2025年01月29日 14:50
言葉の誤用とそれに対する批判が意味することについて
今回はごく基礎的な、且つ相変わらず取り留めもない話をする。
これは昔から思っているのだが、「言葉は時代の移り変わりに応じて変化するものだ」と発言する人は、勿論、言語学の議論がしたいわけではない。大抵の場合それは、自分が当然と思って使っていた言葉やその用法を間違っていると指摘された時に生じる感情的な反撥の表現である。母語(mother tongue)という言葉は性的平等の観点からの批判もあり今では余り使われなくなった気がするが、この比喩が暗示していたように言葉(第一言語)は単なる意思疎通のための道具ではなく、気が付けば共に生い立ってきた、親密で、なつかしい、自己の一部をなす大事なものと感じられるので、それを突然否定されると人は感情的な、殆ど生理的な反撥を覚える……そして、それだけの話である。だから誤用を指摘されて「ごちゃごちゃうるせえな、言葉なんて通じりゃいいんだよ」と言う人を見たら、それは知的怠慢と言うよりもまずこの感情的・生理的な反応と捉えられねばならない。まあ確かに俺も、この世界において自分がモブキャラであることは自覚しているものの、もしなんか魔王的なやつが「地獄の苦しみを味あわせてやる」と言ったらその瞬間にブチ切れて覚醒して主人公になる自信はそこそこある。
これは昔から思っているのだが、「言葉は時代の移り変わりに応じて変化するものだ」と発言する人は、勿論、言語学の議論がしたいわけではない。大抵の場合それは、自分が当然と思って使っていた言葉やその用法を間違っていると指摘された時に生じる感情的な反撥の表現である。母語(mother tongue)という言葉は性的平等の観点からの批判もあり今では余り使われなくなった気がするが、この比喩が暗示していたように言葉(第一言語)は単なる意思疎通のための道具ではなく、気が付けば共に生い立ってきた、親密で、なつかしい、自己の一部をなす大事なものと感じられるので、それを突然否定されると人は感情的な、殆ど生理的な反撥を覚える……そして、それだけの話である。だから誤用を指摘されて「ごちゃごちゃうるせえな、言葉なんて通じりゃいいんだよ」と言う人を見たら、それは知的怠慢と言うよりもまずこの感情的・生理的な反応と捉えられねばならない。まあ確かに俺も、この世界において自分がモブキャラであることは自覚しているものの、もしなんか魔王的なやつが「地獄の苦しみを味あわせてやる」と言ったらその瞬間にブチ切れて覚醒して主人公になる自信はそこそこある。
なるほどシニフィアンとシニフィエの対応は恣意的なのだから、通時的に見てその対応関係に変化が生じるのは普通のことだ。「性癖」という言葉は今や「性的嗜好」の意味でしか見ないようになった(これはsexual orientationが「性的志向」と訳されて日本語に導入されたことと関係しているのだろうか?)。極端な話、辞書の見出し語と説明とを一旦ばらばらにしてランダムに組み立て直しても言語体系は出来上がるのである。しかし現実問題としてそれは実用に耐えない。
なぜか? シニフィアンとシニフィエの対応の恣意性とは歴史的な一回性に根ざした偶然性であり、言語の体系(ラング)はその積み重ねによって現に成り立っているため、一つでも動かすと取り返しがつかないのである。例えば犬という観念は「イヌ」という音と既に結び付いてしまっている。さてこの時、犬という観念に「ネコ」という音を結び付けたとする。すると今度は「ネコ」という音に結び付いていた猫という観念に対応する別の音が必要になる。そこで「ネズミ」という音を宛てると今度は鼠という観念に対応する音が必要になり……というドミノ倒しが起こる。つまり体系の均衡状態が失われる、これが困る。そう考えると、なるほど誤用にうるさい人にもそれなりの理由があったわけだ。
勿論シニフィアンとシニフィエの対応を恣意的ではなく必然的なものと看做す考え方もあり、言語学の歴史を遡るならば寧ろそれが主流だった。西洋における言語学の起源とされるのはプラトンの『クラテュロス』だが、そこでソクラテスが(つまりプラトンが)語るのも、どこまで本気で言っているのかは別として、この説である。わが国においても同様で、例えば新井白石の言語論は語を音韻に分解することでその語の本義を明らかにするという方法を採る:
星(ホシ)は、ホ - シに分解され、ホは火、シは詞助であると解して「星」の本義が成立する。
光(ヒカリ)は、ヒ - カ - リに分解され、ヒは日、カは赤、リは詞助であると解して「光」の本義が理解せられる。(時枝誠記『国語学史』)
白石だけを読んでいると「駄洒落じゃねえか」「オヤジギャグかよ」とツッコミたくなるような語源説なのだが、時枝の明晰極まりない整理を読んで俺はようやく、白石が何をやろうとしていたのかが分かった。或る音には或る意味が内在するという考え方なのである。例えば『吾輩は猫である』で迷亭の伯父さんが語る名目読みの論、「蝦蟆を打ち殺すと仰向にかえる。それを名目読みにかいると云う」という言葉なども、この文脈で理解されねばならない。
さて、これに対してソシュールは複数の体系(ラング)を前提とし、諸体系間でのシニフィアンの関係を考えた。日本語のイヌは英語ではdogである。どちらも同じ犬という観念(シニフィエ)を指し示しており、お蔭で翻訳という作業が可能になる。ところが日本語と英語という2つの体系において、「イヌ」と「dog」の持つ「価値」はそれぞれ異なる。シニフィアンとシニフィエの対応の恣意性というアイディア自体は別に珍しいものではない、ていうかはっきり言えば誰でも思い付くようなもんじゃね?と思うのだが、語には「意味」だけでなく「価値」があるということこそがソシュールの最大の発見なのだ。シニフィアンとシニフィエの対応の恣意性という考えは寧ろそこから出てきたオマケみたいなもんに過ぎない。
ここで言う「価値」とは何か。例えば「証拠」という日本語は、ややともすると犯罪、捜査、裁判、俺がやったって証拠でもあんのか、といった文脈で使われることがある。そのため、ヘルプデスクのオペレーターがお客様に対して「エラーの原因を調査いたしますので『証拠』となるスクリーンショットをご提供ください」などと言うと、或いはちょっと角が立つかも知れぬ。そんな時「エビデンス」と言い換えると、「意味」は同じであっても余計な色、つまり「価値」がついていないから使いやすい。或いは「精神を鍛える」とか「性根を叩き直す」なんて言おうものなら、出たよ精神論・根性論・昭和脳・パワハラモラハラ老害、と思われるが、同じことを「この施策の推進には何よりもまず社員のマインドセットの変革が重要です」と表現すると途端に意識高い系っぽくなる。この間の事情はあながち、日本人の舶来崇拝と「新しもの好き」(熊本弁で言えば「わさもん」)ばかりに帰せられるほど単純ではないのである。
ちなみに「すべからく警察」の元祖である呉智英は、しばしば語や字の原義に立ち戻って言葉の誤用を批判するが、以上の議論を踏まえると、意味と価値を同一視しているという点でこれはやり方として筋が悪いと思う(――但し附言しておくと、「すべからく」を「すべて」の高級な表現と誤解して使うのを批判するのは、もともとは戦後民主主義、及びそれを成り立たせている言語空間への批判の一環として言い出されたものである。これは初の単著『封建主義者かく語りき』(1981年; 改題増補版1991年)で既に出ている論点で、そこにおいて呉は朝日新聞の文化欄の記事における「すべからく」の誤用から論を起こし、それを「民主主義者」の「裏口からでも叡智の王国へ入りたいという姑息な欲望や上昇志向」として政治的・思想的な「右」も「左」をもまとめて批判している。言葉の誤用を論うことを趣味とする人々にとって気に留めておくべきことだろう)。
(――附言2。呉智英について今後言及する機会があるか分からないので今書いておくと、この人はあちこちの雑誌に大量の雑文を書き飛ばすタイプの文筆家なので、当然読むに耐えないものも多いのだが、『封建主義者かく語りき』は、流石に初の著作だけあって力を入れて書いたのだろう、間違いなく名著だ。一流の思想家に限って観察される現象として、核心的なことを述べる時そのテクストには当然緊張感が漲るのだが、ただ同時に、なぜかそこに一種ユーモアのようなものが同居する瞬間がある。例えばウィトゲンシュタイン『哲学探究』の「石板!」の条り、クリプキ『名指しと必然性』の「ヒトラーは全生涯をリンツで静かに送ったのかも知れない」の条り、そしてドゥルーズの随所。『封建主義者かく語りき』にも俺はそれに近い匂いを嗅ぎ取る。新幹線「ひかり号」の命名にまつわる一節など実に良い。)
(――附言3。大学生の時に初めてマンガ評論を書いて、或る事情から呉智英に一読してもらったことがある。当然、そりゃまあボロクソに言われた。その時は何だこの野郎と思ったが、今にして見ればあの一瞬で莫大な経験値を稼がせてもらった。)
(――附言2。呉智英について今後言及する機会があるか分からないので今書いておくと、この人はあちこちの雑誌に大量の雑文を書き飛ばすタイプの文筆家なので、当然読むに耐えないものも多いのだが、『封建主義者かく語りき』は、流石に初の著作だけあって力を入れて書いたのだろう、間違いなく名著だ。一流の思想家に限って観察される現象として、核心的なことを述べる時そのテクストには当然緊張感が漲るのだが、ただ同時に、なぜかそこに一種ユーモアのようなものが同居する瞬間がある。例えばウィトゲンシュタイン『哲学探究』の「石板!」の条り、クリプキ『名指しと必然性』の「ヒトラーは全生涯をリンツで静かに送ったのかも知れない」の条り、そしてドゥルーズの随所。『封建主義者かく語りき』にも俺はそれに近い匂いを嗅ぎ取る。新幹線「ひかり号」の命名にまつわる一節など実に良い。)
(――附言3。大学生の時に初めてマンガ評論を書いて、或る事情から呉智英に一読してもらったことがある。当然、そりゃまあボロクソに言われた。その時は何だこの野郎と思ったが、今にして見ればあの一瞬で莫大な経験値を稼がせてもらった。)
尤も話はこれで済むものではない。例えば無闇とカタカナの外来語を使う人は珍しくないが、その動機は、実は様々である。難しい言葉を差し挟むことで賢そうに見せかける、或いは相手を煙に巻くという実利的な動機でそうしている人は、分かりやすいし従って害も少ない。俺が或る時発見したのは、言語運用能力に難があるタイプの人の一部に、その場面で適切な語彙を見付け出すことができないため最近聞き覚えたカタカナ語を穴埋め的に使っておくことで、たとえ意味的には誤っていてもとにかく会話のキャッチボール的な何かを成立させる人がいるということだ。「顧客にドラスティックな価値体験を提供する」とか言ったとして、聞いている側は「こいつドラスティックって言葉の意味分かってないな」「ドラマティック辺りと混同してないか」とかモヤモヤ思いつつ、ともあれそれは「価値体験」に付けられた形容詞で、しかも前後の文脈からまず間違いなくポジティブな意味の形容詞で、少なくとも「ダメな価値体験を提供する」とか「嫌がられる価値体験を提供する」とか言いたいのではない、というところまで分かれば、現に会話は続いてしまう。つまりこの場面での「ドラスティック」は、「意味」を持たないからこそ実行的なのである。
或いは、既知の単語の別バージョンに接した時、「意味」は同じでもそっちの方が正しい、正統的である、上品である、特別であるといった「価値」を人は根拠もなく見出すことがある(cf. 『日本の方言地図』p.120)。そういえば俺も子供の頃、「2日前」のことは「おととい」と呼ぶと信じて疑わなかったのが、或る時「おとつい」という言い方を聞き知って、以後しばらく「おとつい」と言っていたことがあった。それが主に西日本で用いられる言葉で「おととい」とは方言上の違いでしかないと知るには少々の時間を要した。社会人になってから、東北出身の上司がなぜか一貫して「おられる」というこれも主に西日本で用いられる敬語を使っていることに「そこは『いらっしゃる』だろ」という違和感を覚えたのも、同じような事情だった筈である。
普段はこと改めて考える必要もないくらいに自分の一部となっているものほど、外界と触れた時には強い反応を惹き起こす。例えば母国、生まれ故郷、方言、伝統といったものは、何事もなければ意識する機会がない、いや寧ろ何事もなければそもそも存在すらしない(観測者と指し示しの問題)。それが俄かに自他の境界を有ち存在を開始するのは外界と接した瞬間であり、例えばドラマやマンガに方言が用いられると、しばしば(自称)現地人からの手厳しいツッコミが寄せられる。◯◯地方にはこういう方言があると言われると、いや俺は生まれも育ちも◯◯地方だがそんな言葉は聞いたことがないと驚くほど強く否定する、こんなご当地ラーメンがあると言われればいや俺は食べたことがないと言ってなぜかふんぞり返る、スタジアムでのスポーツ観戦後にゴミ掃除をして帰る日本人を外国人が称賛していると聞けば、全くその通りだ、日本人は綺麗好きで公徳心が高いからなと言って自分もゴミ袋を持参して観戦に行く……とまあその瞬間から突如保守的な伝統主義者に変貌する者は珍しくない。
或いは広島と長崎への原爆投下前にアメリカがそれを予告し避難を勧告するビラを撒いていたという歴史的事実があるが、何かの流れでそれが言及された時、そこにいた一人がそんなわけがない、俺は広島出身で親戚に被爆者がいるがそんな話はついぞ聞いたことがない、戦後にアメリカが言い逃れのために作り出したデマに決まっている、と躍起になって否定し始めて、参ったなこりゃどうしたもんかなという空気になったことがある。とは言えそれは、彼が広島県民或いは被爆関係者としてのアイデンティティを形成する一つの場面に立ち会ったのだと考えれば、ファクトベースでものを考えることのできない意固地な姿勢とのみ断ずるのは礼を失したことで、俺としてもそうそう軽く忘れ去ってよいものではないと思っている。
そして、冒頭に述べたように言葉というのはまさにそうした自明的な共同性や本来性の最たるものである。阿部共実『潮が舞い子が舞い』1巻5話に、「ボボンガ!」から始まる新しい挨拶語の体系を仮構する場面がある。……って何言ってるのか分からないと思うが、説明すると長くなるのでこれはもう実際に読んでいただくとして、一人の女子高生が「ボボンガ!」を挨拶語として提案し、それが当然社会に受け入れられないまでの経緯を、この1話は、これ以上ないくらい明晰に説明している。言葉を誤用するのもまた誤用を論うのも、或いは新語を導入するのもそれを批判するのも結構なことなのだが、そうした場面においては、人間社会が、と言うより人間そのものが、言葉によって成り立っているという事実がまた同時に浮かび上がって来る。この点だけは見失ってはいけない。「『すべからく』は『すべて』の意味じゃないよw」「うるせえなそれで通じるんだからどうでもいいだろ」、という一見無益な論争は、それを想起させてくれる貴重な瞬間なのだ。
或いは広島と長崎への原爆投下前にアメリカがそれを予告し避難を勧告するビラを撒いていたという歴史的事実があるが、何かの流れでそれが言及された時、そこにいた一人がそんなわけがない、俺は広島出身で親戚に被爆者がいるがそんな話はついぞ聞いたことがない、戦後にアメリカが言い逃れのために作り出したデマに決まっている、と躍起になって否定し始めて、参ったなこりゃどうしたもんかなという空気になったことがある。とは言えそれは、彼が広島県民或いは被爆関係者としてのアイデンティティを形成する一つの場面に立ち会ったのだと考えれば、ファクトベースでものを考えることのできない意固地な姿勢とのみ断ずるのは礼を失したことで、俺としてもそうそう軽く忘れ去ってよいものではないと思っている。
そして、冒頭に述べたように言葉というのはまさにそうした自明的な共同性や本来性の最たるものである。阿部共実『潮が舞い子が舞い』1巻5話に、「ボボンガ!」から始まる新しい挨拶語の体系を仮構する場面がある。……って何言ってるのか分からないと思うが、説明すると長くなるのでこれはもう実際に読んでいただくとして、一人の女子高生が「ボボンガ!」を挨拶語として提案し、それが当然社会に受け入れられないまでの経緯を、この1話は、これ以上ないくらい明晰に説明している。言葉を誤用するのもまた誤用を論うのも、或いは新語を導入するのもそれを批判するのも結構なことなのだが、そうした場面においては、人間社会が、と言うより人間そのものが、言葉によって成り立っているという事実がまた同時に浮かび上がって来る。この点だけは見失ってはいけない。「『すべからく』は『すべて』の意味じゃないよw」「うるせえなそれで通じるんだからどうでもいいだろ」、という一見無益な論争は、それを想起させてくれる貴重な瞬間なのだ。
│雑記