2025年01月06日 08:47

おう精神科医ども、てめえらハラ括ってんだろうな?

新年の抱負(New year's resolution)みたいのとは特に関係なく一応企んでいることはあるのだが、何しろ昨年は入院と通院で潰れて極度にインプットが減った年であったため、まずは色々と取り戻したり立て直したりする必要があり、お蔭でなんだか後ろ向きの、過去を回想するような話が多くなってしまう。

そういや一昨年末(2023年12月31日)に、「年末に読んでいる本でその年の読書傾向が推し量れる、というさっぱり根拠のない迷信が俺の中にはあって」云々と書いたけど、先日つまり昨年末(2024年12月31日)のエントリではそこに触れてなかった。誰も興味ないだろうけど遅ればせながら補足しておくと、読んでいたのは保田與重郎である。この人は、とにかく何が言いたいのかさっぱり分からない。日本浪曼派の首領で太平洋戦争の時には煽りまくって、従って戦後はそれを糾弾されつつなおスタンスを一切変えなかったところは立派だと思うが、また実際はそんな神格化するほどの文学者ではなく、もっと胡散臭い売文屋みたいな感じで捉えても良いのではないかという気もする。ただ、例えば仕事とプライベートで日本全国各地を経巡った今になって「戴冠詩人の御一人者」を読み返すと:

又彼らは日本人の旅心に、西南へゆくうれしさと、東北へゆくかなしさの二つあつたことを忘れてゐる。

なんて一節が実感を伴って理解できてしまい、そういう自分にも驚かされる。

……ともかく、2024年という年は、自分がもう完全に精神病者なんだなと理解する年であった。幻覚や幻聴は20代の頃からあったが、そんなのはそれこそ疲労やストレスによっても一時的に生じることがあるわけで、人間の精神において別段珍しい症状ではない。「普通」ではないから奇異の目で見られることがある、というだけのことだ。ただ近代資本制社会においては差異(=「普通」でないこと)が価値を生むので、精神病者の症例が或る種のエンターテインメントとして消費されることがある。それは技術革新やらイノベーションやらが絶えず強迫的に求められるのと同じことである。

しかし精神病者本人は幻覚や妄想の世界をとてつもない苦痛の中で生きている。俺は2022年に入院した際せん妄に陥り、出口のない地獄を必死で彷徨い続けるような日々を送った……って要は見当識障害なので実際には1日くらいだったのだろうが、しかしそういう他人の苦痛にタダ乗りしてマネタイズするという行為の是非は、やはり倫理的な観点から問われねばならないと思う。

概ね'90年代のことだろうか、「電波系」という言葉があった。要するに統合失調症とかで自分が監視されているとか思考が読み取られているとか思って頭にアルミホイルを巻くような人たちを面白がってエンタメとして消費するやつで、俺はあれがすごく嫌だった。同様の理由で、「アウトサイダー・アート」「アール・ブリュット」という括りについても、俺は懐疑的である。

当時、(少なくとも自称)精神科医が書いているホームページがあって、それにも同じ印象を抱いた。詰まるところ常軌を逸した妄想って外から(「普通」の立場から)見る限りは面白い、それは否定できないんだけど、しかし仮にも医者が、それをエンタメとして提示することは倫理的にどうなのよ?という不信感があった。別例として、これは固有名を出してしまうと、香山リカが著書で自分が診た患者の症例をすげえべらべら喋っていて、これ大丈夫かよ、とよそながら心配になったこともあった。

或いは、これはいよいよ詳述したくないのだが、電気グルーヴの「電気ビリビリ」のリリックで、レコーディングにおいては「下着マニア」に直されていたと思うが元は「死体マニア」という一節があった。「なんだお前も死体マニアかよ それなら最初に言ってくれよ この前渋谷で見つけたんだよ 美味しい死体を食わせる店を」。しかもこのリリックでのライブが普通に地上波テレビで流されたことがあり、今にして思えばとんでもない時代であった。

そんな感じで俺は「電波系」というサブカルの流行には乗れなかった(乗らなかった)し、それは正しい判断だったと今でも思う。後年、入間人間『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』(2007年)というラノベを読んで心底嫌な気分になったのも同じで、ああいう「ロマンチックな狂気」の物語を書くに当たって、作者は社会的責任とまでは言わずとも少なくとも極めて慎重ではあるべきだと俺は思う。

とは言えまた一般論としては、社会は表現の自由を最大限保障するべきだとも信じている。多分このどっちつかずな態度には、『雫』(1996年)の「扉を開いてしまった月島さん」の条りから受けた決定的な衝撃が関与している。「狂気という世界の扉を開いてしまった美少女」という、フェミニズム・精神医学・社会正義といったあらゆる方面から容易に批判が可能なワンシーンだが、ただ審美学という一点において俺は絶対にこれを否定できない。

ruriko

更に新宮一成『無意識の病理学』(1989年)の、とりわけ「メランコリーと故郷喪失の幻想」には当時強い影響を受けたが、理論的な側面(ラカンの学説のお勉強)以上に、この一編の論文の全体が、最終的には自殺してしまった症例の男子大学生に対する追悼になっていることに俺は心の底から感動した。当たり前だが、香山リカなんかとは格が違う。

今の俺は、目を覚ますとまずは部屋の壁を見て、幻覚が生じていないかを確認することが日課となっている。見えた時は、ああまたコレか、と溜息を吐きながら頓服薬を飲む。自分の幻覚や妄想についてはXとかで多少語ってきたし、それがエンタメ的に消費されることは自己責任において引き受けるつもりである。ただお医者様という肩書を有する連中がその種の語りを論文や著書に使って、カネを稼いだりキャリア上の実績とすることには、相当な覚悟が必要な筈だと思っている。他人の不幸を下敷きにしてテメーが何やってるのか、当然分かってるんだよな?



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