2024年12月28日 18:42
2024年12月31日
さて恒例(2回目)の、今年1年を振り返ってみましょう記事である。金払ってドメインを維持しておきながら今年やっと3回目の更新とかおかしいんじゃねえの、とは俺が一番言いたいのだが、まあ色々あるにはあったのである。
2024年は結局3回入退院を繰り返すという酷い年になった。特に8月からは、えらい山奥にある(容易に脱走できない)頭の病院に3ヶ月間入っていて、PCは持ち込み禁止だったのでスマホでXにぽちぽち書く程度のことしかできなかった。
3ヶ月入院して何かが治ったわけではない。頭の病気はどうもそういうのが多い気がする。とは言え世の中には、糖尿病みたいに(医学的な定義上)「完治しない病気」というものは幾らでもある。花粉症だってそうだぞ。しかしまた同時に、鏡花の(DSM-5で言う)強迫症などを例に引くまでもなく、それと適度な距離感で付き合って騙し騙し生きて行くという道もなくはない。加えて俺は、自分にとって未知だった肉体的なり精神的なりの苦痛を味わうのも、勿論避けられるものなら避けたいが、避けられない場合には存分に味わっておくのが愉しい人生だと思っている。
ということで以下箇条書きである:
3ヶ月入院して何かが治ったわけではない。頭の病気はどうもそういうのが多い気がする。とは言え世の中には、糖尿病みたいに(医学的な定義上)「完治しない病気」というものは幾らでもある。花粉症だってそうだぞ。しかしまた同時に、鏡花の(DSM-5で言う)強迫症などを例に引くまでもなく、それと適度な距離感で付き合って騙し騙し生きて行くという道もなくはない。加えて俺は、自分にとって未知だった肉体的なり精神的なりの苦痛を味わうのも、勿論避けられるものなら避けたいが、避けられない場合には存分に味わっておくのが愉しい人生だと思っている。
ということで以下箇条書きである:
- 3ヶ月の長期入院のために長持ちしそうな本を選定する作業はなかなか楽しかった。ディオゲネス・ラエルティオスは勿論鞄に詰め込んだ他、年頭に買ったデリダの講義録『生死』も持参して何周か読み返した。1975-76年の講義で、主題的にはフランソワ・ジャコブ『生命の論理』を読み込み、(既にジャコブが言及している)ウィーナーのサイバネティクスやシュレディンガーのエントロピーの概念を援用しつつ遺伝子というプログラムをエクリチュールとして、そして生死の論理を差延の論理として解釈する、といったもの。
- 『齋藤史全歌集』も持ち込んで、延々読んでいた。俺が持っているのは1979年版で『渉りかゆかむ』も『風翩翻』も収録されていないやつだが、この一冊で昭和という長い時代を生きた歌人のありようは深く理解できる。そして、何度読み返しても第一歌集『魚歌』の衝撃は今以て衰えない。当時の人はこの衝撃をどう咀嚼したのかと思ってしまう。例えば「新風十人」繋がりで言うと前川佐美雄なんかも、リアタイ勢の(回想ではない)反応をディグりたい。
- ちなみにその後たまたま(別に「女流歌人」繋がりといった意図はなく)与謝野晶子を読み返す機会があったのだが、俺の中でこの人の評価は極めて低い。特に、『太陽と薔薇』辺りまでだろうか、いい歳をしていつまで少女趣味じみた恋を歌っているんだという苛立たしい感想しかない。ロマン派と象徴派だからやっていることが違うといった話ではなく、どう読んでも齋藤史の力が圧倒的なのである。
- マンガは『刃ノ眼』がずっと面白い。厨二能力バトルの面白さを煮詰めて煮込んで煮出したような作品だが、ストーリーテリングの上手さ、毎回の引きの妙、全ネームドキャラにきちんと見せ場を与える手腕等、未だに凡庸な能力バトルを描き続けている作者と編集者は本当にここから学んでほしい。
- 住吉九『サンキューピッチ』には驚かされた。そもそも『ハイパーインフレーション』一作を描いて姿を消しても不思議はないタイプの作家だという勝手なイメージを抱いていたのだが、早くも新連載が始まり、しかもそれが野球マンガなのである。俺は野球の基本的なルールすら知らず、猛暑の中を丸刈りの高校生が死にそうになりながら玉を投げたり棒で打ったりする野蛮な遊戯という認識しかなく、というか殆ど憎しみの対象ですらあるのだが、『サンキューピッチ』はそれを題に取りながら毎話確実に面白いのである。
- 旧作で言うと玉井雪雄『オメガトライブ』『オメガトライブ キングダム』を実に久し振りに読み返した。ジョジョはもうあれは別枠の存在なのでどうでもいいとすると、『オメガトライブ』はひょっとして俺が一番好きなマンガかも知れない。ウイルス進化というガジェット、能力バトル、ポリティカルシミュレーション、ところどころに時事ネタとギャグ、そして梶くんという強烈なキャラ。更に『キングダム』での、桜印の分裂と桜一郎の暗躍、各国オメガの熾烈な腹の探り合いが展開される群像劇。俺の好きな要素全部盛り。
- いやそれを言い始めると俺って『DRAGON BALL』も実はちゃんと通して読んでないんだよな……現代日本に生まれておきながらお恥ずかしい限りだ。『HUNTER×HUNTER』『ONE PIECE』『BLEACH』『NARUTO』辺りも、遥か後追いで読もうと思い立っていずれも挫折した。或る作品に出会うべき或る年頃というものがあるということを痛感する。
- 要するに中学生の或る時期に『週刊少年ジャンプ』から『週刊スピリッツ』に移行したというだけの話なのだが、当時『サルでも描けるまんが教室』をリアルタイムで読んだのは決定的だった。膨大な知識量と情熱をベースとしてマンガならマンガという対象を語るというその態度から、小林秀雄もロラン・バルトも読んでいなかったガキは批評という行為の本質を叩き込まれた。
- ちなみにそれと同じ時期、なぜか俺が買うCDには高確率でピーター・バラカンのライナーノーツが付いていて、『サルまん』と並んで大いに影響を受けた。――今回の入院中はポケットWi-Fiを使っていて、残り通信量に日々ビクビクしていたので音楽も余り聴けず、その腹いせということもないが退院後には色々聴いたのだが、新作では正直ピンとくるものがなかった。で、そうすると音楽的記憶を遡る旅に出てしまう。例えば:
- これもXに最近書いたばかりなので恐縮なのだが、グールドのゴルトベルク1964年というのを今更初めて知った:
- 楽器単位で言うならグールドのピアノとオルガンから一時期セロニアス・モンクにハマり、次いで当時リイシューされたベイビー・フェイス・ウィレットには本当にドハマりした。好きすぎてアナログも買って、ビデオカメラが手許にあったのでこれをBGMに映像作品もどきを作った記憶がある……がもう忘れた。
- とまあ色々書いてしまったが、音楽について語るということは本当に難しい。それこそ飲みの席で「このアーティストが推しで」「これマジ名曲なんすよ」といった会話は発生するし、その場でスマホで再生して聴かせる人もいるのだが、俺の経験上、そこから話が広がることは余りないように思う。つまり「へーこういうのがあるんだ」「私もこれ好きなんですよ」程度の応答しか続かない。にも拘らず、そうと分かっていても、人は自分の愛する音楽について語りたくて仕方がない。
これは、俺の仮説では19世紀ヨーロッパにおいてロマン主義が生み出した情動で、ショーペンハウアーやその圧倒的影響下から出発したニーチェ、或いはトルストイ『クロイツェル・ソナタ』に代表されるような、音楽が個人の内奥や本質に深く関わるものだという観念が未だに尾を引いているためではないかと思う。 - 仕事は確か2案件やって4月が最後で、以後は入退院を繰り返していたため本当に何もしていない。一応フリーランスのITコンサルタントという世の中で一番怪しげな看板を掲げてはいるが、要するに引き合いがなければただのニートなので、なかなか不安ではある。
- が、この不安というのも悪くはない。結局のところ誰にだって、生きていれば良いこともあれば悪いこともある。死の時に至らなければ人生の幸不幸は分からないのである(ヘロドトス1.32)。若い頃は「良いこと」の方を目指すのが正しいと何となく思わされていたわけだが、最近は、考えてみれば一度きりの人生なのだから快も不快もテッペンもどん底も全部味わってみないと損じゃないか、みたいな発想になってきた。だから先述の通り、未知の肉体的なり精神的なりの苦痛を味わうことも、俺は必ずしもネガティブには捉えていない。
- セキュリティインシデント、とりわけランサムウェアについては数年来見かける度にEvernoteにクリップしていたのだが、もう最近は多過ぎて諦めかけている。「皆さんもご承知の通りランサムウェアの被害が多発しています、侵入経路も多様化しています」とだけ話の枕として振って済ませて、そこから先どう論を繋ぐかを商品価値にするしかない。
- ちなみにゼロトラストをNIST SP 800-207の理念にしっかり沿って実装できている組織は、当然ながら、未だ見たことがない。Forrester Researchがこの概念を提唱したのが2010年、SP 800-207が2018年と時間だけは経っているが、まあ何しろ抜本的なパラダイムシフトなのでインフラレベルから全部変えないとって話になっちゃうわけで、現実的には漸進的に移行するしかないんだよね。
- それを言い出すと量子暗号も「実用化が目前!」って随分前から聞かされていい加減狼少年っぽい印象があるな。でもNISTは量子暗号が実用化された後、ポスト量子を想定した研究をとっくに始めていて、来年どころではない鬼が爆笑するような話ではあるのだが、まあやっぱりアメリカその辺は凄いよなと素直に感心もする。
- 仕事でコードを書くことはもうないんだけど(というか元々プログラマーという肩書で仕事をしたことがない)、一応IT屋の端くれとしてプログラミング言語の発生と発展にはそこそこの注意を払っているつもりである。Perl大好きっ子だったけど今では全く見かけなくなって寂しい。C++に関してはParallelismとか言い出した辺りでもう無理だと判断して切った。何やかんやでJavaとPythonになっちゃうんだよな。
- そういえば、これは一昨年の話になるのだが、(俺にとって)新しい言語としてVBAというのを初めて書いた。なんかコンサルティング支援ツールみたいのを作ろう、最終的にはJava辺りで作ってAWSか何かに乗せるとして、まずは経営層に概念を理解させるためにプロトタイプだけ作ろうという話があって、Excelで集計してWord形式でレポートを出力できれば良いらしいので、俺がそういうマクロを書いた。ところが言い出した奴が社内のキーパーソンを巻き込めなくて結局その件はポシャって、俺は無償労働をさせられただけになって今でも大いに怨んでいる。そして、会社員ってすげえよな、何のプロフィットも生み出さなくても取り敢えず出社してれば月給が保証されるんだからな……と思い知った。
「諸々の要素は交換によって結合していて、これらの交換はまた、情報の交換であると同時に、物質とエネルギーの交換でもある、ということです。」(p.155)全講義を通じて常に念頭に置かれているのはニーチェだが、そこからフロイト『快感原則の彼岸』の精緻極まりない読解に入る最後4回はまさに白眉で、粘り強い高速の思考がたまらない。
「情報がエントロピーと不可分である以上、そして情報だけでなく物質やエネルギーの交換も存在している以上、交換しか存在していないのです。」(同上)
「(……)系が閉ざされていれば、熱力学第二法則に従って、乱雑さと損壊は増大していくでしょう。生き物は、かつての秩序を取り戻し、先にあった秩序を保持しようとするかぎり、けっして閉鎖系ではありえないのです。」(p.159)
"Virgin Beauty"は確か中学生の時に初めて買ったジャズのCDだったと思う。フリージャズという概念すら知らないガキがなぜこれを選んだのかは謎だが、確かピーター・バラカンが推奨していた筈である。ともあれこの曲なんかは非常に分かりやすく、特に後半でベースとギター(ジェリー・ガルシア!)が追っ駆け始める疾走感なんかは、ロック小僧にも響くものがあった。
1955年版を聴きまくってバッハの世界に沈潜し、ロストロポーヴィチの『無伴奏チェロ組曲全曲』も何度も聴き、だからアテネ・フランセで観たストローブ=ユイレ『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』には大感激してしまった。
はい、そんな具合です。とにかく今年は家に住んでいるのか、病院に住んでたまに家に立ち寄っているのか何だか分からない1年だったので、余り振り返るほどのこともない感じなんすよ。
│雑記