2025年01月14日 11:44

マンガについての極めて乱雑な振り返りと心許ない現状把握、そして社会正義について

数日前に書いた記事のことを思い出して補足が必要だと感じ、新しい記事で書き足して、でも別にその過程で議論が深まったりするわけでもないという、なんかダメな秘伝のタレみたいな非常に頭の悪い更新が続いてしまって恐縮なのだが、そこはまあほら、キチガイなんだからしょうがないよねということで大目に見てください。


2024年12月31日に以下のような趣旨のことを書いたわけだが:
  • ハンタもワンピもブリーチもナルトも、更にはドラゴンボールすら実はちゃんと読んでない。
  • 但しジョジョは別枠の存在。
  • 好きなマンガというとオメガトライブである。
書いてみて、ん?これって要するに、俺はジャンプ(系)のマンガが好きじゃないってことじゃないか?という可能性に今更想到した。

最も典型的な例が『キン肉マン』だろう。あれは何やら小学生男子に非常に刺さる作品であったらしく、実際当時のクラスの男子はみんな読んで(そしてアニメを観て)いたが、俺はさっぱり惹かれなかった。ちなみに『キン肉マン』の後で『SCRAP三太夫』という連載が始まったのだが、俺は第1話を読んだ時点でああこの作者は本当にバカなんだな、付き合ってられるかと思ってジャンプを放り投げた。その「バカ」であるところがゆでたまごの強み、価値、差別化要因だと理解するにはまだ知識と経験が足りなかったわけだが、とは言えそれを理解したからといって『キン肉マン』が面白いとは未だ一切思えない。

いや勿論ジャンプ掲載でも好きな作品は幾つもある。『DEATH NOTE』は後追いで読んだが大いに感心した。ただ、あれは内容的には寧ろ青年誌寄りで、にも拘らずそれがジャンプに載ったという事実がその衝撃の幾分かを成していることは否定できないと思う。或いは比較的最近の例で言うと『あかね噺』は、連載開始時の本誌の表紙を見た瞬間に「あ、これ絶対面白いやつだ」と思った(そして実際面白い)。なんか、デスノの連載開始時の表紙が当時、(『週刊少年ジャンプ』という雑誌においては)大変衝撃的だったという話は複数回聞いたことがあるのだが、それに近いものかも知れない。

「別枠の存在」であるジョジョは確か2部のサンモリッツの辺りからリアタイで読み始めたのだが、いつも後ろの方に載っていて、つまり恐らくは打ち切りが危惧される位置にあって、実際周りでも読んでいる奴は少なかった。ジョジョがあれだけの巨大コンテンツとなった今となっては俺自身ですら理解しがたい気がしてくるが、一応同時代の証言としてここに書き付けておく。

――といった具合で『週刊少年ジャンプ』に掲載されたものの中で俺が好きなものをぽつぽつ振り返ってみると、いずれもジャンプでは傍流に位置する作品に行き当たるようである。周知のように「ジャンプ漫画」としか呼称しようのない一群の作品または傾向が存在するわけだが、詰まるところ俺には今も昔もそれが合わないようなのだ。そのため今で言うと例えば『カグラバチ』にも、「果たして俺はこれが読めるのか?」みたいな気分で接してしまう。そして『あかね噺』には頑張ってほしいです。

で或る時期からジャンプではなくスピリッツを買って読むようになったのだが、この間の経緯はどうも詳しく思い出せない。『サルまん』の衝撃があったことは間違いないのだが、ではスピリッツ系の作品が、或いはスピリッツという雑誌が好きだったのかと問われると、それは確実に、そうではない。『オメガトライブ』は偶然その中で拾い上げたと言った方が正しい。単純に、雑誌ごとのカラーで選別していたわけではなかった、ということなのかも知れない。――が、また、『モーニング』や『アフタヌーン』も立ち読みはしていて、とりわけ後者には割と尖ったタイプの作品が多くて好きだった気がする。背伸びしたい年頃だったからという解釈も出来るが、しかし現在最も好きなマンガ家の一人である熊倉献もアフタヌーン出身なので、やはり何か、雑誌ごとのカラーとそれに対する俺の嗜好の合う・合わないはあった(ある)ようにも思える。

或いは、『孤独のグルメ』(1994年~)も当時の俺はグルメ漫画というよりも『歩くひと』(1990-91年)の系列で捉えていた。ところが今ではなんか実写ドラマ化(2012年~)されて長らく人気らしくて、俺もアマプラで数話観たことがあるのだが、完全な読み替えが行われていて結構驚いた。すなわち、井之頭五郎がどこかの飲食店にふらっと入ってメシを喰う、単にそれだけ、という大枠は同じなのだが、原作だと店の感じがちょっと合わないなあとか、注文しても思っていたのとは違う感じの料理が出てきたなあとかいったエピソードの方が多く、明らかに、グルメ自体というよりも「中年男性の上手く行ったり行かなかったりする日常」の描写が主眼となっていた。ところがドラマでは、(実在の店舗を使っているため、という事情は勿論あるだろうが)グルメ自体がフォーカスされている。聖地巡礼とか称してその店に行く視聴者もいると聞く。別にそうした形での受容を否定するつもりは些かもなく、原作原理主義者ではなく、ていうかこの作品自体そんな思い入れも何もないのだが、とにかく一つのコンテンツが十数年でここまで変容したことには、或る感慨を抱かざるを得ない。

ちょっと話は逸れるがこの「十数年」の過程には所謂テキストサイト、具体的には「Black徒然草」のレビュー(2006年)が大きく介在していたと俺は思っている。――或る作品について自分が知らなかった新しい読み方を教えてくれるというのは批評の大きな効用の一つで、例えば俺は学生時代に成瀬巳喜男(及び、その美術監督を務めた中古智)に関する蓮實重彥の講義を聞き、「そんな映画の観方があったのか」と、まさに蒙を啓かれた。最近で言うとピエ郎チャンネルのレビューも俺は「批評」だと思っている。それらと同じ意味で「Black徒然草」のこのレビューは間違いなく「批評」であり、例えば「こういうのでいいんだよ」という変哲もない台詞がネットミームと化し定着したという事実に、人は批評なる行為の意義を見出すべきであろう(この辺については「批評家気取りについて、または文部科学省による身体障害者差別について」等も参観されたい)。

さて同じ時期における「事件」として決して忘れられないのは、『ちびまる子ちゃん』(1986年~)である。少女漫画誌の連載作品ということで俺は普通なら読む機会がなかった筈なのだが、姉が読んでいるのを貸してもらって、これはとんでもない作品だと思った。そしてTVアニメ化(1990年~)され中学生はみんな夢中になって観ていた。男子と女子が共通の話題で盛り上がれるという、それまでに経験したことのない異常なコンテンツだった。が、次第に過去のマンガ作品に触れるようになっていた俺は登場人物の名前が花輪和一、丸尾末広、みぎわパンといった『ガロ』系のマンガ家へのリファレンスであることに気付き、しかもそれが一切察知されることのないまま人気マンガとして、或いはファミリー向けの健全なアニメとして日本中に広がって行くさまに或る興奮のようなものを覚えていた。

さくらももこの達成とは詰まるところ、前回書いた「電波系」に繋がる、『ガロ』を含む'80年代サブカルチャーの嫌らしい感性(豪雨による洪水で死者も出ている中で笑顔で記念撮影をする等)を『りぼん』に持ち込んだという一点に絞られると俺は思っている。これは彼女のエッセイを読むといよいよ明らかで、詳述はしない(したくない)が、胸糞悪いエピソードが理解しがたいほどの上機嫌で語られていたりする。この点については、昨今では批判も目に入るようになってきた。それは恐らく、小山田圭吾(コーネリアス)が小中学生の頃に同級生の障害者をいじめていた話を'90年代にインタビューで得々として語り、それが改めて炎上して2021年東京五輪の作曲担当者を降板させられたこととも並行する事態で、俺は実に良い世の中になったものだと思っている。

――所謂「リベラル」寄りの思想の持ち主は、しばしば「進歩」イコール善であると驚くほどナイーヴに信じ切っている。嘗て、カナダで首相に就いたトルドーは男性15人・女性15人で組閣し、その男女比率の理由をメディアに問われると"Because it's 2015"、意訳するなら「今じゃそれが当たり前だろ?」とドヤ顔で答え、世界中のリベラル勢はこれを絶賛した。その後のトルドーの仕事ぶりについては何も言うまい。しかし、思想的には若干(もしくは、思ったままに話したら恐らく大方の人間がドン引きするレベルで)「右」寄りである俺からすると、こういうのは単なる知的怠慢としか見えない。

とは言えまた、さくらももこや小山田圭吾、「あの頃」のサブカルが、リベラルな観点から真っ当な批判に晒されるようになったのは確実に社会的に良いことだ。こんな問題と並置するのはちょっと躊躇われるが、1950-60年代の米国における公民権運動とその成果が現代史における一つの転換点であったことは確かなのである。

さてまたしかし同時に(この問題については右と左を行ったり来たりせざるを得ないのである)、これまた前回触れたことの繰り返しになってしまうが、社会正義という観点から表現が規制される、或いは表現者が自己規制をする現在の風潮には慎重に対処するべきだとも思う。例えばジャンプ+で連載されていた『バンオウ -盤王-』という将棋マンガがあって、まあ将棋マンガは『ハチワンダイバー』を超えるものはもう絶対に出ないと俺は思っているのでその主題についてはどうでも良いのだが、『バンオウ』で気になったのはその異常なまでのヘイトコントロールへの拘りである。

そもそも「ヘイトコントロール」という言葉・概念自体、出てきたのは多分ここ数年だと思うのだが、それが瞬く間に創作(マンガに限らず)において注意を払わねばならない点という扱いをされるようになった。つまり、一と昔前なら、読み手が自己同一化する主役(プロタゴニスト)は善であり、従ってこれに対する敵役(アンタゴニスト)には、読み手にとって「憎い」「悪い奴だ」「許せん」というネガティブな・攻撃的な感情を惹き起こすような設定を付与しておき、そして前者が後者を成敗することで物語のカタルシスがもたらされる、という作劇はごく一般的なものであった。平たく言えば勧善懲悪である。ところが現代の人間は、たとえ敵役に対してであってもそうしたネガティブな・攻撃的な感情を覚えることに気後れしてしまう。ダイバーシティ&インクルージョンの時代だからである。そこで世の作者たちは敵役や時にはモブまでをも含めたすべてのキャラが愛されうるように、少なくとも反感を買わないように、慎重に造形する必要がある。

これはとりわけギャグマンガの分野で先行して行われてきた創作態度ではないかと思う。ジャンプで言うなら例えば『ギャグマンガ日和』(1999年~)でも『いぬまるだしっ』(2008-12年)でも『斉木楠雄のΨ難』(2012-18年)でも、とにかく読者が不快に感じるキャラや展開だけは絶対に描かないという態度が一貫している。所謂「『燃える!お兄さん』職業差別事件」(1990年。→Wikipedia)をリアルタイムで知っている者としては、まあ隔世の感である。

ギャグマンガと単純に並べて比較するのが危険だということは重々承知した上で、しかし、例えばジョジョを読み返していると、もう本当に単純に「嫌な奴」がしばしば登場することに気付かされる。例えば『スティール・ボール・ラン』1巻(2004年)#1-2ではジャイロから20ドルをくすねようとしたチンピラが「鉄球」で返り討ちに遭う。これは物語論的にはジャイロの「鉄球」という能力の紹介を目的とするシークエンスであり、古典的な勧善懲悪の枠組みの中で進行し完結している。ところが続く#3では、入院したジョニィが看護人から売血のために血を抜かれるという回想が描かれる。ジョニィがこの看護人に何らかの反撃したとか、看護人が悪事の報いを受けたといった続きは一切ない。そう、これである。読者が自己同一化する対象であるジョニィにとって天災のように全く無意味に降りかかりそのまま姿を消す、読者に不快感しか残さないモブの看護人の描き方。これが今後確実に減って行き、いやひょっとすると二度と描かれ得ないのかと考えると、社会正義が表現の領域に課した不正義について俺は些かの異議を唱えたくなる。


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