2023年08月04日 01:21
テクストの星座、現実の構成、そして『オイディプス王』へ
だいぶ以前にも書いたことがある気がするが、俺はもう長らく1冊1冊の本が良いの悪いのといったことは割とどうでもよくなっていて、複数のテクストの関係性にしか興味がない。それで例えば一時期、アイソポスを巡る説話群(B. E. Perry, Aesopica)から遡って『アヒカル物語』『トビト記』、下ってナスレッディン・ホジャそして勿論『伊曾保物語』、また動物寓話としては遡って『パンチャタントラ』、下って『狐物語』『ラインケ狐』を経てゲーテの『ライネケ狐』等を渉猟し、はたまた『カンタベリー物語』を経て『薔薇物語』、『ゲルマーニア』を参照しながら再び『ラインケ狐』を経てエッダとサガ、を経て『ニーベルンゲンの歌』或いは『エル・シードの歌』、『司祭アーミス』『聖ブランダン航海譚』、さてはティル・オイレンシュピーゲルといった物語を、読んでは紐づけ、星座を描くことに没頭していた。無論単なる趣味として、何を目指すでもなく愉しいからやっていたことなのだが、また結構本気で、これは俺が今生きる現実を理解するための修練だとも思っていたのである。
例えば冨樫義博『HUNTER×HUNTER』の冒頭で島を出たきり戻らない父を探して旅に出るゴンはどう見てもテレマコスだし、Cocco「強く儚い者たち」に歌われる島に辿り着いた男を迎え入れ誘惑する女はキルケーに他ならない。それぞれの作者が『オデュッセイア』を念頭に置いていたかどうかはどうでも良いことだし、この暗合を説明するために集合的無意識という文学的な(実証不可能な)仮説を持ち出す必要などはいよいよ以てない。ただ確実に言えることとして、海があり島があり、父子がいて男と女がいた時には、同じ物語が反復されてしまうのである。
何年か前、ジョゼフ・キャンベルのヒーローズジャーニー理論というのが一瞬話題になったことがあった。それも文学や思想界隈ではなくビジネスの世界においてである。言うまでもなく神話や民話、一般に物語の類型分類と分析についてはレヴィ=ストロースの業績があり、またその構造主義の先駆としてウラジーミル・プロップや折口信夫の仕事があるわけだが、悲しいことに無教養なビジネスパーソンはそんなことは知らない。そのため、この二流の神話学者が何やら劃期的な発見をしたかのように持て囃し、プレゼン手法に応用することで大いに効果を発揮するのだという宣伝にころっと騙されてしまう人々がいた。あなたは御社の課題を解決するために出発します、苦難に満ちた旅の過程で助言を与えてくれる賢者や頼もしい仲間(弊社)に出会います、見事課題を解決します、そして報酬を携えて御社へと帰還するのです――という人類にとって普遍的なストーリー仕立てのプレゼンにすると、これはもうめっちゃ刺さるし顧客はドッカンドッカン湧いて成約間違いなしですわ、というのである。
少なくとも俺は、この浅墓なプレゼンが上手く行っているのを見たことがなかった。詰まるところそれは、日本においては概ね1990年代後半以降に「外資系戦略コンサル」みたいな人たちが広めてきた、ビジネスフレームワークという魔法の杖のまた一つの(yet another)事例であった。念のため言っておくと俺はビジネスフレームワークの価値自体を否定はしない。実務でさんざん使ったし研修講師として人に教えさえした。ただ、「このフレームワークを使えば絶対仕事が上手く行きますよ!」という甘言に釣られるような奴は仕事ができないよな、と考える常識人なのである。当時見た中で一番面白かったのは、BABYMETALというメタルアイドルグループが世界的な人気を博すに至った道のりをこの理論で説明した記事である:
読んでいるうちになんだか目眩がしてくるこの記事から、しかし分かるのは、人は或る事象に触れた時にきっとそれを物語として解釈してしまう、ということだろう。複数の人間がいて、何か言ったりやったりする。結果として関係性が変化して、また何か言ったりやったりする。時間経過の中で進行するこれら一連の流れを認識するにはどこかで切る(分節化する)必要があり、すると初めと中と終わりを持つ一つの単位が浮かび上がる。そしてこの単位は決まって既知の物語に構造的に相似するのである。
或いはより原理的に言うと、但し些かダーウィニズム的な物言いになるが、認識の最も低いレイヤに人間個体が神経網で受け取る外部からの雑多且つ大量の入力を処理して「現実」を想像的に構成するというエコノミーを位置付けるなら、その二次過程として脳の後発的演算系である言語 = 象徴の関与が存在し、そのため「現実」は上位レイヤに引き渡された時点で必ず神話的・共同体的に、つまりは物語にならざるを得ない。自分が実際に体験した現実は本で読んだお話とはまるで別物だというナイーヴな考えこそが、「生(なま)の現実」や「本来性」という物語なのである。
尤もこうした認識の枠組みとしての物語というものがあるとして、その祖型を求めることには慎重であるべきだと思う。ややともすればこれまたユングの元型論に陥ることは目に見えている。基本的に俺は、岡正雄の顰に倣い「文化の『絶対的起源』を探究する企図は方法的に抛擲しなければならない」(「異人その他」)という立場を取る。ただそれでも、可能な限りでの接近を試みることは許されるだろう。
例えばレヴィ=ストロースは、百合若大臣をユリシーズ(オデュッセウス)とする説には留保を設けつつ、沖縄の伊平屋島で聞いた儀礼歌がクロイソスの口のきけない息子の物語(ヘロドトス1.85)の伝播であろうことを指摘している(『月の裏側』所収「シナ海のヘロドトス」)。前5世紀にギリシアで記録された逸話がユーラシア大陸の東のはずれにまで到達するのは面白いが、しかしこれは寧ろ、人類が定住を覚えたために時間のかかった部類ではないかとも思う。
先例となるのは灰かぶり姫(シンデレラ)である。ストラボン(17.1.33)やアイリアノス(VH 13.33)が誌した「ロドピスの靴」、『千夜一夜物語』の「足飾り」、或いは南方熊楠が発見した支那の「葉限」を今更引くまでもなく、この説話は類を見ないほど広く世界的に分布している(これについては浜本隆志『シンデレラの謎』という、俺としては大枠では同意できるが疑義も多々ある本が主題的に扱っている)。
ここで問題は、なぜ靴と足なのか、である。これは、(俺としてはいよいよ首肯しがたい点の多い中沢新一『人類最古の哲学』も指摘するように)オイディプスの説話と関連する筈だ。オイディプスは名前からして「腫れた足」の意であり、恐らく先天性内反足のような奇形を指す。またスフィンクスは足の数に関する謎を彼に投げかけ、その答は「人間」だった。これは人類が二足歩行を始め、気の遠くなるほど長い旧石器時代の遊動生活を送る中で、大地を踏む2本の足が決定的に重要な意味を持っていたことを示唆する。そしてこの跛行する男が父を殺し母を犯すという物語は、父・母・息子という三角形(3者のプレイヤー)の欲望の運動から論理的・幾何学的に析出されるものだ。
無論フロイトの理論に対しては、「父」の弱いそれこそ日本のような社会には適合しないのではないかといった批判が古くからある。しかし、では雁屋哲・花咲アキラ『美味しんぼ』や板垣恵介の『刃牙』シリーズにおいて、超えがたい父との闘争と母への恋慕という驚くほど明確にエディプス的な構造が当然のように顔を出すのはなぜなのか、俺はずっと気になっている。ドゥルーズ=ガタリの本質的な批判を踏まえてもなお、これは人類が文化を形成する時に必然的に導かれる一つの型なのではないか。
俺は或る時期から、人類史上の最高傑作はソポクレスの『オイディプス王』ではないかと考えるようになった。文学史上の、ではない。現生人類が生み出したものの中で最高傑作なのである。仮にどこかの星から飛来した宇宙人が、或いは数百万年後に今の人類より進化した未来人が、結局ホモ・サピエンスとはどんな連中だったのだ、と問うたとして、蒸気機関を発明しました、相対性理論と量子論に辿り着きました、インターネットを発明しましたなどと答えるのは馬鹿げている。ヒトとは何よりもまず直立二足歩行し、親族集団を形成し、世代間で知識を継承する動物だった。しかもそれを古代ギリシアのテーバイという歴史的・地理的にローカルな一点に集約し表現する象徴操作能力と、洗練された詞章を組み立てる文化とを有していた。『オイディプス王』を読めばそれが全部わかるのである。
│雑記