者の思考を再現するか、逆に全部無視して核となる主張だけを取り出すかすれば良いのだが、どちらをやってみても、合田自身が何を言いたいのかは全く浮かび上がってこない。
ではその細かい読み込みと引用の羅列の中に、謂わばトリビア本のように拾い読みしているとちょっと興味深い指摘があるのかと言うと、そうでもない。余り漠然とした感想ばかり並べるのも良くないので一つだけ例を挙げておくと、第4章「システムとは何か」で、合田は柄谷の「交通空間」説を次のように要約した上で批判する(大意):
これは端的に誤読であり、恐らく言語ゲームに関するよくある誤解に基づいている。まず特定の言語ゲームはあくまで生活様式であり、従って自己差異化する閉域システムである。これに対し言語ゲームは特定の言語ゲームに先行して実在するものではなく、特定の言語ゲームを使用する中で特定の言語ゲームから区別されることで構成される。だからこそ柄谷はウィトゲンシュタインの線に沿って、言語ゲームを「外部」つまり交通空間を見出す契機として用いているのだ。合田は特定の言語ゲームが成立していない「生地」の状態が先行して実在すると当然のように決めてかかっているが、そんなものは複数の特定の言語ゲームの寄り集まりか、または複数の特定の言語ゲームを包含するような特定の言語ゲームであるに過ぎない。つまり全体が一つの自己差異化する閉域システムであるに過ぎない。典型的な実在論の罠で、ここから特定の言語ゲームの「外部」が出てこないのは自明だ。「その生地が幾重にも襞を作るのだから、どうして『共同体』が『交通空間』よりも単純なものになりうるのか」(p.239)と言うに至っては、「生地」という自分が持ち出した比喩に絡め取られているだけである。
特定の言語ゲームはそれ自体として規則体系ではなく、他の複数の特定の言語ゲームの「間」にあって初めて規則性を持つ。これをシステム論の用語で言うなら、共同体はそれ自体として閉域システムを成すのではなく、他の共同体との「間」すなわち交通空間があって初めて成立する。かくして共同体の先行性という通念に対し、謂わば「生地」の状態=交通空間から共同体が「自らを折りたたんで」発生する――というのが柄谷の語る仮説・イメージである。しかし「自ら折りたたむ」という生成のメカニズムは交通空間の自己差異化としてしか考えられない。つまり実は交通空間も、柄谷の批判対象であった筈の自己差異化的な閉域システムなのだ。
これは端的に誤読であり、恐らく言語ゲームに関するよくある誤解に基づいている。まず特定の言語ゲームはあくまで生活様式であり、従って自己差異化する閉域システムである。これに対し言語ゲームは特定の言語ゲームに先行して実在するものではなく、特定の言語ゲームを使用する中で特定の言語ゲームから区別されることで構成される。だからこそ柄谷はウィトゲンシュタインの線に沿って、言語ゲームを「外部」つまり交通空間を見出す契機として用いているのだ。合田は特定の言語ゲームが成立していない「生地」の状態が先行して実在すると当然のように決めてかかっているが、そんなものは複数の特定の言語ゲームの寄り集まりか、または複数の特定の言語ゲームを包含するような特定の言語ゲームであるに過ぎない。つまり全体が一つの自己差異化する閉域システムであるに過ぎない。典型的な実在論の罠で、ここから特定の言語ゲームの「外部」が出てこないのは自明だ。「その生地が幾重にも襞を作るのだから、どうして『共同体』が『交通空間』よりも単純なものになりうるのか」(p.239)と言うに至っては、「生地」という自分が持ち出した比喩に絡め取られているだけである。
まあ、間違っていること自体は構わない。勿論間違えないに越したことはないが、どうしたって間違うことはある。にんげんだもの。ただ、吉本と柄谷には眼の前に考え抜かなければならない問題があり、またそれを語らずにはいられない動機があった。そのため彼らのテクストは、多くの間違いが含まれているにも拘らず今でも読むことができる。ところが合田の前には、依然としてこれら先人のテクストしかない。本当に考えるべき問題も、新書というフォーマットで本を出して広く世に問わねばならぬ主張も何もない。だから「読んでこんなことを考えました、こんなことも連想しました」とパラパラと並べることしかできない。その上で言っていることまで間違っているのだから救いようがない。
柄谷が「ここ数年で批評の言葉が変わってしまった」と嘆いたのは1985年のことだった(『批評とポスト・モダン』)。つまり浅田彰や中沢新一といった「新進気鋭の若手学者」が小難しい論文を量産してメディアの脚光を浴びたという変な時代があり、俺は後追いで読んだのだが『構造と力』も『チベットのモーツァルト』も今となっては到底読めたものではないが、しかしそれから四半世紀が経って合田が「巨匠の胸を借り」た結果がこれである。俺はわが国の思想情況の退廃を嘆くほど心優しくはないので、単に、付き合いきれねえわ、と思うばかりだ。
考えなければならない問題に直面している人は、思想とも批評とも哲学とも無縁の場所で勝手に考えている。例えば倉本圭造はそのタイトルだけで大いに誤解されそうな著作の中で、「今はほとんど無駄飯食いの代表としてニートと並び称されているぐらいの『人文・思想』分野のプロのみなさんの活躍の場」を提案している:
つまりいわゆる「思想とか批評」とかいうレベルの分野で、日本は新しい「自分たちの根底的な世界観」を作り出さないといけないんですよね。
世間的には地味すぎるようですが、しかし「そこ」での転換なしには、そして「そこ」からのドミノ倒しなしには、日本全体を日々の経済レベルで転換していくことはできないんですよ。
欧米に比べて知識人同士の内輪の共通了解的なものが社会に一切守られていない状況の中で、いわゆる「あまりにもポストモダンすぎる」時代を過ごしてきた日本の中の「思想」の分野において活躍しようと思っておられる方々の中には、欧米における同種の知識人の言うことが物凄く楽観的すぎるほどアナクロに感じられつつ、でも彼らの方が明快でわかりやすいからそれを超えるようなことも言い出しづらい……という袋小路の中で、ネット内の特殊な流行や日本におけるアイドル事情なんかを衒学的に分析することで不満を紛らわせている……ような人たちがたくさんいますよね?
あなた、あなたのことですよ!
そういう人たちこそが、積極的に「日本発の新しい世界観」を作っていかないといけない時代なんですよ。頼みますよ?(『日本がアメリカに勝つ方法』p.204f、強調および三点リーダーは原文)
俺はこの言葉は状況把握として正しく、オリエンテーションとしてもアジテーションとしても正しいと思う。ただ残念ながら、この「無駄飯食い」どもには初めから考えるべきことなど何もないのである。
それでも一応最後まで目を通して、3.11の2日後の日付をもつ「あとがき」を読んで流石の俺もキレた。本文でも折々、吉本や柄谷の語る異邦性からは「何らかの理由で動けない者、望む場所にいることのできない者たちの姿が(……)見えてこない」(p.27)とか、柄谷が理想化するアソシエーションからは「全身すべてが借金のための生活と化し、路上生活や犯罪や逃亡や自殺を選ばざるをえなくなる人の姿が見えてこない」(p.300)とか空疎な記号を濫発しては、戦後知識人第2世代らしい弱者に対する引け目、及びそれゆえ弱者に連帯を表明することで正義を手にし心の平穏を贖おうとするしみったれた精神を晒していたが、遂に大災害がやって来たのだからその浮かれっぷりといったらない。
例えば「何年も音信不通だった年下の知人」が、「両親のいる老人ホームとは連絡がつきません、精神を病んで何も自分ではできない兄のことが心配です」「僕は事情があってホームレスになりました」云々というメールを寄越す。震災がそして現代日本が生んだ、紛う方なき弱者である。合田自身は、当日は車に乗っていたら地震がきて歩いて家に帰ったというだけなのだが、無論これに心を寄せねばならない。そこで「実は私は、自分自身のみならず自分の家族をも捲き込んだ、出口のないような困窮のなかで本書を書き続けた」のだと言う(p.307f)。だが、明治大学文学部教授という立派な職と肩書を手にし、マルクスやサルトルの原著にアクセスして原稿を書いている人間を、世間一般では「困窮」しているとは言わない。人は大抵何かしら悩みや苦しみを抱えて生きているわけで、そうですか先生もご事情がおありなんですね、というだけの話である。『言語美』『心的現象論』『共同幻想論』を吉本の「三大著作」(p.84)だと思っている人間は、決まって『情況』を読んでいない。異邦性や困窮が「見えてこない」のは、てめえの目が悪いからである。
例えば「何年も音信不通だった年下の知人」が、「両親のいる老人ホームとは連絡がつきません、精神を病んで何も自分ではできない兄のことが心配です」「僕は事情があってホームレスになりました」云々というメールを寄越す。震災がそして現代日本が生んだ、紛う方なき弱者である。合田自身は、当日は車に乗っていたら地震がきて歩いて家に帰ったというだけなのだが、無論これに心を寄せねばならない。そこで「実は私は、自分自身のみならず自分の家族をも捲き込んだ、出口のないような困窮のなかで本書を書き続けた」のだと言う(p.307f)。だが、明治大学文学部教授という立派な職と肩書を手にし、マルクスやサルトルの原著にアクセスして原稿を書いている人間を、世間一般では「困窮」しているとは言わない。人は大抵何かしら悩みや苦しみを抱えて生きているわけで、そうですか先生もご事情がおありなんですね、というだけの話である。『言語美』『心的現象論』『共同幻想論』を吉本の「三大著作」(p.84)だと思っている人間は、決まって『情況』を読んでいない。異邦性や困窮が「見えてこない」のは、てめえの目が悪いからである。
「しがない」「評論家」は、いつも延々とならんでいる図書館の入館者の列にはいって、調べ物をしたり、生活費をかせぐ仕事の合間をつかって研究をつづけている。(『情況』p.9)
〈大学〉とはつまるところ、教育設備の便利さの問題と、学問や教育をやってさえいれば、いい年齢をした男たちが遊んでいられるこの現実社会の〈天国〉の問題である。(同p.141)
最後に内容とは関係のないことも言っておかねばならない。PHP新書というのが全部こうなのか知らないが、本書では、文中に登場する膨大な数の人名と書名の全てについて、初出箇所に必ずフルネーム・生没年・刊行年が附記されている。多分編集者がやっているのだろうが、これがどれだけウザくて頭悪そうかをご理解いただくために適当に開いたページを書き写しておくと:
こんな調子で300ページ続くのである。編集者はこの下らぬ「作業」で何か「仕事」をしたつもりになっているのだろうか。そんな暇があるなら、たまに詰まらぬミスの入り込む自動生成でもいいから索引を付けてくれた方がまだしも意味があるのに、そういう一と手間はかけようとしない。とにかく、こんな馬鹿げた本は初めてである。
エトムント・フッサール(一八五九~一九三八)が『イデーンI』(一九一三年)の自身による「あとがき」(一九三〇年)で(……)(p.39)
ミシェル・エイケム・ド・モンテーニュ(一五三三~一五九二)の『エセー』(一五八〇年)からの一節である(『エセーI』荒木昭太郎訳、中公クラシックス三八〇ページ)。(p.60)
(……)アランの記号批判やアンリ・ベルクソン(一八五九~一九四一)の言語批判もそれと関連づけることができる。だからこそ、「意味作用〔シニフィカシオン〕の解体が意味〔サンス〕である」というジャン=フランソワ・リオタール(一九二四~一九九八)の言葉や、森本浩一(一九五六~)が紹介しているように、ドナルド・デイヴィドソン(一九一七~二〇〇三)の次のような言葉も、この転向の所産に数えられるのである。(p.133)
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(一七七〇~一八三一)の『美学』(一八一七年)では(……)(p.159f)
こんな調子で300ページ続くのである。編集者はこの下らぬ「作業」で何か「仕事」をしたつもりになっているのだろうか。そんな暇があるなら、たまに詰まらぬミスの入り込む自動生成でもいいから索引を付けてくれた方がまだしも意味があるのに、そういう一と手間はかけようとしない。とにかく、こんな馬鹿げた本は初めてである。