2024年05月13日 18:08
哲学とはどういう学問か
またぞろ幻覚が見えるようになってしばらく入院していたカスみてえな人間が書くような記事ではない大仰なタイトルなのだが、ともあれ、俺一人にとってはごく自明で誰でも分かっている話だと思っていることが、世間一般では案外そうでもなくて一から説明しなければならない、みたいなことは間々あって、そういうのは一応言語化しておいて損はなかろうとも思うので簡単に書いておく。
会社員をやっていた頃、或る日の昼休み、俺が哲学科卒だという事実を聞きつけた同僚が話しかけてきた:「自分は心理学に興味があって最近はNLPなんかを勉強している、ところで哲学というのは心理学とはまた別のものなのか?」そりゃまあ別のものだから大学でも学科が分かれているんでしょうね、と一と言で済ませても良いし、或いは工学的心理学(cf. 小出もと貴『サイコろまんちか』 ― 工学的心理学と陰キャの青春)に対する俺の不審の念を長々と説いても良いのだが、情況的にそれらはいずれも相応しくない気がしたので、「哲学の一分野が或る時代から心理学として分化したという感じですかね?」とかなんとか答えてお茶を濁した。俺はそういう日常会話をちゃんとこなせる立派な社会人であった。
哲学とは何を対象とし何を目的とする学問か? 例えば「人はいかに生きるべきか」といった本質的な問題を扱うものだ、といった通俗的な理解があるが、哲学プロパーの立場からするとそれは倫理学という哲学のサブジャンルが対象とするもののようでもある。或いは「経営哲学」とか「◯◯監督の野球哲学」「◯◯名人の将棋哲学」といった言い回しも目にすることがあるが、これは「哲学」などと勿体ぶった言葉を使う必要もなく、「思想」とか、場合によっては「信念」とでも言えば良いだけのことである。
Philosophyは古典ギリシア語φιλοσοφίαに由来し、直訳するなら「知を愛すること」なのだが、日本では明治時代に多分西周辺りが哲学という訳語を宛てた。「愛知学」とか言うと味噌カツの匂いがしてくるとかいった事情があったのかも知れないと俺は推察するのだが(違うと思うが)、とにかく狭義の「哲学」は古代ギリシアに端を発しその後もヨーロッパ世界のみで生い立ってきたという、歴史的・地理的にごくローカルな学である。中国哲学、インド哲学といった言葉もあるが、英語のPhilosophyはやはり「思想」と訳した方が良い場面が少なくない。
さて哲学者アリストテレスは万学の祖と呼ばれ、確かにその著作は今で言うところの政治学、倫理学、論理学、弁論術、生物学、博物学、天文学、美学etc.を網羅している。ひとえにアリストテレスの天才によるものと言って何も差し支えはないのだが、しかし古代ギリシアにおいて「哲学者」は何しろ「知を愛する」ことを生業としていたのだから、寧ろ含まれない分野がない方がおかしい。ソクラテス以前の賢人(σοφός)も、ソフィスト(σοφιστής)も、自然哲学者たちも、自分が「哲学」という専門領域をやっているという意識はなかった。
知を愛するからには、この世界が何から出来ているか、星辰の実体は何か、神とはいかに定義されるかといった根本的な問いを探求せねばならない。そして数百年に及ぶこの知的探求を集大成したのがアリストテレスだったと、まずは言えるだろう。ところがその後個別学問というものが生まれる。例えば天体なら天体、数なら数を専門的に扱う人々が、少なくともギリシア後期には現れる。この動きは時間のかかったもので、例えば中世スコラ神学の深く昏い森を抜けて近世哲学の端緒を拓いたデカルトも、解析学や光学や生物学に功績を遺している。ヨーロッパにおいては近代まで知識人たるものギリシア・ローマの古典は必須の教養だった(大英帝国の植民地の縮図と言うべきH・G・ウェルズ『モロー博士の島』〔1896〕で、モローがプレンディックに一種の暗号としてラテン語を用いて呼びかける場面などが想起される)。だから大学に行くような奴は当然「万学」に通じていて然るべきなのだが、やがて、現実にはなかなか、そうも行かなくなってくる。
とりわけ仮説と観測・実験というやり方が普及し個別科学の研究が深化し、一人で知の全分野に立ち向かうことが難しくなり、更に近代的な大学という制度が整ってくると、アリストテレスが一人でやった諸学はいよいよ独立した学問分野となる。数学者は数学を、化学者は化学を、美学者は美学を論じていれば良いということになる。
俺は西洋思想の基本的なアイディアはアリストテレスで全て出尽くしていて後はその変奏に過ぎないと考えるほどの古典信奉者だが、そこから辛うじて一歩か二歩かを進めた者を敢えて挙げるならカントとヘーゲルだと思う。アリストテレスの哲学が「正しい考え方の道筋を辿って真理に到達する」ことを追求していたとするなら、カントは「人間が正しく考えられることの限界はどこにあるか」という問いを立てた。これは劃期的である。また従来の哲学が、世界はいかに生成するか、人間の本性とはいかなるものかといった普遍的=無時間的な問題を扱ってきたのに対し、ヘーゲルは個別具体的な歴史という要素をその哲学の根幹に導入した。
とまれかくして、個別科学を次々と剥ぎ取られて行った末に残った部分が近代以降の哲学ということになる。冒頭に述べたように例えば心理学を哲学の下位学問やサブジャンルと解することはできるのだが、「では哲学とは何を扱う学問なのか?」と問われた時に、あれでもない、これでもない、あれやこれを引いた残りの部分が哲学ですとしか言えないのは、些か心許ない気もしてくる。
例えば古生物学で人類という種を研究するとなると、考古学者が色々な土地から発掘した色々な時代の人骨を並べて、それぞれのDNAを分析することになる。DNAの複写の過程では確率的にエラーが発生することが分かっているので、例えば100番目の箇所に変異が発生している人骨が複数あればそれらを一つのグループとする。変異は次世代にも複写されて遺るので、その中で更に200番目の箇所にも変異が発生している人骨が幾つかあれば、それはより後の時代の個体ということで、またサブグループとして括る。この操作を続けると、30万年前に原初となるホモ・サピエンスがアフリカで誕生してから何万年後にどの地域まで移動したかが時空間的にプロットでき、これに考古学の知見を合わせると人類の誕生から「出アフリカ」、そして全世界への歩みが科学的に裏付けられることになる。しかしこの考え方は正しいのだろうか? 実際のところ、それは「自然は最も効率的な働き方をする」という何の根拠もない前提や信念に基づいた操作ではないのか?
無論古生物学者もその程度のことは考えるので統計的な補正を加えたりするのだが、それはもう古生物学ではなく古生物学の方法論を批判的に検証するメタ古生物学である。そしてこれは凡そあらゆる個別科学において行われる。歴史学の方法を考えるメタ歴史学、数学の方法を検討するメタ数学といったものが必ず発生する。柳田國男はどの著作を読んでも、民俗学を論じながら常に民俗学研究の方法を同時に論じている。
個別科学間には基礎づけの関係というものがある。出所をたずねたことはないのだが以下のイラストは何度か目にした:
社会学は心理学の適用で、心理学は生物学の、生物学は化学の、化学は物理学の適用で、更にその果てでそれら全てを基礎づけているのが数学だという、まあ分かりやすい話である。
しかし古生物学のやり方を検討するメタ古生物学があるように、あらゆる個別科学、◯◯学には、メタ◯◯学が付随する筈である。勿論数学もその例外ではない。となると上図で一番右に来ている数学をも基礎づける学がある筈だ。別言するなら、凡そ学問が「考える」という営為である以上、「考える」こと自体を自己批判的・再帰的に検討する学がある筈だ。俺が理解する限りでは、少なくともカント以後の哲学がそれである。
……と、一と頻り書いたところでとっくの昔に同じことを言ってくれている人がいたことを思い出したのでそれを引いて終わろう:
哲学とは何を対象とし何を目的とする学問か? 例えば「人はいかに生きるべきか」といった本質的な問題を扱うものだ、といった通俗的な理解があるが、哲学プロパーの立場からするとそれは倫理学という哲学のサブジャンルが対象とするもののようでもある。或いは「経営哲学」とか「◯◯監督の野球哲学」「◯◯名人の将棋哲学」といった言い回しも目にすることがあるが、これは「哲学」などと勿体ぶった言葉を使う必要もなく、「思想」とか、場合によっては「信念」とでも言えば良いだけのことである。
Philosophyは古典ギリシア語φιλοσοφίαに由来し、直訳するなら「知を愛すること」なのだが、日本では明治時代に多分西周辺りが哲学という訳語を宛てた。「愛知学」とか言うと味噌カツの匂いがしてくるとかいった事情があったのかも知れないと俺は推察するのだが(違うと思うが)、とにかく狭義の「哲学」は古代ギリシアに端を発しその後もヨーロッパ世界のみで生い立ってきたという、歴史的・地理的にごくローカルな学である。中国哲学、インド哲学といった言葉もあるが、英語のPhilosophyはやはり「思想」と訳した方が良い場面が少なくない。
さて哲学者アリストテレスは万学の祖と呼ばれ、確かにその著作は今で言うところの政治学、倫理学、論理学、弁論術、生物学、博物学、天文学、美学etc.を網羅している。ひとえにアリストテレスの天才によるものと言って何も差し支えはないのだが、しかし古代ギリシアにおいて「哲学者」は何しろ「知を愛する」ことを生業としていたのだから、寧ろ含まれない分野がない方がおかしい。ソクラテス以前の賢人(σοφός)も、ソフィスト(σοφιστής)も、自然哲学者たちも、自分が「哲学」という専門領域をやっているという意識はなかった。
知を愛するからには、この世界が何から出来ているか、星辰の実体は何か、神とはいかに定義されるかといった根本的な問いを探求せねばならない。そして数百年に及ぶこの知的探求を集大成したのがアリストテレスだったと、まずは言えるだろう。ところがその後個別学問というものが生まれる。例えば天体なら天体、数なら数を専門的に扱う人々が、少なくともギリシア後期には現れる。この動きは時間のかかったもので、例えば中世スコラ神学の深く昏い森を抜けて近世哲学の端緒を拓いたデカルトも、解析学や光学や生物学に功績を遺している。ヨーロッパにおいては近代まで知識人たるものギリシア・ローマの古典は必須の教養だった(大英帝国の植民地の縮図と言うべきH・G・ウェルズ『モロー博士の島』〔1896〕で、モローがプレンディックに一種の暗号としてラテン語を用いて呼びかける場面などが想起される)。だから大学に行くような奴は当然「万学」に通じていて然るべきなのだが、やがて、現実にはなかなか、そうも行かなくなってくる。
とりわけ仮説と観測・実験というやり方が普及し個別科学の研究が深化し、一人で知の全分野に立ち向かうことが難しくなり、更に近代的な大学という制度が整ってくると、アリストテレスが一人でやった諸学はいよいよ独立した学問分野となる。数学者は数学を、化学者は化学を、美学者は美学を論じていれば良いということになる。
俺は西洋思想の基本的なアイディアはアリストテレスで全て出尽くしていて後はその変奏に過ぎないと考えるほどの古典信奉者だが、そこから辛うじて一歩か二歩かを進めた者を敢えて挙げるならカントとヘーゲルだと思う。アリストテレスの哲学が「正しい考え方の道筋を辿って真理に到達する」ことを追求していたとするなら、カントは「人間が正しく考えられることの限界はどこにあるか」という問いを立てた。これは劃期的である。また従来の哲学が、世界はいかに生成するか、人間の本性とはいかなるものかといった普遍的=無時間的な問題を扱ってきたのに対し、ヘーゲルは個別具体的な歴史という要素をその哲学の根幹に導入した。
とまれかくして、個別科学を次々と剥ぎ取られて行った末に残った部分が近代以降の哲学ということになる。冒頭に述べたように例えば心理学を哲学の下位学問やサブジャンルと解することはできるのだが、「では哲学とは何を扱う学問なのか?」と問われた時に、あれでもない、これでもない、あれやこれを引いた残りの部分が哲学ですとしか言えないのは、些か心許ない気もしてくる。
例えば古生物学で人類という種を研究するとなると、考古学者が色々な土地から発掘した色々な時代の人骨を並べて、それぞれのDNAを分析することになる。DNAの複写の過程では確率的にエラーが発生することが分かっているので、例えば100番目の箇所に変異が発生している人骨が複数あればそれらを一つのグループとする。変異は次世代にも複写されて遺るので、その中で更に200番目の箇所にも変異が発生している人骨が幾つかあれば、それはより後の時代の個体ということで、またサブグループとして括る。この操作を続けると、30万年前に原初となるホモ・サピエンスがアフリカで誕生してから何万年後にどの地域まで移動したかが時空間的にプロットでき、これに考古学の知見を合わせると人類の誕生から「出アフリカ」、そして全世界への歩みが科学的に裏付けられることになる。しかしこの考え方は正しいのだろうか? 実際のところ、それは「自然は最も効率的な働き方をする」という何の根拠もない前提や信念に基づいた操作ではないのか?
無論古生物学者もその程度のことは考えるので統計的な補正を加えたりするのだが、それはもう古生物学ではなく古生物学の方法論を批判的に検証するメタ古生物学である。そしてこれは凡そあらゆる個別科学において行われる。歴史学の方法を考えるメタ歴史学、数学の方法を検討するメタ数学といったものが必ず発生する。柳田國男はどの著作を読んでも、民俗学を論じながら常に民俗学研究の方法を同時に論じている。
個別科学間には基礎づけの関係というものがある。出所をたずねたことはないのだが以下のイラストは何度か目にした:
社会学は心理学の適用で、心理学は生物学の、生物学は化学の、化学は物理学の適用で、更にその果てでそれら全てを基礎づけているのが数学だという、まあ分かりやすい話である。
しかし古生物学のやり方を検討するメタ古生物学があるように、あらゆる個別科学、◯◯学には、メタ◯◯学が付随する筈である。勿論数学もその例外ではない。となると上図で一番右に来ている数学をも基礎づける学がある筈だ。別言するなら、凡そ学問が「考える」という営為である以上、「考える」こと自体を自己批判的・再帰的に検討する学がある筈だ。俺が理解する限りでは、少なくともカント以後の哲学がそれである。
……と、一と頻り書いたところでとっくの昔に同じことを言ってくれている人がいたことを思い出したのでそれを引いて終わろう:
「或人は哲学に対して余りに多くの期待を持ち哲学とは他の諸科学の窺ひ得ざる、実在の隠れたる秘密を明かにするものであるとか宇宙の原因や死後の生活について我々に慰安を与へるものであるとか考へてゐる。然しかゝることは哲学のなすべきことでなく、又なし能はざる事であらう。現代の哲学の問題は種々なる学問の據つて立つ基礎を明にせんとするにある。」(西田幾多郎『現代に於ける理想主義の哲学』、大正6=1917年)
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